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旅行記、世相独言

グループ・ツアーの泣き所 -トルコ-(異文化体験31 東西文明十字路の旅10)

2013年08月11日 18時38分38秒 | 異文化体験_中・東欧
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グループ・ツアーの泣き所 -トルコ- 98.08.17~08.26

 イスタンブール旧市街(http://jp.turtr.net/より)

 ツアーの序盤は古代遺跡巡り、中盤は世界自然遺産巡り、そして終盤は今なお東西文明の結節点の色合い濃い都市巡りと、今回のトルコ周遊の旅は充実したコストパフォーマンスの良い旅であった。

 ツアーには熟年夫婦の旅、仲間同士の旅、親子の旅、一人旅等々、様々な人たちが正に呉越同舟の旅をしようと集まる。

 そんな中でツアー・メンバーに親子ほど歳の離れた男女の二人連れがいた。当初、親子かな?と思われたがそうでもないことは、言葉使いや20歳前後と思われる女性の態度で分かる。中年男性がしきりに女性との会話の中に英語を挟んで教えようとしているようにも見えることから、塾の先生と教え子?などなど、ツアーの序盤はこの二人にどう接していいのか、皆さん戸惑っていた。

 ツアーでは団体行動をすることが多いので、自然と会話が当たり障りのないことから日が経つと少しプライベートなことに移っていく場合が多い。特に食事時がそうである。あまり社交的でないこの女性が一人で寂しそうにしていると、こちらで一緒に食事しない?と何かとお世話をしたがる。これが日本人の良い所でもありお節介な所でもある。当然同じテーブルで食事すると、二人の関係を探ろうとする何気ない会話が入り込む。

 邪視から守ってくれるというナザール・ボンジュー、お土産最適品

 旅も中盤に差し掛かった頃、ツアーの最年長夫婦に中年男性が文句をまくし立てている。その内容は、「昨晩、連れがみんなからいろいろ聞かれて胃が痛くなり、泣いていた。」ということらしい。これ以降、この男性の異様な行動が火に油を注いだようにエスカレートしていく。
「絶対、許せない。殺してやる。住所はどこだ、教えろ。・・・・・」
同行女性から執拗に誰がどのようなことを言ったのか、聞きだしては個別攻撃を時間・場所を問わずやりだした。

 海から見たトプカプ宮殿

 ボスポラス海峡の船の上は、若い女性の添乗員に対して「何とかしてよ!」とツアー客たちがキャビン内で詰め寄っている。添乗員が男性ならまだしもなのだが・・・。
小・中学生の親子連れ3人で来ていたお母さんは、恐怖に怯えて旅行どころではない感じ。
 そのうち、女房にも言いがかりをつけにきた。最初は相手にしなかったが、あまりのしつこさに女房も負けじと口論に。私にも「あんたの嫁は・・・」と言い寄ってくる。「俺には関係のない話。いい加減にしろ!極めて不愉快。お前にこのツアーを台無しにする権利がどこにある。いやなら個人旅行をしろ!」と言うと「住所はどこや、教えろ!」しつこく迫る。「いい加減にしろ!」と一喝すると引き下がった。
 結局、暴力的行為にまでは至らず何とか無事関空で解散となり、添乗員が関空でこの男女を足止めさす間に、皆さん大急ぎで夫々のルートで家路に着くことに。

 体験出来なかったハマム、残念!

 今回のこの大手旅行代理店は、参加者からのツアーアンケートの辛口評価にさぞ頭を抱えていることだろう。

 まさに、グループ・ツアーの泣き所である。


 

海峡クルーズとブルーモスク  -イスタンブール2-(異文化体験31 東西文明十字路の旅9)

2013年08月05日 10時59分42秒 | 異文化体験_中・東欧
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海峡クルーズとブルーモスク -イスタンブール2- 98.08.24

 ボスポラス海峡(上が黒海、下がマルマラ湾、エーゲ海、中ほど金角湾が見える)

 トルコ周遊の旅も今日がいよいよ最終日。
 午前中は「ボスポラスクルーズ」、ボスポラス海峡の長さは約30km、最狭部は760m。海から旧市街地の景色を堪能し、更に海峡を黒海近くまで遡って往復するツアーである。潮の流れは黒海からボスポラス海峡を経てマルマラ海に、更にダーダネルス海峡を経てエーゲ海に注いでいる。

 クルーズ船にて

 ガラタ橋近くのエミノニュ桟橋を出ると、眼前には旧市街地の街並みにトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク等が重なり合った重厚な景色が展開する。
 それらの景色が少し遠くなった頃に、左手に昨日入れなかったドルマパフチェ宮殿を海から眺めることになる。
 海峡には2本の橋が架かっているが、最初の橋がボスポラス大橋。往路の中ほどにあるのがファティフ・メフメット大橋。この橋の手前に1453年建造のルメリ・ヒサール(要塞)がある。

      
(左)イスタンブールの旧市街地              (右)昨日見学出来なかったドルマパフチェ宮殿

      
(左)遠くにファティフ・メフメット大橋(第2ボスポラス大橋)が。 (右)1453年建造のルメリ・ヒサール(要塞)

 黒海近くのキレキュブルヌという町で下船し、「Qulistan」というシーフードレストランで昼食。ここから遠望する黒海は波も荒く、正に黒い海である。

 黒海(左下にマルマラ海が覘いている Wikipedia) 

   
(左)黒海沿岸のシーフードレストラン「Qulistan」   (右)黒海沿岸にて(波が少し荒い)


 再びイスタンブールに戻って旧市街にある通称「ブルーモスク」、正式名スルタンアフメット・ジャミィを訪れる。
 このモスクは珍しく6本のミナレット(尖塔)を持ち、27.5mの大ドーム、4つの副ドームと30の小ドームを持つ1616年建造のオスマン建築の傑作の一つ。直径5mの4本の柱で大ドームを支え、内壁を飾るブルーを基調とするイズニック・タイルも素晴らしい。

 6本のミナレットを持つブルー・モスク(スルタンアフメット・ジャミィ)

           
(左)真近に見るモスクの威容          (右)巨大なドームを持つモスクの内部


 ローマ時代の大競技場の跡がヒプドロムという公園になっていて、3本の碑が立っている。最南端の26m高さの碑は、テオドシウスⅠ世のオベリスクと呼ばれローマ時代エジプト・カルナック神殿から運ばれたもの。真ん中が8mの青銅製の蛇の柱。最北端が切石積のコンスタンティヌスⅦ世のオベリスクで青銅板で覆われていたもの。

 ローマ時代エジプト・カルナック神殿から運ばれたオベリスク


 イスタンブールの旧市街地には、4世紀から6世紀にかけて造られた地下貯水池が何箇所か発見されている。
 その一つがトプカプ宮殿近くのイエレバタン・サルヌジュである。イエレ「地に」バタン「沈んだ」という意味。ローマの水道橋(ヴァレンス水道橋)からここに引かれトプカプ宮殿の水源となったようだ。140m(L)×70m(W)×8m(H)の地下空間を28本×12列336本のコリント様式の柱で創り出している。薄暗く夏は涼しい地下宮殿の一番奥にはメドゥーサの妖しい顔が2基横たわっている。

        
(左)イエレバタン・サルヌジュの入場券          (右)照明に浮かぶ幻想的なコリント様式の柱群

    
(左)メドゥーサの妖しい横顔(左が頭部、右が顎)   (右)巨大な地下貯水池は涼しくしばし休憩


 カパル・チャルシュ、屋根付き市場の意、日本語でグランド・バザール。
 中東最大の規模で、出入口が20以上、店数4400。15世紀半ばにメフメットⅡ世が設置し、順次拡大し今日の姿になった。当初は貴金属や絹を扱う店が多かったようだ。世界的に有名となり今や観光客価格となって、あまり買うものはなく、雰囲気だけを楽しむ。

 世界最大規模のグランド・バザール


 最期の夜は「Karvansaray」というレストラン&ナイトクラブでの夕食とベリーダンスのショー。
 ベリーダンスは西洋人がつけた名で、元来は中近東各地の民族舞踊がそのルーツ、必ずしも女性だけの踊りではないようだ。イスラム教の浸透で露出度や派手さも少なくなったが、トルコは比較的戒律が緩やかなため、ベリーダンスが観光資源の一翼を担っている。

       
          「Karvansaray」でベリーダンスを堪能、胸元にチップも忘れずに 

 独特のリズムとサズの音にあわせて、臍だしルックの衣装で妖艶な身体の動きを続けるダンサーが小生の席に近づいてくる。あわててポケットからチップのお札を取り出して、ダンサーの豊かな胸元に差し入れる。あっという間のショータイムも終わり、深夜の空港に向かう。

 午前1時発のアシアナ航空OZ552便は、ソウルに18時05分着。ソウル市内で焼肉を食した後、漢江観光ホテルで1泊。翌26日10時20分の便で11時55分関空着。

    
(左)韓国・ソウルの一夜(付録の焼肉)        (右)漢江観光ホテルで迎えた夜明け 


 ハマム(トルコ風呂)だけ行き損じた充実した東西文明十字路の旅であった。



アンカラ特急とイスタンブール -イスタンブール1-(異文化体験31 東西文明十字路の旅8)

2013年07月27日 23時36分04秒 | 異文化体験_中・東欧
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アンカラ特急とイスタンブール -イスタンブール1- 98.08.22-08.23

 本日はアンカラからイスタンブールへ寝台特急で       

 清水の舞台から飛び降りた気持ちで買ったヘレケの絨毯、きっと良い思い出になるだろう。バスはカッパドキアを離れ、一路首都のアンカラに向かう。1923年初代大統領アタトゥルクが当時人口6万人のこの町を首都に定め、新たな都市計画の下で発展を続け、現在人口360万人の大都市に変身している。

    
(左・右)夜行寝台列車に乗る前に、アンカラ駅に近いワシントンというレストランで夕食を取る。



 アンカラ特急(二人用のコンパートメント)

 TCDD(国鉄)のアンカラ特急は、アンカラ駅を午後10時半に出て、翌朝7時35分にイスタンブール・ハイダルパシャ駅へ到着する約9時間半の旅。
 料金は日本円で約2600円。距離的・時間的に日本のブルートレイン急行「銀河」とよく似ている。我々の車両は二人用のコンパートメント。発車してほどなく車掌がベッドメーキングしてくれる。ベッドに横になると心地よい揺れがいつしか深い眠りを誘う。

    
(左)朝日がイスタンブール到着近しと教えてくれる  (右)アジア側のハイダルパシャ駅

 朝陽がイスタンブールへの到着が近いことを教えてくれる。アジア側のハイダルパシャ駅はマルマラ海に面した駅。対岸にこれから行くトプカプ宮殿、アヤソフィア博物館、そしてブルーモスクとして知られるスルタン・アフメットジャーミィ等がある。


     
(左)「アヤソフィア」博物館の入場券            (右)ビザンチンの名建築 大ドーム建築の元祖

 最初に訪れたのは、ビザンチン建築の最高傑作と言われる「アヤソフィア」。大型ドームを持つ建物は、537年に完成を見たアヤ・ソフィア大聖堂がその起源である。
 ペンデンティブドームという建築手法が直径30mという大ドームを可能ならしめたわけだが、ビザンチン形式の建築史における最大の貢献と言われている。

 しかし、ビザンチンの材料は煉瓦とモルタルが基本であり、ドームの工期短縮メリットもあったが、修復の繰り返しのため、ベネツィアのサン・マルコ寺院(11世紀)の例もあるが、中期以降のビザンチン建築は小型化していく。

         
(左)何度か崩落を繰り返している巨大ドーム          (右)黒に金のカリグラフィー円板 

 アヤソフィアは東ローマ帝国終焉の時までギリシャ正教の大本山であった。ギリシャ語名はハギア・ソフィア。1453年コンスタンティノープルが陥落すると聖堂はイスラム教寺院となり、ミヒラーブ等が新たに設置された。ドーム内の黒に金のカリグラフィーの円板には、アッラーやムハンマドに4人のカリフなどの名が書かれている。


      
(左)手前はスレイマニエ・ジャーミィ その先はトプカプ宮殿の緑 (右)トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)の入場券

 次なる訪問先は「トプカプ宮殿」。15世紀半ばから20世紀初頭まで強大な権力を保有してきたオスマン帝国の支配者の居城である。
 ボスポラス海峡を見下ろすように建つ宮殿は、トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)と呼ばれた。1460年メフメットⅡ世が着工、その後のスルタンが増築に増築を重ね、70haという広大な宮殿となっている。(ちなみに、大阪ドームとその周辺商業地区あわせて12ha)

     
(左)「スルタンの調理場」の名残り屋根         (右)内部は陶磁器コレクションの一大展示 

 アラビア語のハラム(聖域)、ハリム(禁じられた)を語源とするハーレムは、今回はパス。スルタンの調理場と呼ばれるかつての厨房は、一大陶磁器の展示場となっている。

 次は人気の高い宝物館。オスマン朝以降、侵略を受けなかったスルタン達のコレクションが展示されている。トプカプ短剣、重さ3kgの世界最大のエメラルド、86カラットのスプーン屋のダイヤモンド、様々な王座等々、見ごたえのある宝物が展示され、多くの人だかりが出来ている。

           
(左)エメラルドがまばゆい光を放つ「トプカプ短剣」の展示    (右)参考写真

テラスに出ると金角湾、マルマラ海を眼前にボスポラス海峡を挟んで正に東西文明の十字路、アジアとヨーロッパが一望出来る。

 ボスポラス海峡を挟んで右がアジア、左が欧州


 遅めの昼食後は、ガラタ橋を渡って新市街地にある軍事博物館に向かう。世界最強のオスマン軍の数々の武器等が展示されている。ここでは毎日3時から4時の間に奥のホールでオスマン時代の軍楽隊(メフテル)のデモンストレーションがある。

 新市街地の軍事博物館入場券

 
(左)オスマン時代の軍楽隊(メフテル)   (右)今日の軍楽隊によるデモンストレーション


 今日の最後の観光は同じく新市街地のドルマバフチェ宮殿の見学(オプション)。
 ところが16時までの開館で入場人数に制限があり、時間的に遅くなって入場不可とのこと。ドルマ(満たされた)バフチェ(庭)という意味の壮麗な宮殿である。1938年アタトゥルクが執務中にここで亡くなっている。

 新市街地のドルマバフチェ宮殿入口門


 長い一日であった。今宵のホテルは、初日と同じく新市街地の路面電車が走る繁華街イスティクラル通り「タクスィム広場」近くの「Eresin Taxim」。

            
(左)今宵の宿舎「Eresin Taxim」     (右)トラムの走る繁華街イスティクラル通り


 明日は、いよいよトルコのツアーも最終日!


(付録)アヤ・ソフィアを起源とする教会の玉葱坊主について少し調べたことがあり、過去ブログに掲載しました。ご興味のある方はそちらもご覧下さい。
カテゴリーは「コーヒーブレイク」の中にあります。 アドレスは、
 ⇒ http://blog.goo.ne.jp/skhr0247/e/c3a0d4d515bcafa6a02514191405a903





カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2-(異文化体験31 東西文明十字路の旅7)

2013年07月20日 18時18分08秒 | 異文化体験_中・東欧
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カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2-  98.08.22

 中部アナトリアの「カッパドキア」~アンカラ


 中部アナトリアの最大の見所、カッパドキアの大奇岩地帯。大昔、アナトリア高原の火山の噴火によって溶岩と火山灰が幾重にも重なり、溶岩層や凝灰岩層が風雨に浸食され固い部分だけが残り、標高1000mを超えるアナトリア高原の中央部に100平方kmもの広さでユニークな形の大奇岩地帯を創り出した。

 カッパドキアの奇岩地帯(ギョレメパノラマ)

 また、カッパドキアはヒッタイト時代から重要な交易ルートの町として繁栄し、3世紀半頃からローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教修道士達が、柔らかい凝灰岩に洞窟を掘って信仰生活を送り、数々の教会やフレスコ画等を残している。
 これらは、「ギョレメ国立公園とカッパドキア岩窟群」として世界遺産(複合遺産)に登録されている。

      
(左)ギョレメ屋外博物館 入場チケット        (右)早朝のギョレメ屋外博物館 岩窟教会

 標準的な一日観光コースは、北部のギョレメやゼルベの奇岩地帯と南部のカイマルク地下都市を巡るコースのようである。ゆっくり見れるようにという配慮でギョレメ屋外博物館の開門に一番乗り。ギョレメの谷には30近い岩窟教会がある。中には綺麗なフレスコ画や壁画が残っているものもある。

 ウチヒサール「尖った砦」を中心に城塞村

 尖った砦という意味のウチヒサールは、巨大な一枚岩の城塞村。多くの穴は鳩の巣用で糞を肥やしにして痩せた土地でブドウ畑を営んでいたようだ。デヴレントのラクダ岩やパシャパーの3本のきのこ岩等々、広大な高原には沢山の奇岩がありそうだ。ゼルベ峡谷にも教会や住居が多数あり、30年ほど前まで生活が営まれていたが、岩の崩壊の危険性が増したため今は無人となっている。

         
(左)パシャパー地区のきのこ岩群                 (右)きのこ岩群を背景に

 デヴレントのラクダ岩


 南のカイマルクには、巨大な地下都市がある。カイマルク以外にもデリンクユ、マズ、オズコナック、タトラリン等の地下都市も発見されている。まるでインディ・ジョーンズの世界に迷い込んだような、地下迷路が縦横に走っている。

 共同生活に必要な食料庫、ワイン製造所、厨房、食堂、寝室、礼拝堂、井戸、外敵防御扉等々が内部通気坑と共に地下5階までの巨大迷路空間に設置されている。一説には2万人が暮らしていたとも言われている。何ゆえにこのような生活をしなければならなかったのかは謎であるが、一時期アラブ人から逃れるためにキリスト教徒が住んだとも言われている。

     
(左)2万人が暮らしたという迷路の地下都市        (右)まるでインディ・ジョーンズの世界に


 少し遅めの昼食は、洞窟をくり貫いた観光客が喜びそうな地下レストラン。世界3大料理の一つにトルコ料理が挙げられているが、小生にはいまいち合点がいかない。
 あまり美味しいとも思えないし食べたものを覚えていない。ケバブ系の料理がほとんどであったような?
 この地域に来ると、ターコイズブルーのガラスに白い目玉のような文様が書かれた丸いお守りが売られている。効用のありそうな立派なものから10個千円の掛け声のお土産用のものまで。

           
(左)石のテーブルに石の長椅子 地下レストランで昼食      (右)ギョレメのお土産のお守り


 ここから首都アンカラまでは約4時間のバスの旅。今宵はアンカラ寝台特急に乗って出発点のイスタンブールへという旅程。

 途中、トルコ絨毯の店に立ち寄る。トルコ民族はつい最近まで放牧を生業とし、最も重要な家財は絨毯であった。
 羊毛を紡いで糸にし、草木染めで染めるのが一般的。いい絨毯とは、素材は天然繊維(100%シルクや100%ウール)、大きさは畳1畳以上、染は草木染め、織りは手織り、結び目が細かいもの、と言われている。目の前に様々な大きさと柄の絨毯が次々と並べられる。少し時間がたつと品物と値段の関係が何となく分かってくる。

 ヘレケの絨毯の商談成立

 最初は全く買う気はなかったが、女房が熱心に見入っている。近い将来、家を建て替える予定の我が家に出来れば一つと思ったのが、清水の舞台の入口に。女房と視線が合った時には、どっちにしようというところまで目がものを言っている。絨毯屋に悟られないように無関心を装いつつも、結局ヘレケの絨毯を購入することに。小生一人のカード決済額では足りないので女房のカードと折半で購入。

     
(左)リビングに敷かれた絨毯      (右)絨毯の角隅に産地の「HEREKE」の文字が織り込まれている

 後日、船便で送られてきた絨毯は、現在新居のリビングに敷かれている。
が、今や我が家の愛犬ナナのお気に入りの場所になってしまっている。


踊る宗教とサライと陶芸と-中部アナトリア①-(異文化体験31 東西文明十字路の旅6)

2013年07月14日 18時01分01秒 | 異文化体験_中・東欧
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踊る宗教とサライと陶芸と-中部アナトリア①- 98.08.21

 今日の行程 パムッカレ~コンヤ~スルタンハーン~トゥズ湖(テュズ)~ユルギュップ

 今日の行程は、パムッカレからコンヤ経由カッパドキア地方ユルギュップまで。多分、10時間近いバスの旅になるのではなかろうか。
朝のパムッカレ石灰棚を間近に見て、バスは一路中部アナトリアの文化拠点都市「コンヤ」を目指す。

 コンヤはイスラム神秘主義(スーフィズム)の一派で、旋舞教団の「メヴラーナ教団」発祥の地として有名である。
この教団は13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207 - 1273年)によって開基され、メヴラーナとは「わが師」という意味でルーミーのことを指している。音楽と旋舞を伴った集団祈祷に特徴がある。

         
(左)メブラーナ博物館入場チケット              (右)博物館は今なお多くの信者と観光客で賑わっている


 メヴラーナ博物館は、1924年まで教団センターとして機能していたが、トルコの政教分離政策に基づきアタトゥルクの命で閉鎖、教団は解散させられた。1927年以降、彼の霊廟が博物館として生まれ変わり一般公開されている。
 イスラム神秘主義の教義は「神への愛、神との合一、神への神秘的な探求」であり、その起源は7世紀頃と言われている。博物館には、メブラーナの棺やマホメットのあごひげ等が展示され、また修行僧の生活等も人形で紹介されている。

         
(左)修行僧の生活が展示されている              (右)右手は天を、左手は地を指して旋舞する(Wikipedia)


 コンヤ文化が花開いた13世紀頃には、芸術家、建築家、科学者等が集められ神学校が開かれた。その一つが1251年にセルジューク朝のカタライ宰相によって造られたビュユック・カタライ神学校。セルジューク様式のスタラクタイト(鍾乳石飾り)の正面門が素晴らしい。現在は陶器博物館となっている。

            
(左)ビュユック・カタライ神学校(現 陶器博物館)        (右)カタライ神学校のドーム


 コンヤからカッパドキアまでは約3時間のバスの旅。途中、スルタンハーンという所にキャラバンサライがある。
 中央アナトリアがシルクロードで栄えていた時代のラクダの隊商の宿泊所である。当時アナトリアには40を超える隊商宿があったようだ。
シルクロードと聞いただけで、東アジアの端から来た我々にとって何か郷愁を誘うものが込み上げる。

               
(左)シルクロードのキャラバンサライ入口  (中)入り口前にて      (右)その宿泊所内部

 
 更に、カッパドキア方面にバスを走らせると、アクサライという町の近くにトルコで2番目に大きなトゥズ湖という湖が車窓に広がる。
塩湖としても有名で特に夏場は水も少なくなり真っ白な塩の結晶が平均30cmの厚さで湖を覆うという。塩湖まで行って帰ってくる程度の時間なら車を止めて待ってくれるというので、駆け足でミニ・ミニ塩湖ツアー。

 白い塩湖トゥズ湖 (下の小さく青いのが普通の湖(Wikipedeia))


 カッパドキア地方にはヒッタイト時代から続く窯元がアヴァノスという町にある。クズル川の粘土質の土が陶芸に適しているようだ。
 このツアーの第1回目のショッピングタイムがこの町から始まる。ある工房に案内されると、新聞にも取り上げられた名工?のおじさんが足で轆轤を回しながら、あっという間に紅茶ポットを作り上げる。
 うまく出来たもので部屋が3つあり、安いものから順次高額な商品が並べられている部屋に移っていく。目は当然良い物を追い求める。ターコイズ・ブルーの繊細な模様のお皿やティーカップ、ポット類が日本円を狙って待っている。

 トルコの人間国宝級陶工?のおじさん 5分でティーポット

 左はこの陶芸館で買った皿、右はメブラーナ博物館で買った壷


 今宵の宿舎は、ユルギュップのDinler Hotel. 大きなプールもあって一泳ぎしたいところだが、到着も遅く強行軍のため早めの就寝。

 今宵の宿「Dinler Hotel」


明日は世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」を巡る一日、楽しみだ。



聖母マリアとパムッカレ-エーゲ海沿岸④-(異文化体験31 東西文明十字路の旅5)

2013年07月06日 18時28分16秒 | 異文化体験_中・東欧
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聖母マリアとパムッカレ -エーゲ海沿岸④- 98.08.20

   「綿の宮殿」を意味するパムッカレ

 古代遺跡群からおよそ7km離れたブルブル山に聖母マリアの家がある。

 ブルブル山「聖母マリアの家」の入場チケット

 マリア最後の場所は謎とされていたが、18世紀の終わり頃、ある尼僧が天啓を受けエフェスの石造りの家の様子を語りだし、聖職者達による家探しの末にこの家が見つかったという。尼僧の話ではマリアは64歳で亡くなり、過去何人かのローマ法王もここを訪ねミサを行っている。

         
  (左)マリアの家                             (右)家の最奥にあるマリア像

 聖母マリアの家の入口横の郵便局から手紙を出すと独特のマリアを模ったスタンプを押してくれるというので、自宅宛に絵葉書を送ってみた。押されたスタンプがこれ。

 スタンプの下がセルチュク局印 上がMERYEMANA(聖母マリア) 98年8月20日



 さあ、次は楽しみの世界遺産パムッカレの石灰棚とヒエラポリスだ。正直、もう遺跡は十分堪能した!!

 パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味で、古代から良質の綿花の生産地であった。丘全体を覆う真っ白な石灰棚は隣接する「聖なる都市・ヒエラポリス」と共に複合遺産として世界遺産に登録されている。

 ヒエラポリスはベルガモン王エウメネスによって紀元前2世紀頃に建造され、当時の遺跡としては最も内陸部に存在することが知られている。ここの遺跡にはネクロポリスと呼ばれる1000を超す墓があり、古代共同墓地としては最大級のもの。墓の様式もヘレニズムからビザンチンのものまで多種多様。そのことが印象に残った遺跡であった。

        
(左)ヒエラポリスのメインストリート                 (右)ネクロポリス(古代共同墓地) 今より立派?


 この遺跡のすぐ横に今回旅行のハイライトの一つ、楽しみにしていた「石灰棚」がある。

 世界遺産の「石灰棚」

 この不思議な景観は、古代、炭酸カルシウムを含む地下水が地熱等で温められ、湧き出て温泉となり沈殿した石灰が固まって、あたかも純白の棚田のような景観を作り出したと言われている。石灰質を多く含む温泉の沈殿物(石灰華)が生成することは、日本では長野県の白骨温泉等で知られている。
 棚田のようになっているのは、漂流してきた枝などに石灰がたまり、それが長い時間をかけて堤を形成するため。このような景観が約200mの高さに渡って形成されている。

         
(左)棚田の中はぬるま湯状態        (右)刻観光客が引上げる時間帯。真っ白な棚田に夕日が映える


 遠くから見れば白い雪山、近くに来ると真っ白な幾重にも重なる棚田に青い温泉(と言ってもぬるま湯であるが)をたたえている姿は幻想的である。加えて夕刻訪れた我々には夕日が更に幻想的景観を盛り上げてくれる。

 しかしながら、最近の開発ラッシュでパムッカレ村の宿泊施設等が温泉を引き込むため、この温泉は涸れつつあるとも言う。このため棚田に湯を流すのは夏季日中のみ、更に棚田景観保護のため一度は97年5月から進入禁止となった。しかし、観光シーズン到来の7月には一部解除されたりと観光立国トルコとしては悩ましい判断を迫られている。


今日のホテルは、棚田近くのリュカス・リバーホテル。

   
  今宵の宿舎リュカス・リバーホテル(左)とその屋内プール(右)

 室内温泉プールもあって就寝前のひと時、日頃の運動不足を解消する。


古代遺跡都市エフェス(エフェソス)-エーゲ海沿岸③-(異文化体験31 東西文明十字路の旅4)

2013年06月30日 00時04分49秒 | 異文化体験_中・東欧
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古代遺跡都市エフェス(エフェソス) -エーゲ海沿岸③- 98.08.20

 今回の紹介はイズミールの南76kmのエフェス

 イズミールの南76kmにエーゲ海最大の古代遺跡都市エフェス(ギリシャ語でエフェソス)がある。

 紀元前11世紀にギリシャから移住してきたイオニア人が「アルテミス神殿」を中心に都市を建設。イオニア12都市として繁栄したが紀元前356年放火により神殿を消失。港湾都市として栄えたが土砂堆積やマラリアの発生等で衰退しかけ、ペルガモン王リシマコスがコレソス山とピオン山の間に新都市建設を行った。

 紀元前2世紀には共和制ローマ支配となり、アジア属州の首府となった。アントニウスとクレオパトラも当地に滞在したことが記録されている。

 古代七不思議の一つ「アルテミス神殿」の遺跡

 つい最近、クレオパトラの妹アルシノエの墓と骨がこのエフェス古代遺跡の街の真ん中で見つかったようだ。クレオパトラと王位継承を争ったアルシノエは、エジプトからここアルテミス神殿に幽閉されていたようで、この発見はクレオパトラ解明にも大いに参考となるようだ。
 セルチュクの街に近い現在のアルテミス神殿跡はローマ時代に再建されたもの。正面55m,奥115m,高さ19mの大理石の円柱127本を使用した巨大な神殿。「古代7不思議の一つ」とされる。


 それでは、「エフェス都市遺跡群」の主要遺跡を見て行こう。

 ドミティアヌス神殿の遺構(2階建て石柱)

 まず、2階建ての石柱を持つ皇帝ドミティアヌスを祭る50×100mの神殿跡。皇帝は暗殺され家臣達によって神殿は取り壊され土台部分のみ残っている。


 ヘラクレス門からケルスス図書館までのなだらかな石畳のメインストリートがクレテス通り。両側には様々な施設の遺跡が続いている。
 その一つがトラヤヌスの泉。102~104年に建造され皇帝トラヤヌスに捧げられたもの。

       
(左)石畳のメイストリート「クレテス通り」        (右)トラヤヌスの泉


 2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられたハドリアヌス神殿は装飾が美しく、手前アーチ中央は女神ティケ、奥の門にはメドゥーサ、その左右の小壁にはエフェスの起源伝説が描かれている。遺跡見学の入場券に取り上げられている。

  
(左)遺跡チケット表面にハドリアヌス神殿が採用         (右)装飾美で他の群を抜く神殿

 2000年前の公衆トイレは、れっきとした水洗トイレ。腰を下ろして休憩するには最適である。ポンペイにもあったが娼婦の館がここにもある。いずれの時代・場所を問わずこの手の商売と施設は必要なようだ。


        
(左)2000年前のれっきとした水洗トイレ       (右)ポンペイでも見たが娼館への道標

 クレステ通りの突き当りにある見事な2階建てのファサードが、ケルスス図書館。ローマ帝国のアジア州執政官ケルススの息子が、父の墓室の上に建造したもの。正面に「知恵」「運命」「学問」「美徳」を象徴する女性像が置かれている。構造は下部がコンポジット式(コリント+イオニア式)の柱頭、上部がコリント式柱頭の大理石円柱。1万2千巻の書物が所蔵されていたようだ。

        
(左)圧倒的迫力のケルスス図書館の遺構 (右)細部に至る細やかな彫刻が2000年の時空を超えて・・・


 ここからマーブル通りを大劇場に向かって歩くと、先ほどの娼婦の館の道標が路面にある。
 大劇場はヘレニズム時代に建造、ローマ時代に拡張され、直径154m、高さ38m、収容人員24000人の半円形大劇場である。

 24000人収容の大劇場

劇場の先は、アルカディアン通り。港と大劇場を結ぶ幅11m、長さ500mの大理石道路で、往時は両側にお店が並び、夜は街灯も灯されていたという。

    
 アルカディアン通り、(左)往時は港に直結した通りで港方向 (右)大劇場方向


 ここでオリンポスの神々(ギリシャ12神)を紹介しよう。人間味臭い神々である。

 オリンポスの12神(Wikipediaより)

ゼウス     :ラテン語ジュピター。天空の支配者。浮気っぽい。ベルガモンの「ゼウス大祭壇」
ヘラ       :ゼウスの姉で正妻。結婚の神様。
アテナ      :ゼウスの頭から生まれた女神。知恵と正義の神様。
アポロン     :ゼウスの子。光明、医療、芸術、予言の能力を持つ太陽神。
アルテミス    :ラテン名ディアナ。アポロンと双生児。狩猟を司る月の神様。エフェ(ソ)スの「アルテミス神殿」
アフロディーテ :ラテン名ヴィーナス。愛と美の神様。エロスは彼女の息子。
ヘパイストス  :ゼウスの子。鍛冶の神様。
アレス      :ラテン名マルス。軍神。
ヘルメス     :商業の神様。
ポセイドン    :海と地震と馬の神様。
ディオニュソス  :別名バッカス。ゼウスの子。葡萄酒の豊饒をあらわす神様。
デーメーテール  :大地母神。

 さあ!エフェス古代遺跡群見物の後は、聖母マリアの家に寄って、パムッカレの世界遺産に、楽しみだ!


遺跡はどうあるべき?ベルガマ-エーゲ海沿岸②-(異文化体験31 東西文明十字路の旅3)

2013年06月23日 00時11分19秒 | 異文化体験_中・東欧
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遺跡はどうあるべき? ベルガマ  -エーゲ海沿岸②- 1998.8.19

 今回はベルガマ!です。

 チャナッカレからバスで走ること3時間半、ベルガマに着く。途中休憩の道端の露店には名産のピスタチオが売られている。

 車内ではピスタチオを齧りながらベルガマへ

 ベルガマは、かつてはベルガモンと呼ばれ、ヘレニズム文化が大きく花開いた遺跡都市。アレキサンダー大王の死後、分割された領土はフィレタイロスがここにベルガモン王国を築いた。

 ベルガモン遺跡は丘を利用し神殿、大劇場などが建設された「アクロポリス」と医療施設を備えた町の中心地「アスクレピオン」から成る。

        
(左)アスクレピオン地区の聖なる道(後方の丘がアクロポリス)(右)古代医療センター兼神殿の北回廊の列柱

 まず我々が降り立ったのは「アスクレピオン」地区。アスクレピオスというギリシャの医療の神の名に由来する古代医療センターと神殿を兼ね備えた跡地である。140mの聖なる道の先に北回廊の列柱が聳え立っている。広場には蛇の彫刻を有する円柱が残っている。医療のシンボルとして脱皮する蛇の姿が健康回復のイメージと結びつけられたようだ。


       
(左)健康回復と蛇のイメージは一致する?      (右)医療センター側の小劇場、治療しながらの娯楽殿堂?

 2千数百年前の図書館、聖なる泉、治療棟、劇場などの施設が、炎天下の日差しに耐えて当時の社会の有り様を我々に物語っている。


 丘の上の「アクロポリス」は、かつてのヘレニズム文化が最も栄えた場所の一つ。ベルガモン王国時代の王宮跡地にローマ皇帝ハドリアヌスによって造営されたトリアヌス神殿。その6×9柱のコリント式神殿は、すべて大理石で造られ、青空に白い神殿がよく映えている。

 青空に映える真っ白な大理石のトリアヌス神殿

 図書館は、紀元前2世紀にエジプト・アレキサンドリア図書館に対抗して造られ、当時は20万冊の蔵書を誇っていた。伝説によると脅威を覚えたエジプトがパピルスの輸出を禁止したため、ベルガモン王エウメネス2世が羊皮紙を発明したと言われているそうだ。ちなみに「羊皮紙の独語名ペルガモントは、当地に由来」するそうだ。

 1万人収容の大劇場、すり鉢の底に降りるような恐怖感

 急峻な丘の斜面を利用して造られた劇場は収容人員1万人の大劇場。下に降りる時には目がくらむほどの斜面である。


 さて、エウメネス2世が戦勝記念に造らせた「ゼウスの大祭壇」というのがアクロポリスにあった。神々と巨人達の戦いがモチーフとして描かれた祭壇で、キリスト教徒からはサタン(悪魔)の祭壇として恐れられているが、今はその跡地に2本の大木が茂っている。
 じゃあ、祭壇は?というと、ドイツ・ベルリンの「ペルガモン博物館」にある。19世紀ドイツ発掘隊が発見し、運び去ったという。何故、そんな巨大なものを?と思うが、博物館に巨大祭壇が圧倒的迫力で再建されている。

ベルリン「ペルガモン博物館」に復元された「ゼウスの大祭壇」

 古代遺跡や美術工芸品が、様々な理由でもともとあった場所を離れ、離散してしまっている例が多々ある。
 この大祭殿のように立派に修復・復元されているものから、管理不十分でもはや破壊、消滅してしまったものまで、多種多様な履歴があるのだろう。
 今回の例を見る限り、古代施設は十分管理保存されているものの、残念ながらベルリンのペルガモン博物館の大祭殿からは、その「臭い」を嗅ぎ取ることは出来ない。

 ベルガモンの他の古代遺跡との調和の中で、初めてゼウス大祭殿が「2千年前の臭い」を発するのである。探険家や戦勝国が持ち去った戦利品は、現地の管理能力を前提として、もとあった場所に戻されることが真の世界遺産と言えるのではなかろうか。

      
(左)ベルリンのベルガモン博物館 (右)パンフレット表紙を飾るゼウスの大祭壇の東フリーズの部分図「女神アルテミス」

 ちなみに、ペルガモン博物館は古代美術コレクション、西南アジア博物館の2大要素を有しており、ベルガモン以外にバグダード近郊バビロンの遺跡も復元されている。
(異文化体験25 中・東欧の旅その6「オッシーとベッシー」参照)


 ベルガモン観光を済ませ、1時間半のバスの旅でトルコ第三の都市イズミールへ。今宵の宿舎はIsmiraという三ツ星ホテル。夕食後、同じグループの若い女性達と美味しい珈琲を求めて夕暮れの街を散策する。イズミル湾に面したジェムフリエット広場まで歩いたが、結局らしき店もなくホテルに戻る。


    
(左)今宵の宿舎「ホテル・イスミラ」
(中)美味しい珈琲を求めてジェムフリエット広場まで来たけれど・・
(右)前夜は暗闇でよくわからなかったが、この像は建国の父ケマル・アタチュルクの像


トロイ遺跡とシュリーマン -エーゲ海沿岸①-(異文化体験31 東西文明十字路の旅2)

2013年06月14日 18時08分55秒 | 異文化体験_中・東欧
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トロイ遺跡とシュリーマン -エーゲ海沿岸①- 1998.08.18

 本日未明にホテルチェックインして、朝8時には出発という強行スケジュール。
 イスタンブールを出たバスは、ヨーロッパ側を南下してエセアバートへ、ここでヨーロッパとアジアを隔てるダーダネルス海峡を30分ほどフェリーに乗って対岸(アジア)のチャナッカレに至る。
 チャナッカレはトロイ観光の基点として多くの観光客が訪れる町。イスタンブールからの所要時間は5時間ほど。

     
(左)ダーダネルス海峡を渡るフェリー(30分ほど)   (右)夏の日差しの強いアジア側エーゲ海

 昨年の真夏のアンダルシアもお鍋の底と言われる地域だけに暑さにうんざりしたものだ。ここトルコも特にこれから行く中部アナトリア地方も同様と聞いてきたが、早くもその片鱗がうかがえる。しかし、日本のような湿気がない分、日陰に入ると爽快でもある。

    
(左)トロイの街(想像図:立地環境の良さから同じ所に9回再建されている)  (右)トロイ最盛期の城壁跡
 
 トロイ文明は紀元前3000年頃から始まるが、紀元前2500~2000年にエーゲ海岸の交易の中心地として栄えた。トロイの栄枯盛衰は9層(第1市から第9市)にわたる都市遺跡を形成している。

        
(左)トロイの木馬(復元物)    (右)何度も映画化されたトロイの戦争 
 
 トロイの木馬といえば、今やコンピュータウィルスの代名詞だが、我々の世代では子供の頃見た木馬の映画が鮮明によみがえるが、ホメロス作といわれる800年頃のギリシャ最古最大の英雄叙事詩「イーリアス」全24巻のトロイ伝説が有名。

 トロイの王子パリスがスパルタ王の妃ヘレネを奪ったことに端を発するトロイ軍対ギリシャ軍の10年に及ぶ戦争を描いたもの。パリスの放った矢がギリシャの英雄アキレウスの唯一の弱点であるかかとを射てアキレウスが倒れる話も有名である。

1975年に復元の木馬(イダ山の松で作られ、中に入れる)

 なかなかトロイを落とせないギリシャ軍はオデュッセウスが、ただ一人の生贄と巨大な木馬を神に捧げる形で残し、全員船に引き返させる。トロイ軍はこの木馬を場内に引き入れ大宴会を始める。寝静まった頃合に木馬内からギリシャ兵が次々と出て城に火を放ち、ついに10年戦争に決着が、ヘレネもめでたくスパルタ王の許に戻るという話。

    
  (左)トロイの町の周辺の風景             (右)オデオン(ローマ時代の小劇場)  

 ドイツ人シュリーマンは、この「イーリアス」が忘れられず、史実と信じて41歳から自費でトロヤ(トロイ)遺跡の発掘を始める。そしてヒサルルクの丘を発見し、彼自身第2市をトロイと断定、「プリアモスの財宝」を発見する。その後の発掘で第7市がトロイと判明したが、幼少期に聞いた叙事詩が忘れられず、史実と信じて取り組んだ執念には感服する。

              
(左)シュリーマンは第2市をトロイと断定(実際は7市) (右)儀式に使われた聖域

 シュリーマンという人、18ヶ国語を自在に操る人だったようで、シュリーマンの6週間独習法が以下の内容。執念というか、根気強さというか、人柄が偲ばれる。
「声を出して読むこと、訳さないこと、毎日勉強すること、毎日作文を書くこと、それを先生に添削してもらい、誤りを正しくしたら次のレッスンを暗唱すること」

      
(左)チャナッカレ近郊のホテル「Iris Otel」 (右)ホテルの前のきれいな海岸とプールで一泳ぎ

 ホテル前のエーゲ海に沈む夕日

 トロイ遺跡の見物後は一路ホテルへ。チャナッカレから15kmほど離れた大きなプールを持つ海辺のリゾートホテル「Iris Otel」が今夜の宿舎。早速水着に着替えて、プールで一泳ぎ。時差ぼけ解消も兼ねてしっかり泳げば今夜はよく眠れるだろう。折りしも水平線に赤く燃えた太陽が、明日の暑さを約束するようにゆっくり沈んでいく。



憧れの東西文明結節点へ -トルコ-(異文化体験31 東西文明十字路の旅1)

2013年06月09日 11時54分21秒 | 異文化体験_中・東欧
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憧れの東西文明結節点へ -トルコ- 98.08.17-08.26

 世界3大料理の一つとされるトルコ料理、チャイがなければ何も始まらない国、ベリーダンス、ブルーのタイルや数珠、水パイプやメアシャム・パイプ、何はなくともトルコ絨毯、タラソ(仏)、ヘナ(印)、あかすり(韓)、マッサージ(タイ)、そしてトルコのハマム。
 東西文明の結節点トルコには、数々の古代遺跡と共に興味深い独自の文化がある。

 オスマン朝の赤色をベースに月と星は民族の進歩と国家の独立

 昨年のアンダルシアの旅に続いて、今夏も東西文明の十字路トルコを旅することにした。イスタンブールを起点にエーゲ海沿岸のトロイやヘレニズム文化の諸都市を巡り、カッパドキア等の中央アナトリアからイスタンブールに戻る10日間のグループツアーである。

       
 (左)今回のツアーの主要な訪問地   (右)ヨーロッパ(左)とアジア(右)の結節点

  初回の今回は、旅行記は次回からということにして、自らの勉強も兼ねてトルコの歴史を少し振り返ってみたいと思いますので、歴史に興味のない方は是非次回からご覧下さい。

紀元前3000年頃:トロイは最盛期を迎え卓越した文化・芸術を誇っていた。

紀元前2000年~紀元前700年頃(ヒッタイト時代):アナトリア最初の統一国家「ヒッタイト古王国」が出現。ヒッタイトは黒海を渡って来た北方系民族。紀元前1285年ラムセスⅡ世率いるエジプト軍を撃退するほど強大であった。

紀元前547年:ペルシャが征服し全アナトリアを含む強大な帝国に発展。

紀元前334年~紀元395年(ヘレニズム・ローマ時代):200年のペルシャ支配の後、アナトリアは若き英雄「アレキサンダー」の支配下に入る。彼は一大帝国を建設し、死後彼の将軍達に分割された。その一つ「ペルガモン王国」はアナトリアの文化・経済の中心として栄えた。徐々に力をつけたローマは、ここを足掛かりにアナトリア全域を支配した。

395年~1071年(ビザンティン帝国時代):330年「コンチタンティヌス帝」はビザンティウムに遷都し、町の名を「コンスタンティノープル」と改名。以後、東西結節点として益々発展する。395年東西ローマ分裂で、アナトリアは東ローマ帝国の一部となる。徐々にローマ色が薄まり、東方的色彩が強まり「ビザンティン帝国」と呼ばれるようになった。8世紀にイスラム軍の侵入を受け、1071年セルジューク朝に破れ、アナトリアにトルコ族が入っていく。

 スレイマン大帝(Wikipediaより)

1071年~1922年(セルジューク朝、オスマン朝):スンニ派イスラムのトルコ系王朝「セルジューク朝」は、首都をコンヤに置く。セルジューク朝の内紛の中でオスマン・ベイは1326年ブルサを攻めそこに首都を置く。世界帝国「オスマン朝」の始まりである。勢力を伸ばし1453年コンスタンティノープルを占領、「イスタンブール」と改名。16世紀のスレイマン大帝時代に最盛期を迎える。彼の死後、度重なる戦争にことごとく敗戦し、19世紀にはエジブト、ギリシャ、ブルガリア等バルカン諸国が独立、第1次大戦では敗戦側に。

1923年10月29日:ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を成立させ、初代大統領になり、首都をアンカラとした。アタトゥルク(トルコの父)と言われている。

    
                今回のイスタンブールでのホテル「RESIN TAKSIM」

 関空を13時10分に飛び立ったアシアナ航空OZ111便は、一路ソウルへ。3時間の乗り継ぎ待ちの後、18時05分ソウル発のアシアナ航空OZ551便は、無事イスタンブールに23時50分到着。市内のホテル「Eresin Taksim」には深夜のチェックインとなった。