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旅行記、世相独言

崩壊後6年 オッシーとベッシー -ベルリン-(異文化体験25 中・東欧の旅6)

2012年09月26日 22時43分43秒 | 異文化体験_中・東欧
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崩壊後6年 オッシーとベッシー -ベルリン- 1995.9.29

 1989年 ベルリンの壁崩壊

  東西冷戦の時代、鉄のカーテン(the Iron Curtain)という言葉があった。
 From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic , an iron curtain has descended across the Continent. (バルト海に面したシュテッティンからアドリア海に面したトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横断して鉄のカーテンが下りた)。

 これは1946年3月チャーチルが米国訪問時に行った演説の一節で、その中で「鉄のカーテン」という言葉を始めて使った。
 ベルリンの壁が初めて築かれたのが1961年、崩壊したのが1989年。既に23年前の話。若い世代にはベルリンの壁という言葉も徐々に死語になりつつある。
 
 今回のお話は、壁の崩壊後6年が経った時の訪問話である。

 ベルリンの案内パンフレット


       
(左)ペルガモン博物館のガイドブック(表紙) (右)ペルガモン博物館の正面

 ポツダムからベルリンに戻って訪れたのは、ペルガモン博物館。古代ギリシャ、ローマ時代の壮大な建造物が再現されている。圧倒的スケールで驚かされるのは、ペルガモン祭壇とミレトスの市場門の遺跡(いずれも今日のトルコ共和国の町)、バビロンの行列通りとイシュタル門の復元(今日のイラク近郊)である。

 
(左)ベルガモン祭壇(トルコの遺跡)         (右)バビロンのイシュタル門(イラン近郊遺跡)

 歴史的建造物は本来あった場所に復元されることが一番好ましいことだが、残念ながらいろんな理由から異なる場所で復元、再生、展示されていることが多い。人類共通の財産としてしっかり管理され学問的に有意義な利用がなされていれば、それもまた致し方のないことか。


 昼食後、ベルリン市内の見どころをドライブ。ある通りを走行中、運転手が何か吐き捨てるように言った。前の車が黒煙をあげて走っている。「何て言ったの?」と通訳に聞くと「オッシーめ!」と言ったらしい。ドイツでは俗語であるが東ドイツの人達を「オッシー」、西ドイツの人達を「ベッシー」というとのこと。あまり良い意味で使う言葉ではなさそうだ。

 ガイドブックの地図には「もう壁はない」というが。。。

 ベルリンの壁が崩壊して5,6年も経つと、当時の熱狂振りはおさまり、いろんな面で東西格差が実生活に顔を出してくる。前を走る車も東側経済の車だったようで環境対策もおろそかで黒煙を撒き散らしている。それを見て西側のこの車の運転手はつい「オッシーめ!」という言葉が口から出たのであろう。

 街中至る所で巨大クレーンが林立し、インフラ整備が進む

 
(左)わずかに残されているベルリンの壁        (右)撤去された壁後には帯標識が。

 とは言え、ベルリンの街中は至る所で巨大なクレーンが林立し、再開発が進んでいる。かつて80人の生命が犠牲になったベルリンの壁は探して廻らなければ見つけるのが難しいほど姿を消し、その一部は土産物として売られている。ベルリン大聖堂、フランス大聖堂、赤の市庁舎等、歴史的建造物の多くが東側にも存在しているが、一方でソニータワーや外国資本の建物の建設もあちこちで始まっている。

  
 (左)ベルリン大聖堂
 (中)赤の市庁舎(1870年以来の市長公舎が今はベルリン合同議会)
 (右)東独時代1969年完成のTV塔(368m) 回転展望レストランがある


 最期に訪れたのは、東西ベルリンを分かつ象徴的建造物であったブランデンブルグ門。今やこの門の周りも新たな建築のためのクレーンが立っている。東側はウンター・デン・リンデン通りに続き、西側は6月17日通りを経てティアガルテン、戦勝記念塔に続く、その接点にこの門が存在する。

       
(左)かつて東西ベルリンを分かつ象徴的存在のブランデンブルグ門 (右)1961年8月13日分断直前の風景

       
(左)ブランデンブルグ門から勝利の塔に至る6月17日通り (右)ティアガルテンの勝利の塔
 
 統一ドイツが、その内部経済格差を乗り越え、ユーロ経済圏の主要なリーダーとして21世紀の世界経済を牽引することを期待しつつ、ブランデンブルグ門を後にする。
広大なティアガルテンと戦勝記念塔を車窓に、車は一路空港へ。

 夕陽とネオンの輝きの中のカイザー・ヴィルヘルム記念教会

 今回の中東欧の旅は、夕刻のフランクフルト経由成田行きJAL便で終結した。

ポツダムとサンスーシー -ポツダム-(異文化体験24 中・東欧の旅5)

2012年09月18日 23時20分40秒 | 異文化体験_中・東欧
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ポツダムとサンスーシー -ポツダム- 1995.9.29

  
 (左)プラハからベルリン駅に到着           (右)地下鉄でホテルへ

 インターコンチネンタルホテル・ベルリン

 プラハからドレスデンを経てベルリン駅に到着。市内のホテルまでは地下鉄を利用して、無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

 カイザー・ヴィルヘルム記念教会

 翌朝、第2次世界大戦の戦禍を留めるカイザー・ヴィルヘルム記念教会を横目に、通訳兼案内人と共にポツダムに向かう。
 カイザー・ヴィルヘルム記念教会は、広島原爆ドームと同様に、1943年11月23日のベルリン大空襲で破壊され、最低限の修復後、崩れたままの姿で保存され、大空襲の悲惨さを伝えている。


 サンスーシー宮殿と庭園

 ベルリン郊外のポツダムは、プロイセン王家がここを居城都市として創り上げてきた街。
 旧市街の西端にあって、プロイセン王国時代の1745年から1747年にかけてフリードリヒ2世の命によって建てられたサンスーシー宮殿と庭園は、今なお年間200万人の観光客を集めている。ヴォルテールが一時期滞在したことでも知られている。

 サンスーシー宮殿の階段状の庭園 

  
              ロココ調の青い丸屋根を持ち、褐色の壁を持つ宮殿  

 サンスーシーとは、もともとフランス語で「心配なく余暇にふける」という意味があり、日本や中国では無憂宮とも表記するらしい。
 丸屋根のある一階建てのロココ建築のスケッチはフリードリッヒ2世が描き造らせたようだが、階段状の庭園と青い丸屋根と褐色の壁を有する建築物の外観に加え、内部の寄木細工の床で続く臨終の間、コンサートの間等々豪華な装飾の部屋は強烈な印象を与えている。

 
(左)20世紀初頭建造されたツィツィリーエンホーフ宮殿 (右)ポツダム会談の場所を背景に記念撮影

 20世紀の初め、ここにツィツィリーエンホーフ宮殿が建造された。この宮殿はその後の世界政治に残る場所となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日、当宮殿に米国、英国、ソ連の3ケ国首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた。
 いわゆるポツダム会談がここで行われ、今もその部屋が保存されている。尖閣諸島にも関係する会談であった。

 
(左)保存されているポツダム会談の行われた部屋 (右)アトリー、トルーマン、スターリンの連合国首脳

 午後は、ベルリンに戻って壁崩壊後の東西ベルリンの今を視察する。

幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン-(異文化体験25 中・東欧の旅4)

2012年09月11日 11時08分15秒 | 異文化体験_中・東欧
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幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン- 1995.9.28

 プラハとは今日でお別れ、チェコ紙幣

 28日、早目の朝食を取りホテルを出発しようとしていると、朝食に向かう私の出向元の大ボス一行とロビーでばったり。大ボスは東欧諸国を廻って帰国される由。小生は同行者と共にいざ中央駅へ。

 プラハ中央駅

 発車30分前に駅に着いたものの、出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。チケット売場に行って聞けども英語が通じず、案内所を駆けずり回ってやっと別の駅から発車することが分かった。

 早々にチケットの手配はしたのだが・・・

 間に合うか?と重い荷物を引きずりながら言われた駅にタクシーで5分前に到着。しかし、この駅でも出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。どうなっているの?と再度問い合わせると、もう一つ別の駅から出ると言う。なんと3つも駅があるという。

 プラハからベルリン方面に行く駅のホーム

 しかしである、時既に遅し! 諦めるしかしようがない。次の列車は12時18分とのこと。何と3時間近くあるではないか。ホテルでゆっくりしようや、という同行者の提案でホテルに戻ると、大ボス一行の出発と出くわす。「どうしたんや?」「いや、まあ、あのお・・」と、逆に見送る羽目に。

 この時間の列車に乗る予定ではなかったのだが・・

 同行者が丁度ボヘミアングラスを買いたかったとかで、ホテルのグラス売場の物色を始める。予定ではドレスデンで途中下車し、3時間ほどマイセン焼の工房を訪ねる予定が、幻のマイセンとなってしまった。残念無念!!

       
(左)プラハからドレスデン経由ベルリンへ  (右)本来ならここで途中下車のドレスデン駅

 お昼過ぎに出発したドレスデン、ベルリン経由ハンブルグ行きの列車は、プラハからヴルタバ川を支流に持つ全長約1091kmのエルベ川に沿って西北に渓谷沿いの景色を車窓に見せながら定刻通りドレスデンに到着。

           
(左)エルベ川沿いのお城、お城好きの同行者にはいい眺め (右)エルベ川の渓谷沿いに列車は走る

 本来ならマイセンに行ってこの列車でベルリンに向かうはずであったのだが、乗り過ごしては大変と午睡との戦い。ベルリン駅から市内のホテルまでは地下鉄を利用。無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

  マイセン「泉の妖精」(参考)

 28年ぶりにベルリンの壁に穴があいたのは、1989年11月9日。12月22日には、東西ドイツを分離する象徴的なブランデンブルク門が開放され、当時の西独コール首相と東独ハンス・モドロウ大統領、そしてモンター西ベルリン市長が最初にこの門をくぐった際、熱狂的な歓喜の声が湧き上がったと新聞が報じている。あれから6年。東西330万人の人口を有するベルリンは、再び統一ドイツの首都として名乗りを挙げ、あちこちで都市改造が進んでいる。

 マイセンの刀デザインの推移

 ベルリンは15世紀からおよそ5百年間、ホーエンツオレルン家が統治し、区別出来ないほど沢山のフリードリッヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
1740年から86年まで統治したフリードリッヒ大王は、今日のウンター・デン・リンデン通りを目抜き通りにし、オペラ劇場や王立図書館等の文化施設を整備し、この間人口も8万人から15万人に増加するなど、ベルリンを欧州の主要な都市に変身させた。

 1861年、ヴィルヘルムⅠ世がプロイセン王となり、71年ベルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝になると、このシュプレー川沿いの都市は人口82万人となり、文字通りドイツの首都となった。

 更に、1920年にはグレーター・ベルリンとして人口380万人にまで膨れ上がったが、1933年から45年の12年間はヒトラー支配下で第2次世界大戦により焦土と化した。1945年東(ソ連)西(米英仏)ベルリンに分割統治され、1961年8月13日にベルリンの壁が初めて築かれた。そしてその28年後。

 明日は、ポツダムとベルリンの今日をつぶさに見て廻ろう!

中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ-(異文化体験25 中・東欧の旅3)

2012年09月02日 22時23分21秒 | 異文化体験_中・東欧
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中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ-  1995.9.25~9.28

 ヴルタバ川に架かるカレル橋とプラハ城

 IGU(世界ガス連盟)理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。

 市民の憩いの場、旧市街広場 後ろはフスの銅像

 まずはホテルから旧市街広場に向けてそぞろ歩き。旧市街広場には宗教改革のフス像が、また1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれるティーン教会が目につく。

 後方のタワーが天文時計のある旧市庁舎

            
(左)15世紀から時を刻み続けている機会仕掛けの天文時計  (右)死神と異教徒の姿もあらわれる

 更に更に6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王(キリストの12の使途像の説も)が順に姿を現し、またその脇には死神、異教徒、守銭奴、放蕩者の像が動き、鶏の鳴き声で時計塔の鐘がなる仕組み。
この天文時計は、中央欧州の時間、古ボヘミア時間、バビロニア時間、星時間の4種類の時間を示している。

 1475年建造、高さ65mの真っ黒に煤けたプラハ城「火薬塔」

 今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Tower(火薬塔)は、良く知られたRoyal Route(城と旧市街と橋は戴冠式行列のための王の道と言われる)の出発点として使われた。

 城と旧市街と橋を結ぶRoyal Route(戴冠式の王の道)

 隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。

 
(左)旧市街とヴルタバ川向こうのお城を結ぶカレル橋からの眺め (右)橋の欄干には30の石造が     

 これらの旧市街地とVltava(ヴルタバ)川向こうのプラハ城を結ぶのが、石造りのカレル橋(チャールズ橋)。橋の欄干にバロック様式の合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ516m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。

 カレル橋の両端にある橋塔

 徒歩ツアーはここで昼食に。


 歴代ボヘミア王の居城 世界最大の古城「プラハ城」

 午後は、対岸の歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城「プラハ城」の見学。1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。

           
(左)ネオゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の正面ファサード (右)南からの眺め(メインタワーとゴールデンゲート)

プラハ発祥の地にして始祖聖人ヴァーツラフが眠る「聖ヴィート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)」と「プラハ城」の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。

    
(左)王宮の裏の昔錬金術師が住んでいた「黄金の小路」 (右)青い彩色の家がカフカが住んでいた家

 宮殿の裏に「黄金の小路」と呼ばれるところがあり、異色の作家カフカが身を寄せていた家がある。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。


           
(左)プラハ城内、美しい大聖堂の内部空間  (右)ガラ・ディナー(別名マラソンディナー)の始まり

 今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークの世界ガス会議国内組織委員長のP.S氏と日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んで、恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。

 翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会とTransgasからのチェコ・ガス事情の報告等が開催。
ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
 夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニング。

          
(左)建築博物館「プラハ」は中世の玉手箱 (右)街角で見たネオルネサンス様式のRott Houseの見事なフレスコ画

 「魔法の都」「黄金の都」「百塔の街」「北のローマ」等々、多くの異名を持つ建築博物館プラハは、プラハの春以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中であった。

 一方、その街の佇まいは中世の玉手箱であった。

中・東欧の初秋の古都 -プラハ-(異文化体験25 中・東欧の旅2)

2012年08月26日 11時14分51秒 | 異文化体験_中・東欧
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中・東欧の初秋の古都 -プラハ-  1995.9.25~9.28

1618年30年戦争の発端「プラハ窓外投出事件」(Wikipediaより)

 1618年5月23日、ボヘミア王国の首都プラハは、静かな朝を迎えていた。9時を過ぎた頃プラハ城の王宮に集まっていた顧問官達は時ならぬ騒ぎに気づいた。200人ほどの武装したプロテスタント達がいきなり王宮に侵入してきた。侵入者達は、時のボヘミア国王の宗教政策に抗議して、顧問官達に激しく詰めより、押し問答の末、激昂したプロテスタント達は突然、執務室の窓から二人の顧問官を外に放り出した。抗議した秘書官も同様に放り出され「プラハの窓外投出事件」として知られるこの出来事は、17世紀の欧州史上最も有名なエピソードである。これが欧州全域を巻き込んだ30年戦争の発端である。(世界の歴史17巻、ヨーロッパ近世の開花、中央公論社より)


 理事会オフィシャルホテルのインターコンチネンタル

 午後1時前、ロンドンからの英国航空機は、あこがれの初秋のプラハに着陸。Vltava River(ブルタバ川)の河畔に立つインターコンチネンタル・ホテルが今回のIGU(世界ガス連盟)理事会の公式ホテルである。

  
ホテルの部屋に理事会土産が (左)マグカップ (中・右)プラハの案内書(表・裏表紙) 

 対岸の小高い丘の上に「窓外投出事件」のプラハ城が見える。会議登録を済ませ、同行者とCedok(交通公社)の事務所に向かう。IGU理事会の後、ドレスデン経由ベルリンに行く予定で、列車のチケットを先に買おうというわけ。英語がなかなか通じないが、何とか目的の列車の指定席乗車券を確保し、夕刻のレセプションまで街を散策する。

 古都プラハのパノラマ風景(左プラハ城 右カレル橋)

 チェコ共和国の首都プラハは、ブルタバ川沿いの斜面と丘に広がる人口120万人の小さな街である。しかし、そこにはゴシック、ルネッサンス、バロック等、数々の歴史的・文化的建造物が中世の面影を今日に伝え、街の中心部750haが1971年ユネスコによって世界最大の世界遺産に指定されている。ゴシック建築は14世紀、チャールズⅣ世(1346-1378)がチェコ国王(後にローマ皇帝)の時代、30年間でそのピークを迎える。プラハ大学やチャールズ橋の建設、Karlstejn城等がその代表作である。

 一方、バロック建築は17世紀、厳格なカトリック王朝であるハプスブルク家とその大部分がプロテスタントである臣民との間の数々の緊張関係(窓外投出事件や、その後神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント2世とプロテスタントとの間の「白山の戦い(1620年11月)」)があり「ボヘミアの暗黒時代」の中でドイツ系領主の支配のもと再カトリック化が進み、修道院が再興ないし新設されている。

 夕闇迫る旧市街広場(後方2本の尖塔はティーン教会)

 広場の像は宗教改革の先駆者ヤン・フスの像(1415年処刑)

 夕刻の街の中心部にあるゴシック様式の教会と旧市庁舎に囲まれた広場は、西日に建物が黄金色に輝き、多くの観光客が旧市庁舎の仕掛け時計のパフォーマンスを待っている。
 日本の女性たちに大評判で塗るだけで痩せると専らの評判のクリスチャン・ディオールのスベルト、この時期多くの旅行者が女性達に頼まれるお土産品だが、世界中どこも品薄で手に入らない。ひょっとしてプラハならと広場からの帰路化粧品屋に立寄ると、あった!あった!希少価値のスベルトを2本ゲット!。

 旧市街広場の名物 旧市庁舎の仕掛け時計

 
(左)聖ミクラーシュ教会 観光用の馬車が広場に待機       (右)夜の旧市街広場

 夕刻7時からホテル・プレジデントでチェコ・ガス石油協会の主催による歓迎レセプションが始まった。理事会記録のビデオ班が入り、何故か小生もターゲットになっているようで、出席者と談笑場面を撮りに来る。きっと事務局長のオルガ女史の差し金に違いない。

 プラハ理事会のプログラム

 ライトアップされたプラハ城(プログラムより)

 小楽団がチェコ民謡の演奏を始め、レセプションも佳境に。テラスに出ると、川向こうにライトアップされたプラハ城の見事なシルエットが浮き彫りに。
 

シェイクスピア・カントリーとブレナム宮殿 -ロンドン近郊-(異文化体験25 中・東欧の旅1)

2012年08月19日 15時00分34秒 | 異文化体験_中・東欧
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シェイクスピア・カントリーとブレナム宮殿 -ロンドン近郊- 1995.9.23~9.25

 夕刻のロンドン・ヒースローに着陸、最近の定宿となったランガム・ヒルトンにチェック・イン後、ロンドン事務所長と夕食を共にしながら英国の規制緩和論議を交わす。
 今回の旅はIGU(世界ガス連盟)プラハ理事会への出席と英国公益事業の規制緩和に関する情報収集が目的である。

 翌朝、お城好きの同行者と共にシェークスピア・カントリーと1987年世界遺産に登録されたBlenheim Palace(ブレナム宮殿)を巡る。

 シェイクスピア・カントリーのストラッドフォード・アポン・エイボンは2ケ月前LNG-11の際に訪れ2度目の訪問。前回と同様のコースに加え、ホーニー・トリニティ教会の墓地や妻アン・ハサウェイの実家を観光する。9月も下旬と言うのに結構な人出である。

        
(左)現地で購入した案内書      (右)シェイクスピアカントリー(ストラッドフォード・アポン・エイボン)の地図

 
(左)シェイクスピア生家の入場チケット (右)1616年シェークスピアが亡くなるまで住んでいた家の跡地(ニュープレースの庭)

 
(左)シェークスピア生誕洗礼記録(4月26日ラテン語記載)     (右)妻アン・ハサウェイの生家

        
(左)アン・ハサウェイの家入場チケット (右)チャペルストリートのシェイクスピアホテル


 昼食後、オックスフォードシャー・ウッドストックの名城ブレナム宮殿に向かう。

  ブレナムパレスの解説書(写真はノースフロント)

 1705年から1722年にかけてThe Duke of Marlborough(マールボロー卿)初代当主とその妻のために建設された豪華なお城は、むしろチャーチルが生まれ育った所として良く知られている。

 広大な宮殿の空撮写真(宮殿部分) 

 一般観光客のゲートとなる東門にはマールボロー家の旗が紺碧の空に翻っている。北庭を取り囲むように東西に翼を広げたような宮殿の北側には女王の池とそれにかかるグランド・ブリッジに続く。更にその先には勝利の塔が垣間見える。
 お城の東側には9代目当主によって改築された中央にマーメイドのモニュメントが置かれた見事なイタリア庭園が配置され、一方、お城の西側には同じく9代目当主によって1930年に改造されたウォーター・テラス・ガーデンを見ることが出来る。中央と四隅に配置された噴水が無ければ、まるで鏡を敷き詰めたような錯覚に陥る見事な造形美である。

 
(左)ノースフロントのファサード           (右)お城の西側のウォーター・テラス

 お城の正面玄関にはワルシャワ門を真似て造ったと言う真鍮製のロックが装備され、サロンや部屋と言う部屋夫々に見事な装飾が施されている。また大理石のドアケースで飾られた55mもの長さを有する書斎書庫、1732年に完成したお城の中のチャペルには初代当主夫妻と若くして死んだ2人の息子のモニュメントや大きなパイプオルガン等々、全てに圧倒される。

 55mの長さを有する書斎倉庫(正面は巨大パイプオルガン)  

 1874年Sir Winston Leonard Spencer Churchill(ウィンストン・チャーチル卿)はこのお城の中で生れ育ち、晩年もここで過ごしたようだ。1965年没し、ここに埋葬されている。5歳の時の頭髪カールが展示されている。まるでゴルフ場と見間違う程の広大な芝生と森、そして池。必見の城の一つである。

 宮殿の周りは芝生の広大な空間

 ホテルに戻った夕刻、フロントから来客の知らせ。先の展示会のコンパニオン達とホテルのラウンジで2ヶ月ぶりの再会。多方面の話題に時間を忘れ、気がつくと日付変更線が迫っている。明日はプラハに移動するため留学の成功を祈って、See you again.
 
 翌朝は、いよいよ大いに楽しみにしているプラハ行きである。

ペレストロイカを垣間見る -モスクワ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅1)

2011年05月10日 16時36分38秒 | 異文化体験_中・東欧

 正にバブル経済・絶頂期の日本、全国津々浦々に様々なプロジェクトが浮上、関西でも関西国際空港を核に臨海部の開発プロジェクトが目白押し状態。わが社も隣接企業と相互の臨海部遊休地150haを共同で開発しようと稀有壮大な絵を描き始めた。
 しかし、バブルがはじけ「兵どもが夢の跡」は、現在巨大液晶工場と一大サッカーグランド群になっている。今回の旅は、1992年バブル経済・絶頂期に港湾空間の活性化、高度利用を目的に欧州の港湾空間を調査した旅のエッセイで、「港湾空間を巡る旅」全10回としてご紹介します。

なお、異文化体験13「オアフ・マウイ島 ハッピーウェディングの旅」は、次回に新たに掲載予定です。


(写真はクリックで拡大します)

ペレストロイカを垣間見る -モスクワ空港-  1992.7.17

 機窓から見る夏のシベリアは、蛇行する大河があちこちに三日月湖を残しながら、緑一色の広大な丘陵地帯が広がる。初めて海外出張した時もモスクワ経由であったが、その時の真冬の白一色の世界とは対照的である。

    
(左)真冬のシベリア上空 白一色の世界   (右)夏のシベリア上空 タイガ(針葉樹林帯)をぬって蛇行する川

 JL445便は、徐々に高度を下げながら日が燦燦と降り注ぐモスクワ空港に着陸した。機内清掃のため一旦機外に出ると、どうであろうか、ここが本当にモスクワかと疑いたくなる様相である。あの薄暗いロビーにカービン銃を持った兵士が睨みをきかしながら、トイレはオリンピック直後というのに壊れ放題で、売店にはウオッカと毛皮製品しかなかった1981年に訪問した空港とは思えない変わり様である。

   
(左)1981年のシェレメーチェボ空港(1959開港) (右)現在(2010)の同空港、主要国際線はドモジェドボ空港に移転 

 まず、目に飛び込んでくるのが「Duty Free Shop」の鮮やかな色彩の看板。外貨獲得のために色とりどりの多彩な西側商品が所狭しと並んでいる。値段は多少高い気がするが、ロシア土産にと手頃な10~20$程度の商品が結構売れている。
 レジに座るロシア娘までが明るい制服に身を纏い、笑顔を絶やさない。ちょっと奥まった所には何と!「うどん屋」まであるではないか。

    
現在のシェレメーチェヴォ空港のDuty Free Shop、今回(1997年)は現在に近い、1981年当時とは雲泥の差である

 経済の自由化は、ここ空港では西側とほとんど変わらないが、市内では勤労者の平均月収2000ルーブルの厳しい物不足の生活が続いていると言う。
前回のフライトでは、誰も降りたがらない当地であったが、今回は当地での乗り換え客が沢山あったことを見ても、身近な存在になったことが窺い知れる。

 ペレストロイカ、それは10年後のロシアをどのように変えていくのだろうか?




昼なお暗い玄関口 - モスクワ - (異文化体験2 アルコールの旅1)

2010年01月22日 11時42分19秒 | 異文化体験_中・東欧
 2007年11月から掲載してきた「異文化体験」ですが、初期のものは写真のない文章だけのブログでした。ここに改訂版として、写真等を織り交ぜてリニューアルする事にしました。
表題の横に旅行日を書いています。また、写真は原則クリックすると拡大します。
では、ご期待下さい!!



 初めての外国旅行。誰しも不安と興味の入り混じった気持ちで旅立つもの。
38年前のグァムへの新婚旅行から9年後の29年前、ブログ「異文化体験」の2回目は、アルコール燃料を調査するための極寒の欧州出張旅行から始めます。
名づけて「アルコールの旅」。8回に分けて掲載します。           


昼なお暗い玄関口 -モスクワ-    1981.1.24


 異文化との遭遇、幕開けはモスクワから始まる。
と言っても、クレムリンと対面というわけではない。フランクフルトに行くルフトハンザ・ドイツ航空機が給油のためモスクワ空港に立ち寄ったというだけの話である。

 
   (左)ボーイング727                   (右)ボーディングチケット    

 新潟上空からシベリア上空を経て、眼下にオビ河の氷と化した流れを眺め、暫くすると厚い雲海が視界をさえぎる。B727は、いつまでも続くこの厚い雲の中に身を投ずるように下降を始めた。まるでトンネルに入った新幹線のような光景が機窓に続く。20分近くそのような重苦しい状態が続いたであろうか。

 突然、窓の外に黒い雲とは異なる灰色の世界が広がった、晴れた日ならさしずめ一面の銀世界というところだが、黒雲の下では灰色の世界となる。針葉樹の並木がぐんぐん迫ってくるものの、町らしいものは何一つ見えない。それでもB727はまるで原野に不時着するかのように下降を続け、滑走路の端を視界に捉えた瞬間、雪煙をあげて着陸した。

 駐機場への移動の間に見えるターミナルビルは、どこかくすんだ感じの中に赤い色だけが異様に鮮烈である。見慣れぬ赤く塗装された飛行機も共産圏という先入観を掻き立てるに相応しい小道具となっている。

 
(左)機窓から撮ったオリンピックを終えた空港ビル     (右)1959年開港のシェレメーチェヴォ空港(Wikipediaより)


 給油の間の約1時間は、ロビーで待てという。通常貴重品は携行するよう指示されるが、ここではカメラは携行しないほうが良いと言う。

 なにはともあれ、狭い機内から開放された人々は広いトイレで用を足したいのが人情。しかし、数ヶ月前にモスクワ・オリンピックを終えたはずの空港ではあるが、まともな便器が半数とない。しかも、照明は薄暗く、閑散としたビル内にカービン銃を肩にした警察か、軍隊か知らないが、コツコツ足音を響かせて巡回する様は、非常な圧迫感をツーリストに与えるものである。

 ロビーの売店には、重厚かつ実用的な毛皮製品、ウオッカ、タバコ、民芸品等が何の飾りもなく置いてある。2人の女性従業員は積極的に売るでもなく、ただただツーリストのリクエストに応じて通貨両替に余念がない。

 総じて暗いイメージのモスクワ空港、長い重い厳しい冬のなせる業だけでもなさそうな気がする。乗務員交代で当地に留まるはずのノーブラの若いスチュアデス始め、ほとんどの乗務員が何故か機内一番後方座席に私服で乗ってフランクフルトへ向かう。聞くと、ここに泊まりたくないとの返事。それほどにモスクワとフランクフルトは近くて遠いのであろう。




幻のドレスデンからベルリンへ - プラハ、ベルリン - (異文化体験22 中東欧の旅4)

2009年03月19日 00時04分06秒 | 異文化体験_中・東欧
幻のドレスデンからベルリンへ -プラハ、ベルリン- 1995.09.28


  チェコ通貨 20チェコ・コルナ紙幣

 28日、早目の朝食を取りホテルを出発しようとしていると、朝食に向かう小生の大ボスR社長一行とロビーでばったり。R社長は東欧諸国を廻って帰国される由。小生はJGA同行者と共にいざ中央駅へ。


  プラハ-ベルリン乗車券

 発車30分前に駅に着いたものの、出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。チケット売場に行って聞けど英語が通じず、案内所を駆けずり回って別の駅から発車することが分かった。すわ!間に合うか!と重い荷物を引きずりながら言われた駅にタクシーで発車5分前に到着。しかし、この駅でも出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。どうなっているの?と再度問い合わせると、もう一つ別の駅から出ると言う。なんと3つも駅があるという。
 しかしである、時既に遅し! 諦めるしかしようがない。次の列車は12時18分とのこと。何と3時間近くあるではないか。

  朝の列車に乗り遅れてお昼の列車は12時18分初


 同行者の「ホテルでゆっくりしようや」という提案でホテルに戻るとR社長一行の出発と出くわす。「どうしたんや?」「いや、まあ、あのお・・」と逆に見送る羽目に。同行者が丁度ボヘミアングラスを買いたかったとかで、ホテルのグラス売場の物色を始める。本来ならドレスデンで途中下車し、3時間ほどマイセン焼の工房を訪ねる予定が、幻のドレスデンとなってしまった。残念無念。


  プラハ駅にて 3つもあるとは....


 お昼過ぎに出発したドレスデン、ベルリン経由ハンブルグ行きの列車は、プラハから西北に渓谷沿いの景色を車窓に見せながら定刻通りドレスデンに到着。本来なら街見物をしてこの列車でベルリンに向かうはずであったことを考えると、駅名と一緒に写真を撮らないとおさまらない。ベルリンまでは乗り過ごしては大変と午睡との戦い。ベルリン駅から市内のホテルまでは地下鉄を利用。無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

  エルベ渓谷を車窓に列車は北上する

  本来ならここで途中下車するはずが....


 28年ぶりにベルリンの壁に穴があいたのは、1989年11月9日。12月22日には、東西ドイツを分離する象徴的なブランデンブルク門が開放され、当時の西独コール首相と東独ハンス・モドロウ大統領、そしてモンター西ベルリン市長が最初にこの門をくぐった際、熱狂的な歓喜の声が湧き上がったと新聞が報じている。あれから6年。東西330万人の人口を有するベルリンは、再び統一ドイツの首都として名乗りを挙げ、あちこちで都市改造が進んでいる。


 ベルリンは15世紀からおよそ5百年間、ホーエンツオレルン家が統治し、区別出来ないほど沢山のフリードリッヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
 1740年から86年まで統治したフリードリッヒ大王は、今日のウンター・デン・リンデン通りを目抜き通りにし、オペラ劇場や王立図書館等の文化施設を整備し、この間人口も8万人から15万人に増加するなど、ベルリンを欧州の主要な都市に変身させた。

 1861年、ヴィルヘルムⅠ世がプロイセン王となり、1871年ベルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝になると、このシュプレー川沿岸の都市は人口82万人となり、文字通りドイツの首都となる。

 1920年にはグレーター・ベルリンとして人口380万人にまで膨れ上がったが、1933年から45年の12年間はヒトラー支配下で第2次世界大戦により焦土と化した。1945年東(ソ連)西(米英仏)ベルリンに分割統治され、1961年8月13日にベルリンの壁が初めて築かれた。そしてその28年後。

 さあ!! 明日はポツダムとベルリンの今日をつぶさに見て廻るぞ!


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中東欧の古都プラハ② - プラハ - (異文化体験22 中東欧の旅3)

2009年03月15日 23時45分34秒 | 異文化体験_中・東欧
中東欧の古都プラハ② -プラハ- 1995.09.25~09.28


 26日は理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。

 1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。

 まずはホテルから広場に向けてそぞろ歩き。

 広場には今日も沢山の市民や観光客が集っている

 最初の見学先は1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれる教会。

 次いで6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王が順に姿を現し、天使は市政の公正さを表している。

 旧市庁舎の有名な機械仕掛けの時計

 今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Towerは、良く知られたRoyal Routeの出発点として使われた。隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭に建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。


 ブルタバ川にかかるカレル橋の橋塔

 Vltava川に架かる石造りのカレル橋(チャールズ橋)は、橋の欄干に合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ520m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。ツアーはここで昼食に。

 橋の上から河岸を望む

 プラハを代表する景色(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 午後は、対岸のプラハ城(Hradcany)の見学。プラハ城は歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城。
 1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。聖ビート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)とお城の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。

 St.Vitus'教会とその塔(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

カレル橋越に望むプラハ城と教会(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 建物は排気ガスや長年の埃で煤けて黒く洗えばさぞかし....

 しかし、その中に一歩入ると荘厳で煌びやかな雰囲気に...


 今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークのWGC国内組織委員長と、日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んでの恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。

 今宵の会食のテーブルを同じくする人達

 翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会の続きとTransgasからチェコのガス事情の報告等がなされた。ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
 夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニングが予定されていたが、N氏の誘いで同行者と共に広場近くのレストランでチェコ最後の夜を過ごす。

 街のあちこちにフレスコ画に飾られた新ルネサンス様式の建物が....(写真はROTT HOUSE) (PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 「ヨーロッパの魔法の都」プラハは、「プラハの春」以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中。一方で街の佇まいは中世の玉手箱であった.

  (今回のブログには、理事会のお土産に貰った1994年V RAJI社刊「PRAGUE AN HISTORIC TOWN」より、一部写真を掲載しました)


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