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旅行記、世相独言

レマン湖畔のお祭り -ジュネーブ-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅8)

2014年01月28日 11時13分25秒 | 異文化体験_西欧
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レマン湖畔のお祭り -ジュネーブ- 2002.08.06


 インターラーケンからまたまた210kmのバスの旅で一路ジュネーブを目指す。フランクフルトから始まった今回のバスの旅で一体何km走ったであろうか。

 ドイツの代表的な街道


フランクフルトからヒルシュベルグへ                約 95Km
ヒルシュベルグからハイデルベルグを経てローテンブルグへ 約185Km
ローテンブルグからミュンヘンへ                  約215Km
ミュンヘンから白鳥城を経てインターラーケンへ         約375Km
そしてインターラーケンからジュネーブへ             約210Km

 何と1080Kmのバスの旅がレマン湖畔のローザンヌを経てジュネーブで終わった。


        
    (左)スイス国旗               (中)コミューヌ章                (右)ジュネーブの地図

 おりしも夕刻とあってジュネーブの街の中心部にある「ホテル・ドレイク・ロンシャン」(DRAKE LONGCHAMP)へは交通渋滞で、なかなか辿り着けない。

 ホテル ドレイク ロンシャン

 ジュネーブは1986年9月に一度訪れている。16年ぶりである。あの時は出張中の一人旅で、週末を利用してジュネーブからシャモニー経由モンブラン観光をしたのだが。前日ジュネーブの現地観光社のモンブラン・ツアーに申し込んで、翌日来たバスに乗ってみると何と日本人の新婚さんカップルばかり、場違いな一人でお熱い旅であったのを思い出す。

  1986年モンブラン展望台登頂証明(オーギュディ・ミディ 3842m)

  ジュネーブの街   

        
   レマン湖名物140mの噴水(1986年9月訪問時の写真 噴水直下まで行きたかったが、とても行けない)


       
                  レマン湖の噴水と湖畔に広がる美しいジュネーブの街(Wikipedia)
 
 夕食の後、レマン湖の名物噴水を女房に見せてやろうと暗闇迫る湖畔の散歩に出かける。140mもの高さまで水を噴き上げるジュネーブのシンボルである。冬季は4時頃には終わるようだが、夏季は結構遅くまで水煙を上げていると聞いている。
折りしも湖畔の遊歩道ではカーニヴァルが行われており、たくさんの屋台と人出で結構混雑している。中には泥酔客もいる。遠くにライトアップされたレマン湖名物の噴水がかすかに見える。もっと近くへ進もうと思うが、女房が「治安が良くないよ! 早くホテルに戻ろう」と言う。

夏の湖畔は沢山の夜店が出て大賑わい、左奥遠くに噴水も見える

 それにしても残念であったなあ、アイガー&ユングフラウ!

恥かしがり屋の三巨連峰 -アイガー & ユングフラウ-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅7)

2013年12月22日 00時26分01秒 | 異文化体験_西欧
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恥かしがり屋の三巨連峰 -アイガー & ユングフラウ- 2002.08.06

 インターラーケンの街の中心部に5ツ星ホテル「ビクトリア・ユングフラウ」とその前に大きな公園広場がある。ここの標高は567m。  我々の宿舎「ヴィセス・クロイツ」もこの近くにあリ、天気が気になる私と妻は朝早く起きて公園まで散歩に出掛けた。天気が良ければこの公園広場からユングフラウが見えるようだが、どんよりした雲が視界を遮っている。早く晴れてくれと祈るばかりである。

       
(左)インターラーケン中心部の広場           (右)晴天であれば谷間にこのようにユングフラウが顔を出す


 バスで登山電車の出発駅グリンデルワルドまで行くと、生憎の雨。縁起を担いでレインコートを持って来なかった私は駅前の店でスイス・アーミーの帽子を購入。

       
 (左)雨のグリンデルワルド駅             (右)グリンデルワルド-ユングフラウヨッホ乗車券半券


 グリンデルワルドの標高は1034m。登山電車はここからクライネ・シャイデック2061m、アイガーバンド2865mを経てユングフラウヨッホ3454mまで、2420mの高度差を77分で登る。

      
(左・右)インターラーケンより-グリンデルワルド-クライネ・シャイデックを経てユングフラウヨッホに至る
     (今回はインターラーケンよりグリンデンワルドまではバスで移動)


 駅を出た登山電車は、牧歌的景色の中をゆっくり高度を上げて行く。
 高度が上がると共にガスが車窓からの景色を遮ることが多くなり、逆にこのガスの上に出れば良い天気のはず?と期待も大いに膨らむ。
 ガスが途切れた瞬間に黒々とした岩山が垣間見えるようになると、そこはクライネ・シャイデック駅。残念ながらガスの上にはまだまだ厚い雲が。
 ここで電車は切返し運転となり前後逆に走り出す。

  
                   (左・中・右)徐々に高度を上げるとガスが視界を遮りだす           


      
(左)切り返し運転となるクライネ・シャイデック駅   (右)晴れていれば、クライネ・シャイデックはこんな景色(パンフより) 


 電車はいよいよアイガー北壁の中をくり貫いたトンネルに入って行く。アイガーバンド駅では下車して北壁にくり貫いた窓から下界を見ることが出来るようになっているが、生憎のガスで展望が得られず、寒さが大いに身にしみる。

  
(左)黒々とした岩肌が迫ってくる               (中・右)アイガー北壁をくり貫いたトンネル駅「アイガーバンド」

     
(左)トンネル駅と直結した北壁内展望通路      (右)外は真っ白な氷と雪とガスの世界


 ここから更に600mほど高度を上げた終点が1912年開設以来、最もヨーロッパで標高の高い鉄道駅ユングフラウヨッホ駅。
 「トップ・オブ・ヨーロッパ」と呼ばれる岩山の中の空間に、駅もあれば、氷の宮殿 (Ice Palace) 、更にエレベーターでスフィンクス・テラス(3573m)まで上がる事が出来る。

      
(左)トップ・オブ・ヨーロッパ 3571m            (右)テラスは吹雪いているのでこれで代用

 スフィンクス・テラスの上は吹雪いており、白い雪・氷河と黒い岩山のモノクロトーンの世界が広がっている。皆さん、写真を撮ると早々にトンネルの中に撤退。天気が良ければ、ここからはヨーロッパ最長(22km)の氷河、アレッチ・グレッチャーが南に見えるのであるが・・・。

       
   (左・中)吹雪いて視界ゼロのスフィンクステラス              (右)白い氷河と黒い岩山 モノクロの世界が広がる


 再び電車でクライネ・シャイデックに戻って、昼食・休憩。
 この場所は三巨連峰、アイガー(3970m)、モエンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)を真近に望むことが出来る最高の場所である。ただし、天気が良ければ、であるが。目の前にアイガー北壁が黒々とそびえ立ち、白く輝くユングフラウと対照的だそうだ。
 ドイツでは山の継ぎ目の平らになった山の肩の部分をヨッホというらしく、ユングフラウとモエンヒの間のそれがユングフラウヨッホである。

 三巨連峰(左よりアイガー、モエンヒ、ユングフラウヨッホ、ユングフラウ)(パンフ)


 昼食後、駅周辺を散策する。野生の山羊が人影を見つけて近寄ってくる。ガスも少しずつ薄くなっているようだが、回復は無理のようだ。
 グリンデルワルドに戻る車窓からは、トレッキングする人たちの姿が多く見られる。
 数年前、快晴のアルプスをロープウェイを乗り継いでイタリアからフランスへ国境超えした際もトレッキングまがいのスキーを楽しむグループを沢山ゴンドラから見たが、インフラが整い山そのものも優しい本場のアルプスは、欧州の人々に様々な楽しみを与えているようだ。

   
(左)雲間が切れだしたクライネ・シャイデック駅から下界の牧歌的景色(中)しばし山羊と戯れる    (右)下界駅周辺から見た北壁

 多分、今日のユングフラウ(若い娘)ヨッホは男性である私を恥かしがったのであろう。


 (参考までに、晴れていれば車窓にユングフラウとアイガーがこんな風に!残念!! 右写真は同僚のH氏提供)

   


気になる山の天気 -インターラーケン-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅6)

2013年12月15日 23時31分23秒 | 異文化体験_西欧
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気になる山の天気 -インターラーケン- 2002.08.05

  
 ノイシュバンシュタイン(新白鳥城)の麓で昼食・休憩の後、いよいよこの旅の第2のハイライト、「ユングフラウヨッホ」の麓町インターラーケンに向けた375kmのドライブが始まる。

  ロマンティック街道を走破したバス

 アルペン街道を西へ。チロルの村々を抜け、スイスに入りチューリッヒを遠くに見ながら、山岳地方に登り、闇が落ちた頃にインターラーケンに到着する。

       
               (左・右)アルペン街道沿いの湖で夏を楽しむ人々 

        
(左)ドイツからスイスへ 国境も素通り             (右)インターラーケン近くの峠から見た景色


      
(左)インターラーケンのMAP     (中)インターラーケンの市章      (右)インターラーケンの航空写真(参考)      

 今宵のホテル ヴィセス・クロイツ(WEISSES KREUZ)

 今宵のホテルは、ヴィセス・クロイツ(WEISSES KREUZ)。
 今夜の食事は、ホテルでのオイル・フォンデュ。夫々が串で肉を刺し、油で揚げて食べる。いつものことながら腹8分目にまで到達しない。肉がもっと欲しい!と誰もが思った夕食であった。

 インターラーケンの街角風景

 食後、インターラーケンの街を散策する。アルプスの麓の町だけに山岳地方の楽しげな土産物が店々の店頭を飾っている。そんな店々の中に小奇麗なブランド物を扱う店があった。会社の女性達からブランドもののキイホルダーを頼まれたのだが、関空にもパリ・ドゴールでも依頼品がなく諦めていたが、こんなアルプスの麓で発見。ここで免税手続きをして貰って、約束を果たす。

 晴れていればこんな景色が見えるはず。しかし.......

 明日はいよいよ今回の旅の最大の目的、ユングフラウヨッホと登山電車!
う~ん、山の天気が気になる。どうか天気にしておくれ!!!


山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅5)

2013年12月07日 15時32分00秒 | 異文化体験_西欧
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山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン- 2002.08.05


 バイエルン州の州都ミュンヘン郊外のホテルから、小雨が降ったり止んだりする曇空の中を旅の前半のハイライト、「ノイシュバンシュタイン(白鳥城)」目指してロマンティック街道のバスの旅が再開される。
 ノイ(新しい)シュバン(白鳥)シュタイン(お城)、新白鳥城ともシンデレラ城とも言われているお城である。

 はるかかなたに「あのお城」が見え隠れ

 アルプス山麓を走る頃になると、生憎の天気も少し回復し始めた。山の中腹にあのお城が見え隠れし出すと、それまで静かだった車内に一気に活気がよみがえる。

 麓の駐車場から別の専用バスに乗り換え、中腹のお城近くで下車し、そこからは徒歩。その途中の谷を渡す「マリーエン橋」に来ると、よく目にするノイシュバンシュタイン(白鳥城)の雄姿が一気に広がる。

  マリーエン橋から見た「山間のシンデレラ城」 


 中世にはアウグスブルグからチロル経由でイタリアに至る重要な交易路があり、4つの城が街道を守っていた。
 マックスⅡ世は、1832-38年にホーエンシュヴァンガウ城を現在の場所に再建したが、そこには以前「シュバンシュタイン」があったようだ。
 バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、1869年9月に昔の表、裏2つのホーエンシュヴァンガウ城のあった岩山に「夢の城」の建設に着手した。ノイ(NEW)という冠がつくのはこのためである。
 1883年に本丸が完成し、84年春には4階の王の住居は入居可能となり86年6月の王の死までの2年間、およそ1/4をここで過ごしたと言われる。

         
 (左)ノイシュバンシュタインの入場券             (右)1900年当時のノイシュバンシュタイン(Wikipediaより)

 ノイシュバンシュタインの中で最も印象深い部屋は、王座の広間である。
 1886年王の突然の死により作業開始前の契約は全て解約され、王座の製作も行われなかったようだ。現在、復元されているバジリカ様式の台座は、神の恩寵を受けた王国を賛美するものである。

         
(左・右) ノイシュバンシュタインの最も印象深い部屋「王座の間」   (中)ルートヴィヒⅡ世

 王座の間のバルコニーからは、左にアルプ湖、右にシュヴァーン湖(白鳥湖)、その間にホーエンシュヴァンガウ城がチロルアルプスの山々を背景に、見事な景色が展開している。
 ルートヴィヒⅡ世は、リヒャルト・ワーグナーに「私はホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に、新しい城を建てようと思っている。見つけうる限り最も美しい場所です」と書いている。

                        
 (左)王座の間からみた深い谷を渡すマリーエン橋       (右)マリーエン橋の拡大、この橋からがお城の撮影ポイント

         
 (左・右)ルートヴィヒⅡ世がワグナーに「見つけうる限り最も美しい場所」と言った王座の間からの眺望


 1845年生れのルートヴィヒⅡ世は、私の100歳年上の男。
 永らく政治的策略に巻き込まれたことから、自分の世界に浸り、貴く美しく悪しきものが入り込む余地のない世界を創ることに傾注し、王の年収をはるかに凌ぐお城つくりは王の罷免の動きに結び付いていった。

 1886年精神病者という鑑定により王を白鳥城からベルク宮に移した翌日、夜の散歩に出た王と医師は、湖で溺死体で発見された。
 謎の死は今でもいろいろな伝説が語り継がれている。

  ホーエンシュヴァンガウ城

 お城からは、馬車も通るなだらかな下り道が駐車場まで続いている。
 城門近くには様々な土産物屋が並んでいるが、ノイシュバンシュタイン城の四季折々の絵や写真が、やはり一番人気である。ルートヴィヒⅡ世が少年時代の大半を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城が下界真近に見える。

         
          麓から見た「ノイ(新しい)・シュバン(白鳥)・シュタイン(お城)」

 さあ、次なる目的地はこの旅のハイライト「アイガー北壁とユング・フラウ・ヨッホ」。天気が心配だあ!



ロマンテイック街道(ネルトリンゲンからミュンヘンへ) -ミュンヘンー (異文化体験37 ロマンティック街道の旅4)

2013年12月01日 00時12分38秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ロマンテイック街道(ネルトリンゲンからミュンヘンへ) -ミュンヘン- 2002.08.04


 ロマンティック街道をどんどん南下。


 バスはローテンブルグから中世の環状都市ネルトリンゲン等、ロマンティック街道の街々をかすめておよそ215km走って、今宵の宿舎ミュンヘンに向かう。ハイデルベルグからはおよそ500km。
 折りしもミュンヘン手前で空模様が怪しくなり、市内に入った所でスコールに見舞われる。

 ネルトリンゲンの城壁を車窓に見ながらミュンヘンへ


                        
  (左)ミュンヘンの市章                            (右)ミュンヘンの街並み

 ドイツ南部の都市ミュンヘン(Munchen)は、バイエルン州の州都で、ヨーロッパ有数の世界都市。ミュンヘンという名は僧院(ドイツ語で僧を表す「メンヒ」が由来)と言われている。
 ミュンヘンといえば、ビール。大小多数のビール醸造所があり、世界最大のビールの収穫祭である「オクトーバー・フェスト」には世界中から毎年600万人以上の観光客が訪れる。

         
          
    (上段、左右)毎年600万人以上の観光客で溢れる「オクトーバー・フェスト」の参考写真
    (下段 左:ビール祭りの絵ハガキ    右:ビール祭りで有名なホーフブロイハウス   


 そのミュンヘンでの夕食は、もちろんビアホールでの夕食となる。
 大きな舞台ではドイツ民謡の演奏に民族衣装の踊り手が我々を出迎える。次から次と入ってくる団体さんのほとんどが日本人である。大きなお皿にのったソーセージと野菜はとても塩辛くて、我々の舌に馴染まない代物であった。

                   
               (左・右)ドイツ民謡の歌と踊りを鑑賞しながら... ちょっと食事が辛すぎる!

 ビール醸造業とともに有名なのが、自動車産業。市北部のオリンピア・シュタディオン近辺には世界有数の自動車メーカーBMWの本社がある。

 16年前であろうか、業務出張でミュンヘンに来たのは。 
 その時は9月の中旬で街はちょうどオクトーバーフェストの準備中であった。
 旧市街地の中心地、マリエン広場には新市庁舎(新といっても建築後約100年が経過している)があり、そこにドイツ最大の仕掛時計がある。11時と12時(夏季17時)にはほぼ人間の大きさの人形32体と鐘が結婚式を再現する有名な仕掛け時計である。

 そうそう!その時に広場に面したゾーリンゲンの店でナイフ・フォーク・スプーンの豪華セットを買って帰ったのだが、そのセットはあまり使われずに食器棚に今も鎮座ましている。

                    
             (左・右)ミュンヘンのシンボル、マリエン広場の新市庁舎と仕掛時計


 そんな市庁舎広場や名物時計台との再会等、夜のミュンヘン散策を楽しみにしていたのだが、今宵のホテルは明日の行程を考えてミュンヘン市の郊外、空港の近くだそうな。
 折からの雨と日曜日ということもあって、ビアホールの周辺も人影はまばらである。バスはビアホールを後にホテル「アストロン・エアポート」に直行。

 ホテル・アストロン・エアポート(現在のNHエアポートホテル)

 本日の行程は、ざっと500km。さてさて、明日は何km乗るのやら。
 でも、明日はいよいよ、この旅のクライマックス「ノイシュバンシュタイン城」である。



ロマンティック街道の中世都市(2) -ローテンブルブ-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅3)

2013年11月24日 22時31分14秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ロマンティック街道の中世都市(2) -ローテンブルブ- 2002.08.04

           
 (左)ローテンブルグ市の市章      (右)ローテンブルグ・オブ・デル・タウバー地図


 ハイデルベルグからローテンブルグまでは185kmのドライブ。人口1.2万人のローテンブルグは、入り組んだ路地や小さな公園、それらを取り巻く木組み住宅といった中世さながらのよく保存された旧市街で知られ、ドイツで最も完璧な中世都市の姿を今日に伝えている。
 ここローテンブルグは「中世の宝石」とも呼ばれ、正真正銘のロマンティック街道の街である。

       
同じ場所の  (左)1900年当時の風景             (右)現在の風景

 ローテンブルク・オプ・デア・タウバー (Rothenburg ob der Tauber) は、バイエルン州ミッテルフランケンのアンスバッハ郡にある大規模郡都市である。
 その起源は、970年頃にライニガーという貴族によって創設されたデトヴァンクの小教区だそうな。
彼がタウバー川を望む丘の上 (oberhalb der Tauber)に城を建てたことが、現在の地名である "ob der Tauber " の由来だとか。

             
(左)城門から見た城壁に囲まれたローテンブルグの家並み     (右)1900年頃のローテンブルグの家並み(参考)


 ここで、少しローテンブルグの歴史を垣間見てみよう。

 12世紀には、1137年ドイツ皇帝ホーエン・シュタウフェンが即位(在位1138-52)し、1142年にローテンブルグに帝国の城を築き、ここに宮廷を置いた。
 しかし、この宮殿で政務を執った皇帝は彼のみで、その後フリードリッヒ赤ひげ大王によって都市に昇格。市場や城壁が築かれ、タウバー川沿いの城壁はこの頃のものである。

 13世紀になると、領主ホーエン・シュタウフェン家が断絶し、1274年ローテンブルグはハプスブルク家のルドルフⅠ世から帝国都市の特権を与えられ、自由都市となる。これにより商業都市として栄え、第2の城壁が築かれた。
 十字軍遠征に伴いローテンブルグには聖遺物として聖血が置かれ、中世のローテンブルグは第1級の巡礼地であったとか。市壁内5500人、周辺領地内14000人が居住。

  街を取り囲む城壁


 14世紀になると、第3城壁も築かれ、1350年には皇帝から徴税権と関税権が認められ、ローテンブルグは帝国自由都市とみなされるようになる。
 14世紀に建てられた高さ52mの鐘楼と市庁舎が並ぶマルクト広場を中心に、街は大いに発展を極めた。

        
(左)街の中心 マルクト広場と市庁舎  (中)市参事会酒宴館のマイスタートランクのからくり時計 (右)からくり時計のアップ

 今日は夏休みの日曜日とあって、城壁に囲まれたこの街は観光客でごったがえしている。
 歴史的な市庁舎に面したマルクト広場には、大勢の人が市参事会酒宴館のマイスタートランクのからくり時計が時を告げるのを今や遅しと待っている。
 また人々は様々なお店や昔変わらぬ中世の街並み(プレーンライン)をそぞろ歩きしながら、まるで街全体が一種のテーマパークとなっているこの街を楽しんでいる。

 暑さに堪えかねて街角の噴水で水浴びする鳩たち

 そんな中で暑さに堪えかねた鳩が街角の噴水で水浴びをしていた。



ロマンティック街道の中世都市(1) -ハイデルベルグ-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅2)

2013年11月17日 21時30分40秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します。この旅行以降の写真は、やっとデジタル写真となります)

ロマンティック街道の中世都市(1) -ハイデルベルグ- 02.08.04


           
 (左)ハイデルベルグの市章               (右)ハイデルベルグの旧市街(アルトシュタット)

 すんなり眠りに入ったものの早朝には目が覚める。街道沿いのホテルではあるが、通行車両は少なく交通騒音は気にならない。フランクフルトから55km南に位置するヒルシュベルグからこの旅がスタートする。 

 最初に訪れたハイデルベルグは、ドイツ連邦共和国バーデンヴュルテンベルク州北西部の都市。

         
 (左)ネッカー河畔から見たハイデルベルグ城        (右)22万リットルの大酒樽(Wikipediaより)

 ラインの3大支流のひとつ、ネッカー川に影を落とすハイデルベルグ城は12、3世紀頃の神聖ローマ帝国の要塞で、ファルツ先帝侯の居城だったと言われる。城内のロンデルという西南端突出部の高台からは、市内を流れるネッカー川と中世の都市が一望出来る。18世紀に城兵のために造られたという22万リットルも入る大酒樽は、お城の名物となっており樽の上まで一周できるようになっている。

          
 (左)お城の街を見下ろす所にある門の前で         (右)お城から見たハイデルベルグ旧市街の街並み


 1386年に創立されたハイデルベルグ大学はドイツ最古の大学で、16世紀後半から17世紀初めにかけてドイツの学芸文化と宗教改革の中心となった。今日でも市民10人に1人は学生と言われている。ちなみに市の人口は13万人。ということは、学生が1.3万人ということ?

          
(左)中世の家並み(正面はフリードリヒ館)   (中)ホテル・ツム・リッター(騎士亭)     (右)ホテルの看板 


 ハイデルベルクの最も古い部分はアルトシュタット(旧市街)である。日曜日とあって川沿いの旧市街を散策するのは観光客ばかり。中世そのままのたたずまいを示すバロック様式の旧市街の家並みや聖霊教会、1592年に織物商人の一家によって建設されたハイデルベルクに現存する最も古い建物「ホテル・ツム・リッター(騎士亭)」や、石畳の路を犬の散歩をする婦人の姿等を見ていると、腰を下ろしてゆっくりこの雰囲気を味わいたい気持ちになる。折りしも大学近くの広場のオープンカフェが開店準備を始めたので、一番客となって一休みしていると鐘の音が大学の礼拝堂辺りから聞こえてくる。

            
(左)広場に隣接する建物のお店が開店準備    (中)犬の早朝散歩をするご婦人     (右)オープンカフェで一休み


 ネッカー川に架かるカール・テオドール橋(アルテ・ブリュッケ)の方に戻ると、折しも自転車のロードレースが行われている。この橋の向う袂から川越しに見るお城の景色は、かつてゲーテも称賛したというが、残念ながらロードレースのために橋は通行止め。

  
(左)カール・テオドール橋(アルテ・ブリュッケ)とお城 (中)アルテ・ブリュッケの袂で   (右)アルテ・ブリュッケを疾走する自転車

 今この橋を次から次へと猛スピードで自転車が通り過ぎ、沿道の見物人からやんやの声援が送られている中を、我々は次なる目的地、ローテンブルグに向かう。



ドイツの観光街道 -ヒルシュベルグー(異文化体験37 ロマンティック街道の旅1)

2013年11月11日 23時42分21秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ドイツの観光街道 -ヒルシュベルグ-  02.08.03

 11時50分発のエア・フランス291便で関空を飛び立ち、パリ到着が17時35分。20時15分パリ発のAF1018便でフランクフルトに降り立ったのは夜の9時35分であった。直ちに出迎えのバスで今回の「ロマンティック街道を巡る旅」の出発点であるヒルシュベルグの街道沿いホテル「アストロン ヒルシュベルグ」にチェックインする。

 パリ・ドゴール空港でのトランジット

 今回の旅は、女房が選択したコースである。ノイシュバンシュタイン城やスイスアルプス(ユングフラウヨッホ)やTGVの乗車、パリ観光といった盛りだくさんの内容で、日本人の常に人気トップ5に入る観光コースだそうだ。
 多くの旅行代理店が同様のコース設定を行っているが、今回は阪急トラピックスを利用。

 ユーロ圏も拡大し、今回の旅では通貨はユーロ1種類で事足りるのは大変便利である。ちなみに1万円で160ユーロ。レートは約121円/ユーロ。

  ドイツの主な街道


 ドイツには100を超える観光街道があるという。

 ライン川沿いのマンハイムを起点にネッカー川沿いの古城や大学都市を巡り、ローテンブルグやニュールンベルグを経てチェコの首都プラハに至る古城街道

 バーデン・バーデンからシュツットガルトを経てアルプス山麓方面のリンダウに至るファンタステイック街道

 アルプス山麓を東西に結ぶ、リンダウからフュッセン、さらにオーストリア・ザルツブルグに至るアルペン街道

 そして、今回我々が旅するマイン川の両岸に開けたヴェルツブルグからローテンブルグ、ネルトリンゲン、アウグスブルグからフュッセンに至る350kmのロマンティック街道

 等々が、その主なもので日本人にも馴染みの街道である。

  ロマンティック街道のルート


 ロマンティック街道は、かつてローマに通じる通商路でもあったことから、その名の由来とされている。ロマンティック街道の起点ヴェルツブルグは、紀元前1000年頃には既にケルト人の城塞があったという古都で世界遺産にも登録されている都市である。

 今回の旅の出発点はロマンティック街道から少し外れた古城街道のハイデルベルグからスタートのようだ。ハイデルブルグも街道都市めぐりには絶対欠かせない街である。

 ヒルシュベルグの街道沿いホテル「アストロン ヒルシュベルグ」

 長旅の疲れからか、あまり時差も感じずすんなり眠りについた。明日からしばらくバスの旅が続く。



カタルーニャ・モデルニスモと飛蚊症-バルセロナ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅7)

2013年06月01日 21時59分04秒 | 異文化体験_西欧
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カタルーニャ・モデルニスモと飛蚊症 -バルセロナ- 97.07.27-07.29

    
             バルセロナのホテル「アポロホテル」とそのルーム・キイ

 夕刻のグラナダからバルセロナへ。今宵の宿はアポロホテル。モンジュイックの丘やバルセロナ港に近く、パラレル通りの地下鉄パラレル駅が最寄り駅である。
明日は、市内観光の後自由行動、夕食も自由である。スペイン最後の晩餐、さてどうするかなあ?


           
  バルセロナの眺望(左手にサグラダファミリア、右手の港は世界3大美港の一つ)

 1888年バルセロナで万国博覧会が開催され、モデルニスモ建築の幕開けとなった。スペインの近代建築は鉄骨構造をガラスと煉瓦でふさいだ「動物学博物館」を先駆けに、カタルーニャ・ルネサンスと言う民族主義の高揚の中で、伝統を生かした独自の建築表現を生み出した。

  
(左)カタルーニャ・モデルニスモの祖「動物学博物館」  (右) 装飾美が圧巻、カタルーニャ音楽堂

 カタルーニャ音楽堂の見事な装飾を生み出したモンタネール、イスラムもゴシックも全ての伝統を消化し全く独自の空間を創造したガウディといった建築家たち、更に旧市街の市壁を壊し近代都市へ生まれ変わらせるグエル(ガウディのパトロン)のような資本家たち(ちなみに「都市計画」という言葉は、このバルセロナ拡張の際に生まれたそうだ。)、今日のバルセロナの街に名建築家たちの作品は見事に溶け込んでいる。

 モンジュイックの丘のオリンピックスタジアム

 午前の市内観光は、まずモンジュイックの丘にのぼりオリンピックスタジアムやバルセロナ市内を展望、次にグラシア通りのカサ・バトリョ、カサ・ミラといったガウディの作品を車窓にグエル公園へ。グエルがガウディへ依頼した最初の作品がグエル別邸で、1887年のこと。初期のガウディの作品はスペイン・イスラムの影響が色濃く残っている。1914年に完成した12haに及ぶグエル公園の様々な幻想的な造形美と色彩はガウディ芸術の集大成である。

 ガウディ代表作「グエル公園」

グエル公園にて 


 最後の観光はサグラダ・ファミリア聖堂。ガウディがビリャールの後を継いで2代目の建築家となったのが1883年。グエル公園が完成した1914年以降この聖堂の仕事に専念し、1925年に聖堂の最終案が決定、ガウディ最後の傑作と言われる鐘塔華頂も完成したが、その翌年市電にはねられ死去した。

      
             (左・右)市民の浄財で遅々着々と建設の進む聖家族教会

北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定である。またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成である。完成すればイエスの12使途を象徴した12本の塔が立ち並ぶ、いや18本の尖塔が建つという説などあり、何が本当やら。完成予定はガウディ没後100年の2026年とまことしやかに言われているが、建造と修復が同時並行の大プロジェクト、無事完成を祈るのみである。

     
  (左)建設開始初期の参考写真           (右)完成予想モデル、この通りになるかどうか?

       
(左)建設中の塔の上からモンジュイックの丘方面を望む   (右)聖家族教会_受難のファサード

それにしてもこのカタルーニャという土地は、ガウディのみならず、奇才、天才を数多く世に送り出している。ピカソ、ミロ、ダリ、タピエス、カザルス・・・・。


 観光後は自由行動。息子に頼まれた財布を買いにカタルーニャ広場近くのロエベの本店に。リュックを背負ったラフな格好の日本人が入ってきてドアマンもあまりいい顔をしていないが、まあ、お許しあれ。

        
(左)バルセロナ1の繁華街ランブラス通り(参考写真)(右)コルドバ「花の小道」で見かけたサングラス犬

 ランブラス通りで遅めの昼食を済ませ、港の方向に歩こうと天を仰いだその時、目にはじけた様な閃光と闇が走り、右目に黒いものが浮遊している。
 何度も瞬きするがなかなか取れない。極めて不快な違和感がする。こりゃ、帰ってすぐ目医者に行かなくては。(帰国後、近所の眼医者で飛蚊症と判明。治るものではなく、気にならなくなるまで数週間かかると言われ、とりあえず一安心)
コルドバの「花の小道」にいた犬がサングラスをしていた理由?が分かった次第である。

 バルセロナ港のWF開発、レストランやショッピング等賑わい空間
 
 今夕は、スペイン最後の夜。再度フラメンコというのも考えたが、時間帯の早いフラメンコではいまいち。ホテルで聞くと最近ポルト・ベルやバルセロネータ等のウォーターフロントに雰囲気の良い美味しいシーフードレストランが沢山出来ているというので、そこに決定。バルセロナ港は世界3大美港のひとつ。海辺のレストランのテラス席で灼熱のアンダルシアの思い出を振り返りながら久々のシーフード料理を堪能し終えた頃には、すっかり夜の帳がスペイン旅行の終わりを告げていた。
  
翌日はKLMオランダ航空で11時25分バルセロナ発、アムステルダム乗換、関空30日午前9時35分着。
早速、目医者に行かなくては!!(以来、紫外線防止のサングラスをゴルフ等には常用するようになった次第)



「清流のすすり泣く町」② -グラナダ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅6)

2013年05月26日 09時08分13秒 | 異文化体験_西欧
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「清流のすすり泣く町」グラナダ② -グラナダ- 97.07.26-07.27

 アルハンブラ宮殿の象徴「ヘネラリッフェ庭園」

 アルハンブラ宮殿の東側、坂道を10分ほど上がった所にある夏の離宮「ヘネラリッフェ」。
 この離宮の「アセキアのパティオ」は、アルハンブラ宮殿の象徴としてよく写真に登場する庭園である。細い水路の両側にはほとばしる噴水、バラ、オレンジ、月桂樹の木、糸杉等で囲まれ、独特の魅惑的な雰囲気が漂よっている。空中庭園とも言われるこの庭園で国際音楽舞踏祭が開かれている。

 「空中庭園」の意味  

 暑い日中に、正直これだけ歩き回るともはや限界である。宮殿を後にして昼食・休憩、やれやれである。大司教館の脇の庶民的なビブ・ランブラ広場に近い所にラ・アルカイセリアというグラナダ名物のアンダルシア料理店が昼食の場所。昼食後は、少しの時間アラブ色の濃いバザール「アルカイセリア」を散策する。イスラーム時代は絹市場だったようだが、今は土産物屋に占領されてしまっている。

         
                 19世紀末に造られたアルカイセリアのバザール

 バザール横のビブ・ランブラ広場、暑い!暑い!

 午後の観光は、「カテドラル」と「王室礼拝堂」。キリスト教徒にとってレコンキスタはアメリカ大陸発見と同じ位の大偉業であったに違いない。イスラームをイベリア半島から追い出したイザベル女王とフェルナンド王の両王が、自らの墓地を偉業の象徴であるグラナダに築いたのは決して偶然ではなかろう。「カテドラル」は1528年にゴシック様式で着工、後にルネサンス様式を取り入れた5身廊式の落ち着いた外観に手直しされ完成した。

 カテドラルの主祭壇、祈りを捧げるカトリック両王の像

 カテドラル最大の傑作は何と言っても「王室礼拝堂」。エンリケ・デ・エガスが建造し、1521年にカトリック両王の遺骸が納められた礼拝堂である。両王の墓はイタリア産大理石で造られ、黄金の格子に囲まれている。礼拝堂には娘夫婦の墓もある。入場料250ペセタ必要。

   
(左)1505~07年に建造された王室礼拝堂の入場券   (右)美しい鉄格子に守られた両王の墓

 地中海、大西洋併せて800kmに及ぶ海岸線を有し、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸モロッコまでわずか14kmという地理的条件から、アンダルシア地方は古来から様々な外的影響(文化的、宗教的、政治的)を受けてきた。
 その最大の影響因子がイスラームで、アンダルシアは正にイスラームとカトリック融合の地であり、その証を種々見聞して来た。これはアンダルシアに限ったものでなく、スペインが他の欧州諸国と決定的に違うのはイスラームの影響を強く受けている点だと人々は言う。

 グラナダの開城

 灼熱のアンダルシア観光もこれにて終了。夕刻19時55分の飛行機で一路カタルーニャの都バルセロナへ。21時05分の到着である。