Anchor

旅行記、世相独言

「清流のすすり泣く町」① -グラナダ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅5)

2013年05月20日 18時19分31秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

「清流のすすり泣く町」グラナダ① -グラナダ- 97.07.26-07.27

 コルドバからバスでグラナダへ。ホテル・メシア・グランビアがグラナダの宿舎。今宵は食事付きのフラメンコショーが待っている。

 ホテル・メシア・グランビア

        
  本格的なフラメンコの踊りは、日付変更線が変わる頃に行かないと見れません

 サクロモンテの丘の洞窟タブラオというのを一度体験してみたかったが、今宵は街中のタブラオ。どのタブラオも宵の内は駆け出しのダンサー達。
 やはり日付変更線あたりからタブラオに行かないと真打の踊りは見れないもの。到底、グループツアーでは体験できないので、それはそうと割り切って、グラナダの夜を楽しんだ次第である。



 シエラネバダの峰から豊かな地下水脈がアルハンブラ宮殿に

 アンダルシアの詩人マヌエル・マチャードが「清流のすすり泣く町」と呼んだグラナダ、シェラネバダの高い山頂からの地下水脈が湧き水や小川となってグラナダの町、更にはアルハンブラ宮殿のアキセアのパティオを潤すのである。

 急斜面に白い家壁が並ぶアルバイシンの丘と、ダロ川を隔てて対峙する双子のような丘にアルハンブラ宮殿がそびえている。アルハンブラとはアラビア語で「紅色の城」を意味し、その名は城が建つサビーカス丘陵の赤土に由来するようだ。

 サビーカス丘陵のアルハンブラ宮殿(BONECHI社アンダルシーア)

 中世のレコンキスタの強まりの中、1492年イスラム最後の砦のアルハンブラ宮殿が落城、ここグラナダは500年に及ぶイベリア半島のイスラム支配終焉の地となった。ナザリ家最後の王ボアブディルは、1491年カトリック包囲軍に城を明け渡して去って行った。町に別れを告げながら目に涙した王を母后がたしなめたと言う逸話もある。
 ナザリ家が残した宮殿に林立する塔、鐘楼、修道院、宮殿、病院、そして清流を駆使した噴水庭園等を目にしたキリスト教徒は、さぞかし驚きとある種感動を覚えたのではなかろうか?
 また、これを壊すことなくこれほど違う異文化を受け入れたグラナダの人々の開放的で奔放で、それでいて愁いを帯びた性格もまた納得できる。

 カルロスⅤ世宮殿 

 カルロスⅤ世宮殿は、本人がイスラム宮殿に対抗して建造させたもの。スペインの伝統建築からかけ離れたイタリア・ルネサンスを模したもので、イタリア国外では最も美しい宮殿と言われている。1526年にペドロ・マチューカが着手したが、中断等もあり完成させたのは何と20世紀のフランコ政権。ただし、ファサードと中庭以外は未だに未完だそうだ。
 先ほど述べたように、この宮殿建築に際し、マチューカは回教時代の王家の墓を一部利用したものの、既存の建物の取り壊しは一切していない。

 早速、駆け足でアルハンブラ宮殿の主要な所を見て回ろう。

 まず最初に訪れたのが「孤塁」を意味する「アルカサバ」。宮殿の見張用の要塞で、「ヴェラの塔」からは眼下のアルバイシンの丘を埋め尽くす白壁の家々、サクロモンテの丘、シエラ・ネバダの峰々が一望できる。

   
(左)「孤塁」を意味する「アルカサバ」    (右)「ヴェラの塔」から見る白壁の家々のアルバイシンの丘

 王宮に入って最初の「メスアールの間」はレコンキスタ後にキリスト教徒の手が入り礼拝堂に改築された。

 その次に待っているのが「アラヤネスのパティオ」。長方形の池の両側に芳香を放つ天人花の生垣がある。パティオの北側にそびえる高さ45mの巨塔は「コマレスの塔」。
 明かり窓、銃眼、物々しい重量感がこのパティオが公式行事の場だったことを物語る。この中には大使の間と称される宮殿最大の部屋がある。反対側の柱廊の上にはハーレムがあったと推定されている。

 「アラヤネスのパティオ」と「コマレスの塔」
 

 次に待っているのは「ライオンのパティオ」。124本の大理石円柱が中央の12頭の黒大理石の獅子に支えられた噴水を囲むオアシス空間である。このパティオを取り囲む4つの間が「モカベラの間」「アベンセラッヘスの間」「王の間」そして「二姉妹の間」。

    
              (左、右)アルハンブラの象徴「ライオンのパティオ」

 とりわけバロック様式の「二姉妹の間」の装飾は宮殿の中でも最高傑作の一つ。蜂の巣状のドーム天井とそれを取り巻く鍾乳石飾りは必見に値する。蜂の巣の数は約5000、所々星型に穿たれた明り取りから光が射し込み、“天空の写し絵”となっている。

 「二姉妹の間」の蜂の巣状の見事なドーム天井

 「二姉妹の間」には二つのサロンがあり、これまた素晴らしい装飾である。

 一日では到底見切れないアルハンブラ宮殿、後半は次回に紹介することに!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コルドバのグラサン犬 -コルドバ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅4)

2013年05月11日 11時42分28秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

コルドバのグラサン犬 -コルドバ- 97.07.25-07.26
 
 オキシデンタル・ホテルはコルドバの中心から約5km郊外にある。その分、緑も多く、暑いアンダルシアでは大いに気が休まる。早朝のホテルの庭園を散策する。

            
(左)涼しげな朝のホテル庭園の散策、昼ともなれば.....  (右)オキシデンタル・ホテル(ルームキー)

 コルドバはB.C.169ローマ帝国の貴族植民地から発展し、イスラム時代の10世紀頃には人口100万人、モスクは300以上と最も栄えたかつてのイスラム・スペインの首都である。その分、イスラム文化の影響が今なお色濃く残っている。


  
(左)カエサル時代の橋(ローマ橋)の向こうにカテドラル (右)LA MEZQUITA-CATEDRAL(BONECHI社アンダルシーア)

 グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡ると、そこがメスキータ。もともとここには西ゴート王国時代にカトリックの聖ビセンテ教会があったところ。イスラム侵入によりモスクとして使われ、後ウマイヤ朝を興したアブド・アッラフマーンⅠ世は784年に新たにモスクの建造を始め、10世紀までその拡張が続き、結果2.5万人収容の巨大モスクとなった。レコンキスタ後はキリスト教の大聖堂に転用。16世紀に中央部を壊してゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂が造られ、現在の姿になったようだ。

 アルミナルの塔(塔上に大天使ラファエルの像)

 「アルミナルの塔」横のムデハル様式の「免罪の門」から「オレンジのパティオ」、更に「シュロの門」からモスクに入ると異様な光景が目に飛び込む。「円柱の森」と言われるイスラム独特の無数の馬蹄アーチが立ち並ぶ薄暗いかつ幻想的な空間が広がっている。

 モスク内オアシスに林立する800本もの円柱 

        
      モスク内キリスト教カテドラルの(左)見事な木彫内陣席  (右)祭壇

  見事な木造装飾のカテドラルを過ぎると、壁面の緻密な装飾が素晴らしいミヒラブ(ムスリムがマッカ(メッカ)の方角を知るためにモスクに設けられたもので、聖書コーランが納められた最も大切な場所)がある。音響効果が素晴らしく天井は一塊の大理石を彫像したものだそうだ。

            
(左)ミフラブ(メッカの方角に設ける壁がん、最も神聖な場所)(右)ミフラブの天井(貝形のキューポラ、一塊の大理石作品)


 「夏のアンダルシアはフライパンの底」とはよく言ったもの。この日の気温は43℃。もう、外を歩くのは沢山なのだが迷路のようなユダヤ人街を歩いて昼食レストランへ。
 ユダヤ人街には路地のような狭い道に白い壁の住宅が並び、沢山の花鉢が白壁を飾っている。小路の奥には「アルミナルの塔」が見える。

                 
(左)とある民家の中庭パティオを拝見        (右)雰囲気の良い昼食レストラン

             
(左)白壁に花一杯のユダヤ人街の小路(後方にアルミナルの塔)(右)街のどこからでも顔を見せるアルミナルの塔

 「花の小路」はまさにそのような中でもとりわけ美しい小路である。その小路にはお土産店もあるが、その奥まった所にある小さな広場に1匹の犬が伏せている。さぞかし犬も暑いことだろうと思い近づくと、何と!サングラスをしている。日射の強いアンダルシアでは、犬も目の保護をしているではないか。まあ、これは土産物屋の主人のお愛嬌だろうが、この日射しの強さは最終訪問地のバルセローナで思い知ることになる。

 「花の小路」奥のグラサン犬、目は大切だよ!と訴えている


  
(左)グラナダへの道中に立ち寄ったアンダルシア名物「白い村」 (右)車窓に広がるひまわり畑

 コルドバ観光の後は、一路グラナダへ。約3時間のバスの旅である。オリーブやヒマワリ畑に加え、時々白壁の家々が城塞のように密集したアンダルシア名物「白い村」が視界に入ってくる。アンダルシアのコスタ・デル・ソルに近づくとこの風景がより頻繁に見られるという。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カディスの赤い星」 -セビーリャ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅3)

2013年05月05日 11時50分26秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

「カディスの赤い星」 -セビーリャ- 97.07.25

  逢坂剛の直木賞受賞作「カディスの赤い星」

 スペインへの憧れは、逢坂剛の直木賞受賞(1986)作品「カディスの赤い星」を読んだ時。ギターとフラメンコをこよなく愛しスペインを舞台にした作品の多い氏の小説は、私を一日も早くスペインへと駆り立て、1987年それはマドリード訪問という形で実現した。異文化体験9「カディスの赤い星の旅」もご覧下さい)

 今回訪れた「セビーリャ」とコスタ・デ・ラ・ルスの中心都市「カディス」とは、もはや至近距離。「カディスの赤い星」の匂いが今にも伝わってくる。

  
(左)温室の中のような緑一杯のマドリード・アトーチャ駅(右)マドリード・セビーリャ間を2時間半で結ぶAVE

 マドリード・アトーチャ駅は、それ自体植物園を連想させる緑の多い駅である。アンダルシアの中心都市セビーリャまではスペインが誇る高速鉄道AVE(Alta Velocidad Española 鳥の意)で2時間半。フラメンコや闘牛の本場で、「カルメン」の舞台でもある。

 グアダルキビル河畔に立つ黄金の塔

 黄金の塔(イスラム王国の監視塔)を左に見ながらグアダルキビル川を渡り、カルメンの煙草工場(現セビーリャ大学)のお隣がマリア・ルイザ公園である。1929~1930年イベロ・アメリカ博覧会が開催され、半円形のスペイン広場近傍に当時の建造物が沢山残っている。

  
           (左・右)イベロ・アメリカ博が開催されたスペイン広場

       
 (左)余りの暑さにスペイン広場の噴水の水を飲む馬      (右)スペイン広場にて

 さすがの暑さに観光馬車の馬も噴水の水を飲まずにいられない。我々もひとまず昼食にサンタ・クルス街を離れ、再びサンタ・クルス街に戻ってセビーリャのランドマークとでも言うべき大聖堂(カテドラル)と「ヒラルダの塔」を訪問する。


          
(左)アンダルシアの解説本(BONECHI社刊1995)  (右)スペイン最大の大聖堂、右の塔がヒラルダの塔
    
 8世紀以降、イスラムによって約500年間に亘り支配されていたスペイン。セビーリャはそのイスラム文化の中心地となり、多くのイスラム様式建造物が築かれた。1248年キリスト勢力はセビーリャを奪還、レコンキスタ(国土回復運動)は1492年のグラナダ陥落で幕を閉じた。
 セビーリャのコロンブスは、レコンキスタが幕を閉じた1492年インドに向け船出した。スペイン、セビーリャの黄金時代を築いた大航海時代の始まりである。

  
(左)セビーリャ大聖堂のコロンブスの墓(棺を担ぐ4国王)  (右)参考写真:イタリア・ジェノヴァの「コロンボ500」

 余談だがコロンブスが新大陸を発見して500周年の1992年、ここセビーリャで万国博覧会が開催され、来る時に乗ったAVEも整備され、4200万人近い来場者を得た。
 一方、この年何故かイタリア・ジェノヴァでも「コロンボ500」という海洋博覧会が開催され、一説にはレンゾ・ピアノ氏が本拠地ジェノヴァの活性化を願って提案したと言う噂もあったが、日本国や姉妹都市大阪も出展し小生も官民視察団の一員として訪れた。ただ、こちらは目標300万人に対し100万人強の来場と散々であった。 異文化体験14「港湾空間を巡る旅」を参照下さい)


                      
(左)ヒラルダの塔からの眺望(遠方に円形マエストランサ闘牛場)(右)塔回廊に24の鐘(塔頂にヒラルディーリョ=風見鶏像)

 大聖堂は1402~1506年、約1世紀の歳月を経て建造された世界で3番目に大きなカテドラル。12世紀に建設されたモスクを転用したもので、高さ98mの「ヒラルダの塔」と呼ばれる鐘楼も、モスクのミナレット(尖塔)に増築する形で作られた。24の鐘が並ぶ回廊からは市街が一望出来る。

 大聖堂の入場チケット 
 
 大聖堂の内部には、黄金で塗られた20mの祭壇衝立がある。この衝立は、中央に鎮座するのがキリストではなく聖母マリアだという点が特徴。スペインは4世紀からマリア信仰が盛んで、セビリアはその中心地であったそうだ。この衝立の装飾に3トンもの金が使われたと言う。新大陸との交易で栄えたセビリアを象徴する建造物である。

         
 (左)大聖堂の内部                     (右)世界最大(220㎡)の巨大祭壇衝立


 観光後は、コルドバまでバス移動。灼熱のアンダルシア、車窓に黄色いひまわり畑や緑のオリーブ畑を見ていると、突然大きな黒牛が現れる。この黒牛さん、あるアルコール飲料会社の広告用看板だそうだ。以前は名前が入っていたそうだが景観上禁止され、名無しの黒牛が突如平原に現れることになったとか。

 車窓に突如現われる黒牛

 コルドバのお宿は、ホテル・オキシデンタル。明日はあの有名なメスキータとのご対面である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古都トレドとエル・グレコ -トレド-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅2)

2013年04月26日 16時13分20秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

古都トレドとエル・グレコ 97.07.24

 これがあるからここは***、と多くの街がランドマーク中心に特徴ある景観を有している。ここトレドもタホ川に囲まれた高台にアルカサル(城壁)や大聖堂が特徴的な景観を醸し出し、写真を見れば一目でトレドと分かる。

 一目でトレドと分かる景色

  
(左)ピサグラ新門に向うバス        (右)タホ川に架かるサン・マルティン橋の向こうに帰りのバスが

 バスで来る観光客はピサグラ新門から入って太陽の門から徒歩で旧市街地を散策、大聖堂からエル・グレコの家を見物した後、ロス・レイエス・カトリコス通りを下って、タホ川に架かるサン・マルティン橋を渡れば、バスが待っているというコース。

 ゴヤが描いたトレドの街(Wikipediaより)

 西ゴート王国がイベリア半島を支配し、560年トレドはその首都になり、またイベリア半島全体の首座大司教座ともなった。しかし、711年にはウマイヤ朝によって征服されイスラム支配となった。現在の大聖堂はイスラム時代の大モスク跡に建てられたもので、1227年着工、1493年竣工、かつての権威を象徴するかのような見事なフランス・ゴシック建築である。

              
(左)見事なフランス・ゴシック建築の大聖堂        (右)大聖堂の内部
 
 スペインは国民の70%以上がキリスト教のカトリックの国である。1549年に日本にやってきた宣教師フランシスコ・ザビエルは、バスク地方のイエズス会に属し、熱心な宣教師であると共に商人顔負けの商才も発揮した。1584年には天正遣欧使節団がマドリードを訪問する等、日本との関係も深い。

 旧市街地の中は、何本もの細い路地が走っているが、登り方向に歩いていけば大聖堂(カテドラル)に行き着く。

 路地を上の方に歩いていくと大聖堂に。路地の隙間から塔が見える。

 クレタ島出身のギリシャ人画家エル・グレコ(1541-1614)は、若い時ヴェネチアでティツィアーノに師事、35歳の時にスペインに渡り、トレドに居を構え74歳で死ぬまでここで描き続けた。エル・グレコの家は、そのアトリエと書斎が再現され、美術館も兼ねている。

 エル・グレコの家(アトリエと書斎が再現されている)

 本当かどうか知らないが、グレコの作品「羊飼いの礼拝」等を見ると頭と身体のバランスが少しおかしいことに気づく。意識して描いたのかどうか分からないが、近年ではグレコ乱視説が有力のようだ。本名はドメニコ・テオトコプーロス。
 エル・グレコとは、「あのギリシャ人」という意味だそうな。作品には必ずギリシャ語サインがある。

               
(左)エル・グレコ作 「羊飼いの礼拝」   (右)同じく「ある老人の肖像」(Wikipediaより)

 スペイン陶器は国内広く焼かれているが、ここトレド近郊も盛んである。道路わきのお店にはカラフルな陶器やタイルが売られている。「家を建て替えた時の表札に丁度良いねえ」と女房と言いながら、いつ建て替えるかわからぬ未来の我が家のためにアルファベットでの表札タイルを一式買った。(幸いこの4年後に建て替え工事を行い、この時買ったタイルは死蔵されることなく我が家の門扉に顔を覗かせている)

  
(左)アルファベットタイル これで表札を作るのも如何? (右)何故か壁面裏に貼り付けた我が家のタイル


  
(左)トレドの撮影ポイントにて              (右)タホ川に架かるマルティン橋

 今夜は熟睡! 明日はアンダルシア アグマールホテルのカードキイ

 さあ、明日から小生にとって処女地のアンダルシア地方、楽しみである!




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マドリード、僕は大学教授?-マドリード- (異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅1)

2013年04月20日 22時23分41秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

マドリード、僕は大学教授?-マドリード- 97.07.23―07.25

 真夏のスペイン、いまいち気の進まない女房殿を伴ってアンダルシアの旅に出かけた。昨年の豪華なイタリア個人旅行と違って今回はグループ旅行。それはそれなりに楽しみ方があろうというもの。夏のアンダルシアだけに暑さが気にかかるところである。

        
(左)「血と金の旗」と言われるスペイン国旗         (右)今回の宿舎「アグマールホテル」

 関空からマドリードへは、アムステルダム経由KLMオランダ航空を利用。お昼に関空を飛び立ち、午後10時前にバハラス国際空港に到着。ホテルはアトーチャ駅に近いアグマール・ホテル。アトーチャ駅はアンダルシア等、南部方面の列車が発着する駅で、このホテルになったとか。明日は午前に市内観光、午後はオプションのトレド観光である。

 今回が3度目のスペイン。初めて来た時は、10年前の1987年。イベリア航空がIATA(国際航空運送協会)にまだ加盟しておらず、日本―欧州のラウンドチケットではスペインに入れず別途料金を払ってマドリード入りをした記憶がある。その時スペインは物価も安く、間違いなく新たな観光地として脚光を浴びるだろうと確信したが、10年後の今日、その確信は現実のものとなった。

        
(左)スペイン広場のセルバンテス像、後ろはプラザホテル (右)ドン・キホーテとサンチョパンサ像

 観光のスタートは、初回訪問時に泊まったプラザ・ホテルの前に広がるスペイン広場。騎士道物語に心酔するドン・キホーテとお供のサンチョ・パンサの像、さらにそれを見下ろすミゲル・デ・セルバンテス像がある。彼が「ドンキホーテ」を書いたのは1605年、聖書に次ぐベストセラーと言われている。
 ブルボン朝初代国王フェリペⅤ世が命じ1764年に竣工した王宮、フェリペ3世の騎馬像が立つかつての街の中心マヨール広場、マヨール広場に代わって19世紀から市の中心となったプエルタ・デル・ソル、グランビア通り周辺の主要な観光の後、プラド美術館へ。

    
            (左・右) 街の中心部の賑わい、今日は暑くなりそう!

 市の中心となるプエルタ・デル・ソル(太陽の門)


 世界3大美術館に数えられるプラド美術館。古典絵画の宝庫であり、盗品や剥奪品がない点が他の美術館とは違う!とスペイン人は自慢するが、本当はどうなのか?
 エル・グレコ、ベラスケス、そしてゴヤに至るスペイン絵画が堪能できる。更にラファエロやルーベンス等の名作も数多く展示されていて、とても短時間に見れたものではない。前回来た時は日曜日でもあり足が棒になるまでタップリ名画鑑賞を行ったのを思い出す。

        
(左)プラド美術館入場券(500ペセタ=400円程)      (右)公式ガイドブック(英語版293頁)

  
ゴヤ(1746生)専制主義下の異端尋問所から追及を受けた「裸のマハ」とその姉妹作「着衣のマハ」(Wikipediaより)


 パエリャの昼食後は、トレド観光。これは次回ブログで紹介するとして、夕刻マドリードに戻って、今回のツアーでは夕食はフリー。

ツアーの昼食は早速パエリャ

 沢山のプランが旅行会社から出ているが、出来るだけ自由度の多いプランを選んだ結果である。ガイドブックの調べとホテルで評判を聞いた結果、「Botin ボティン」というヘミングウェイが足繁く通ったと言う創業1725年の由緒あるレストランに決定。名物料理は仔豚の丸焼きと書いてある。

 
(左)マドリードで知らぬ人がいないと言うボティン     (右)名物料理の仔豚の丸焼き

 ギネスが認定した世界で一番古いレストラン(1725創業) 
 
 Botinにて  

 宵っ張りのスペイン人と違って早い夕食の日本人。お店に行くとお客はまだ2,3組。名物料理にトライしたいが二人ではヘビー過ぎる、ウェイターに相談するとハーフ・ポーションもあるので是非とのこと。「では、それ!」と即決。

 我々のテーブルの斜め向いに一人の日本人青年が一人で食事をしている。話しかけると旅行中とのこと。この店は一応高級スペイン料理店ということになっているので、「豪華な旅行だね」と言うと、彼は「今日が旅行最終日で、寂しく一人豪華ディナーです」と、はきはきと答えてくれる。スペインのこと、大学生活のこと等を話していると、学生君が何を思ったか「ひょっとして大学の教授ですか?」との発言に、女房も大笑い。

 小生がそんなに品格があるように見えたのかなあ???
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

必見!オスティア・アンティカ ― ローマ ― (異文化体験28 イタリア満喫の旅10)

2013年03月31日 11時01分27秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

必見! オスティア・アンティカ ― ローマ ― 96.05.05

 今回のイタリア旅行を締め括るナポリ・ポンペイ見物がバス運転手組合のストで出来なくなった。急遽旅行ガイド本と相談して決めたのが「オスティア遺跡」の見物。情報が少なくどんな所か全く見当がつかないが、何か面白そうだ!。

 ローマ・テルミニ駅から地下鉄B線でマグリアーナへ、ここでオスティア・リド線に乗り換えオスティア・アンティカ駅で下車。所要時間は約1時間。

 全くの田舎駅、降りる人もなく寂しい限りだが、地図を頼りに駅からまっすぐ伸びる道を歩くこと約5分、遺跡らしき場所に着く。特に入口といった感じのものはなくそのまま古代遺跡の中に迷い込むことになった。案内板も順路表示もなく、ただただ想像を膨らませてこの古代遺跡を自分なりに捉える必要がある。

 
(左)乗降客も少ないオスティア・アンティカ駅  (右)駅から徒歩5分、いつの間にか古代都市に。

 オスティアは、古代ローマ帝国の首都ローマの外港都市として紀元前6世紀から紀元5世紀まで繁栄を続けた町。最盛期には10万人が居住したと言われている。
 テヴェレ川の河口、ティレニア海に面した商業港で、必要に応じて上流30kmのローマに物資や人を運んだようだ。発掘面積はローマ帝政期の町の1/3、約34haに及び、公衆浴場10、家屋密集地区162、うち数階建てマンション66、製粉所2、劇場1、大きな独立家屋22、その他多くの倉庫、神殿、飲食店などが陽光を浴びることになった。

 かつてローマの外港として栄えたオスティアの町


 最初に目にしたのは白と黒のモザイクが敷き詰められた広場。同業組合のフォーラムという名前がついている。ここは古代オスティアの国際商業都市としての性格が色濃く出ている。
 かつては中心部に神殿があり、その周りに地中海沿岸諸国の各種業界の代表が駐在事務所を開設していたようだ。白と黒のモザイクで自店の取扱品目等を描き、それが看板の役割を果たしていた。回船問屋の船、升に入った小麦、象牙商の象、決闘用の猛獣供給商人等々、見て回るのが結構面白い。

 同業組合のフォーラム(いろんな看板モザイクがあって面白い)

 オスティアの劇場は、アウグストゥス帝時代の紀元12年の建造で紀元196年に3500名収容に改造されたという記録がある。

 3500人収容の劇場(夏にはオペラやコンサートが演じられる)

 レストランと思しき建物は、通りに面してカウンターがあり、背後の柱にはメニューの一種と思われる料理が描かれている。二階建てのようで二階にはバルコニーがあって夕涼みが出来るようだ。

 ポンペイにも浴場の前にこんな居酒屋や食堂があったなあ

 レストラン近くの通路には、紀元前4世紀の城塞の壁画が展示されている。日本の高松塚古墳の壁画の扱いを思えば、何とも気の毒な扱いである。

 元は赤い極彩色の壁画、退色しているが高松塚級

 赤煉瓦の肌がむき出しの一際大きな建物は、雑草の茂る広場に面して階段が設けられ、オスティアの公共広場とカピトリウム(神殿)のようだ。古代は全て大理石板の化粧がなされて、階段上の大きな祭室には神々の巨像が立っていたという。

  後方は公共広場とカピトリウム(神殿)

 沢山あった公共浴場の一つ、ブティコススの公共浴場。その温湯室の2つの大理石の湯舟の間に海神たちを主題にした立派な2000年前の床モザイクが残っている。 

 見事なモザイクが残ったブティコススの公共浴場

 オスティア遺跡の中で、高さの点で特徴のある総合建物がある。「戦車の御者の家」「7賢人の公共浴場」「礼拝堂」等々からなるこの大きな3階建ての建物、全ての用事をこの一区画で済ませられそうである。それにしても2000年前に高層建物があったとは、驚きである。

   
                  (左・右)「戦車の御者の家」3階建ての立派な建築

 何時間いても興味深く、面白い古代都市巡り。自由にどこにでも入っていけて、自由に触れることが出来る。それだけに古代の匂いがぐっと身近なものに感じられる。空想や想像が止まることなく駆け巡る。
是非、是非お薦めの古代遺跡である。

  
                     EDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」より

 ここオスティアに博物館があることが帰る直前に分かったが、時既に遅し。立ち寄って解説書だけを買ってオスティアを後にする。
(本ブログに書いた解説は、購入したEDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」から一部抜粋した)


 ローマに戻って、今夕は我々の「最後の晩餐」である。今回の旅の二人の思い出深い料理は期せずして一致し、フィオレンティーナ!と決まった。ホテルで教えて貰った近くのトスカーナ料理店で再び1kgのTボーンステーキにトライする。

  最後の晩餐は、トスカーナ料理フィオレンティーナで。

 グループ旅行では味わえない、手作りの自分達の時間スケールとペースで旅行した12日間の旅、女房殿にとって忘れられない旅になったようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローマの休日 -ローマ-(異文化体験28 イタリア満喫の旅9)

2013年03月23日 23時51分10秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ローマの休日 -ローマ- 96.05.04

 アッシジを出たバスは夕刻ローマに到着。ホテル・エクセルシオールにチェックイン後、まだまだ明るいローマの街を散策する。ホテル前のヴェネト通りを南下し、バルバリーニ広場からスペイン広場に向かう。この広場の階段には西日を浴びて、大勢の人たちがローマの休日の一場面を連想しているかのように坐っている。広場前の賑やかなコンドッテイ通り、コルソ通りを経て、トレヴィの泉に出る。

    
(左)いつも人だまりの絶えないスペイン広場             (右)トレヴィの泉
 
 さすがにお腹も空いてきたのでこの辺りのトラッテリアで夕食を済ませ、再び薄暮のホテルまで戻る。ホテルの前は映画でも有名な「カフェ・ド・パリ」。「お茶でもして部屋に戻ろう」とVia V. Venetoに面したテラス席でローマの最初の夜のひと時を過ごす。

 ホテル向いの「カフェ・ド・パリ」でお茶

 さあ、明日はゆっくりローマ見物をしよう!

 12年前、初めてローマを訪れた時の事を思い出す。その歴史的建造物に目を奪われ、足の痛みもなんのその、男二人で早朝から夜遅くまでひたすらローマの街を歩き回って史跡めぐりをしたことを思い出す。
 ヨーロッパの都市は、その旧市街地を中心に徒歩でゆっくり観光できる点で車社会のアメリカの都市とは大きく異なる。今回は、わが女房殿にそこまでのスタミナは期待出来そうにない。

       
(左)ヴァティカン市国 サン・ピエトロ広場(Wikipedia)    (右)ヴァティカンにおけるミケランジェロとラファエロ
 
 まずは、ホテルに近い地下鉄A線バルベリーニ駅から終点のオッタビアーノ駅へ。カトリックの総本山ヴァティカン市国見物に出かける。
 エジプトから運ばれた巨大オベリスクを中心とする円形広場の半円形の回廊は、284本のドーリア式円柱と140人の聖人像で飾られている。サン・ピエトロ寺院は4世紀に聖ペテロの墓上に建てられたバシリカが始まりで、ミケランジェロらが再建に取り組み完成を見たのは1626年。
 入口右側にミケランジェロ作「ピエタ」がある。屋上クーポラへは330段の階段がテラスに通じているが、今は有難いことにエレベータが利用出来て、サン・ピエトロ広場を一望できる。

      
(左)ミケランジェロ 最後の審判       (右)システィーナ礼拝堂 天井画

 ヴァティカン宮殿1階のシスティーナ礼拝堂にはミケランジェロの大作が、また2階にはラファエロの世界が待ち受けている。数年かけて修復された「最後の審判」他の壁画は実に色彩豊かで見る者を感動の世界に引きずり込む。
 
 悲しいかな、ヴァティカンではカメラが電池切れになって、写真が撮れず。その分、しっかり瞼に焼き付けた次第である。


 次は、オッタビアーノ駅からテルミニ駅乗換、B線のチルコ・マッシモ駅へ。217年に完成し1600人収容のカラカラ浴場に行く。残念ながら期待とは裏腹に廃墟同然の姿に幻滅。

       
(左)カラカラ浴場                       (右)Bonechi社刊 名鑑ローマ

 再び地下鉄で1駅戻ってコロッセオ駅へ。駅近くのピッツェリアで昼食後、まずは収容5万人以上、紀元80年に建造され「コロッセオが滅びる時、ローマは滅び、その時世界も滅びる」と言われた巨大円形闘技場「コロッセオ」。様々な死闘が繰り広げられたアリーナは、後世の建築資材として持ち去られ、猛獣の檻等の下部構造を直接見ることが出来る。

        
(左)コロッセオからフォロ・ロマーノ周辺         (右)コロッセオにて

 お昼になるとさすがに暑い。ジェラートを買って、頬張りながらコンスタンティヌス帝の凱旋門からフォロ・ロマーノを散策する。自らがローマ時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。様々な建築物のかつての姿、そこに営まれたであろう社会生活、空想はとどまる所を知らない。そんな古代ローマを再現・描写した本も売られていて、空想の手助けとなる。

    
(左)フォロ・ロマーノ                     (右)ローマ 重ねて見る昨日と今日

 想像を掻き立てるフォロ・ロマーノにて

 気がつくとヴェネツィア広場近くまで来てしまった。ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂が間近に見える。かなり歩いたので足にぼつぼつだるさを感じるようになってきたが、まだまだこれからと女房殿をせきたてる。南下して今度は、パラティーノの丘近く、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の「真実の口」に向かう。幸い2組のカップルがいたのでお互いの写真を撮り合う。

 映画「ローマの休日」で有名になった「真実の口」

 映画「ベンハー」で強烈な印象が焼き付いている古代戦車競技が行われた競技場チルコ・マッシモは真実の口からすぐ近く。夕暮れ時にはライトアップされ古代ロマンが味わえる所だそうだが、まだ少し時間は早く、さすがに競技場を歩く足取りはもはや限界に近く、とりあえずホテルに戻ることに。

 古代戦車競技場「チルコ・マッシモ」

 ホテルに戻るとフロントでメッセージを受け取る。明日はナポリ・ポンペイに行く現地ツアーを申し込んでいるが不吉な予感。
 電話をすると全国のバス運転手組合が明日一斉にストを決行するので、イタリア中のバスが動かないとのこと。ポンペイは是非女房殿に見せてやりたい所ではあるが、列車でとなるとナポリ乗り継ぎで3時間少々かかるようだ。

 検討の結果、イタリア最後の日は、かつてローマの外港であった「オスティア・アンティカ」を訪ねることにした。

 
 (左)今宵はカンツォーネを聴きながらの夕食         (右)ローマでのホテル「エクセルシオール}

 さて、さて、今夕はカンツォーネ・ナイト。ホテルで教えて貰った美味しいレストランでカンツォーネの歌声に足の疲れも幾分かは癒された次第である。しかし、まあ、よく歩いたこと。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清貧の聖者フランチェスコの街 -アッシジ-(異文化体験28 イタリア満喫の旅8)

2013年03月16日 11時22分00秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

清貧の聖者フランチェスコの街 -アッシジ- 1996.05.03

  JALユーロ・エクスプレスのバス、赤色のバスもある

 この時期、「JAL Euro Express」と車体にカラフルに書き込まれたJALのバスがヨーロッパアルプス周辺の主要都市やイタリア国内の主要都市を結んで運行されている。 フィレンツェからウンブリア州アッシジを経由してローマに至るルートもあり、しかもアッシジでミニ見学コース付きとか。
 有楽町JALプラザの推奨を素直に受け入れ、フィレンツェからバスの乗客となる。


        
(左)オリーブの丘の上に広がる城壁に囲まれた小さな街 アッシジ (右)城壁から見下ろすウンブリア州の緑豊かな景観  


 アッシジは12から13世紀の清貧の聖者サン・フランチェスコの町として有名。緑の平野を周囲に見下ろすオリーブの丘の上に広がる小さな街である。フランチェスコは本名ジョバンニ。1182年に豪商の息子として生まれながら、放蕩生活を送り1202年コレストラーダの戦いで捕虜となり、1204年聖フランチェスコ回心。1226年44歳で没する。カトリック教会は直ちにアッシジにフランチェスコ教会を建立することを決定し、1230年に下堂が、1253年に上堂が完成した。

 サン・フランチェスコ聖堂(Wikipedia、assisiより)

 下堂にチマプーエによる「聖母子と聖フランチェスコ」等、上堂にジョットによるフランチェスコの生涯の28場面が描かれ、「泉の奇跡」「小鳥への説教」等が有名である。

 ジョット作「泉の奇跡」  同じく「小鳥への説教」

 震災崩壊前のフランチェスコ生涯28場面の様子

 しかし、我々が訪ねた翌1997年9月26日,2度に渡る直下型大地震に見舞われ、死者12名,負傷者120名,損壊家屋9万件以上という大被害を被った。サン・フランチェスコ教会も祭壇上部の天井が崩れ落ち,修道士2人と美術監督局職員2人が,下敷きとなって亡くなった。更に、チマブーエの天井画が失われ,ジョットのフレスコ画に亀裂が入る等、文化遺産も多大な被害を被った。
 長い期間をかけてこの貴重な歴史・文化遺産が修復され、今日再び見ることが出来ることは喜ばしいことである。


         
(左)街の中心となるコムーネ広場        (右)コムーネ広場の紀元前1世紀建造のミネルヴァ神殿

 街の中心はコムーネ広場。この広場の向いには,6本の美しいコリント式円柱を有する起源前1世紀に建てられた小さなミネルヴァ神殿が建っている。16世紀にキリスト教教会に転用された。

 「明日が年に一度のお祭り」と、うれしそうな子供達

 街の入口サンピエトロ門広場に戻る最中、礼服の子供達と出会う。明日が年1回のお祭りの日だと言う。皆、楽しそうだ。

 かつて外敵から街を守ってきた城門

 さあ、バスは最後の宿泊地となる夕刻のローマに向け出発!! 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クワトロチェントの匂いとフィオレンティーナ -フィレンツェ ―(異文化体験28 イタリア満喫の旅7)

2013年03月02日 23時58分59秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

クワトロチェントの匂いとフィオレンティーナ -フィレンツェ ― 1996.05.02

         
(左)サンジョバンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とフィレンツェの色(ベコッチ出版社 フィレンツェより)
(右)ベコッチ出版社 「フィレンツェ」

 ウフィッツィ美術館の開館は午前9時。8時半には既に長い列が出来ている。ドイツから来たというご夫人が我々の前に並んでいる。早く開ければいいのにねえ、とお喋りしながら開館を待つ。
 ジォット、ボッティチェリ、ラファエロ、ダ・ヴィンチ、ティツィアーノ、ミケランジェロ等々、華のクワトロチェント(1400年代)を演出した巨匠達の作品が待っている。

 開館前のひととき 


           
(左)「ウフィッツイ」美術館総合ガイド本 (右)「ダヴィデ」ミケランジェロ(アカデミア美術館)(ベコッチ出版社フィレンツェより)
 
  
(左)ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(右)「荘厳の聖母」左チマプーエ、右ジョット(左右ともベコッチ出版社フィレンツェより)


 昨日ストで入館出来ず断腸の想いでフィレンツェを後にした沢山の美術愛好家の人々は、今頃どこを旅しているのであろうか。私にとって今回が3度目の美術館ではあるが、メディチ家の財力を結集したルネサンス美術の作品群は、ルーブルとは異なる迫力で私を迎える。川向こうのペッティ宮まで結ぶヴァザーリの廊下の一部を体験し、鑑賞に足が棒となった我々は屋上のカフェテラスで休息を取る。

     
(左)ヴァザーリの廊下とヴェッキオ橋      (右)美術館屋上のカフェテラスで休憩

 この街は街全体が美術館でもあり、辻々の建物の角に何気なく名画が通行人を見下ろしていたりする。もっとも、5年前に会った都市計画を担当する市の役人達は、掘れば出てくる地下遺跡や地上の文化遺跡に再開発が困難を極め交通網も整備出来ず、大いなる嘆きを漏らしていたのを思い出す。
 

 クワトロチェントの匂いを満喫した我々は、金銀細工の店が両側に並ぶアルノ川に架かるヴェッキオ橋を渡り、アルノ川左岸にあるペッティ宮殿に向かう。

 フィレンツェの商人ペッティが建てメディチ家に売却されたルネサンス宮殿で、宮殿内は今は総括的な美術館にもなっている。裏側には広大なイタリア式のボボリ庭園が広がって高台からはフィレンツェの街並みが一望できる。

  
(左)ペッティ宮殿        (右)フィレンツェの街並みを背景にボボリ庭園にて


 再び旧市街地に戻る途中に、レターセットのお店があった。品物はピンきりであるが、上品で比較的安いものがあったので購入し、帰国後少し畏まったお祝い等の祝辞に使っている。透かしの入った厚手の上質の紙を使っている。

カラフルな便箋  メーカーの刻印
 

 さて、トスカーナに来て食べると言えば、「Tボーンステーキ!」。
 Tボーンステーキ、Bistecca alla Fiorentina(ビステッカ・アラ・フィオレンティーナ)は、トスカーナ特産キアーナ牛を数ヶ月じっくり熟成させ、ゆっくり血抜きをし、表面を焼いて(中はほとんど生状態)供される。血抜きされているため、生臭さは感じられないステーキとか。 

 ホテルで美味しい所を聞くと、ここが穴場で一番!とホテルの近くの地元の肉料理店を教えてくれた。早速予約を入れて貰う。しかし、この「バルビーニ」(IL LATINIという店かも?)というレストラン、いつも開店前にお客が大勢待つから早めに行ってくれと言う。

   
(左)グランドホテル(現セントレジス・フローレンス・ホテル)     (右)夕食前、ロビーにて

 地図を頼りにお店に行くと確かに大勢の人が開店を待っている。開店と同時に皆自分達の席を確保しようと競って店員にアピールする。あまり予約は関係ないようだが、こちらもそれをアピールすると何とか席につけた。数列の長いテーブル席がすぐにお客で埋め尽くされる。

 「バルビーニ」(IL LATINIかも?)にて1kgのフィオレンティーナ

 お隣は米国からの老夫婦とスペインからの新婚さん。早速1kgのフィオレンティーナ(Tボーンステーキ)をオーダーする。かなりの代物だが、みんなとわいわいがやがや喋っているとお腹に納まった。さすがに老夫婦はライトメニューであったが、新婚さんも同じものを完食。ステーキ好きの我々夫婦、この夕食にはお店の雰囲気と共に大満足である。

 さあ、明日はアッシジ経由、ローマまでバスの旅である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストだって!どうしてくれるのよ - ピサ -(異文化体験28 イタリア満喫の旅6)

2013年02月23日 15時05分43秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ストだって!どうしてくれるのよ ― ピサ - 1996.05.01

昨夕、ヴェネチアから中世ルネサンス発祥の地、ここフィレンツェに到着。アルノ川沿いのグランドホテルにチェック・インする。以前に泊まったエクセルシオールの前に位置する5つ星ホテルである。

  
(左)フィレンツェの駅                 (右)川沿いのホテルの部屋からの眺め

グランドホテル・フィレンツェ  

 当地では何と言ってもウフィッツィ美術館での数々のルネサンス名画との再会が楽しみである。
が、が、が、である。朝早く起きて美術館の列に並ぼうと前まで行くと、何とストライキで休館とのこと。
 世界中から沢山の観光客が来ていて、お目当ての名画が待っているというのに。日本から来たツアー客のおばさん達は、「このためにはるばる来たのに!!」、「スケジュールが決まっているので、入れないじゃない!」と大いなる怒りがあちこちに渦巻いている。まことにお気の毒である。

 ヴェッキオ宮殿前のシニョリーア広場 (フィレンツェ)


しからば、我々はとりあえず今日はピサに行き、明日美術鑑賞することに急遽予定を変更する。中央駅でピサ行き往復チケットを購入。14400リラ、約1000円。およそ1時間で着くそうだ。

 ピサへの切符、フィレンツェから約千円


 ピサのドゥオーモ広場へは2km30分ほどのウォーキング、駅前広場からクリスピ通りを北へ、アルノ川を渡り更にローマ通りを1kmほど歩けばよろしいと説明を受けたが、下車した人たちが同じ方向に進むので歩調を合わせる。


            
(左)駅からドゥオーモまでは2km、もうすぐ!  (右)奇跡の広場に建つ斜塔、大聖堂、洗礼堂


 斜塔で有名なピサだが、13世紀フィレンツェの支配下に置かれるまではジェノヴァ、ヴェネチアらと大海運国の覇権を争った町である。町の中心の11世紀に建てられたドゥオーモはピサ・ロマネスク様式の傑作で、何本もの柱列が並ぶ白い大理石の大伽藍は実に美しい。


(上)イタリア唯一の円形洗礼堂内部 ピガレッティ彫刻の8角形の洗礼盤(1264年)


 大聖堂の中央ブロンズ門扉には聖母マリアの生涯がピサーノの手により制作(焼失・再建)され、「キリスト降誕」の場面は多くの人の手で撫でられたキリストが輝いている。

 大聖堂中央門扉の「キリスト降誕」の場面


 斜塔はその付属鐘塔として12世紀に着工された。残念ながら高さ55mの斜塔(南北で70cmほど差があるが)は倒壊防止のため上がることはできない。地盤沈下のためこの当時建てられたほとんどのピサの建物が傾いていると言われている。
ガリレオがドゥオーモの吊下されたランプから「等時性」を、斜塔で「落下の法則」を見出した話はあまりにも有名である。

 天才建築家ボナンノ・ピサーノ作。4.31mの傾斜。お決まりポーズ

 広大な緑のドゥオーモ広場には、カップル達が春の日を浴びながら寄り添ってひと時を過ごしている。中には寝転がってきわどい行為の熱々のカップルもいる。さすがにここはイタリアである。

 全体のロマネスク様式にイタリアン・ゴシック様式が調和している


 夕刻にフィレンツェに戻り、多くの人で賑わうドゥオーモ広場周辺を散策する。以前、建設業界の人達と訪れた際、サンタ・マリア・デル・フィオーレを見て「あっ!東京都庁そのものだ!」と叫んだ人がいた。また、前回夕食後、ワインで良い気持ちになって広場の絵描きに似顔絵を書いて貰っている最中に寝てしまったりと、この広場にはいろいろ思い出がある。

  夕刻、花の聖母教会をバックに (フィレンツェ)

 白、ピンク、緑色の幾何学模様が特色の花の聖母教会、ブルネッレスキーの設計による大クーポラが中世ルネサンス期に増築され巨大な教会となった。464段のクーポラの階段を上ると、疲れを感じさせないフィレンツェの素晴らしい360度の街並みが待っている。

              
(左)これは東京都庁そのもの!と叫んだ建築業界の人も (右)以前広場で描いて貰った似顔絵

 洗礼堂の「天国の扉」とミケランジェロが命名した東の扉は、ある日本人の寄贈によるレプリカだそうな。ルネサンス最大の功労者とも言われるジォットの設計による鐘楼と共に、このドゥオーモ広場は正にルネサンスの濃厚な匂いがする場所である。

 さあ、いよいよ明日は名画とのご対面である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする