大阪市阿倍野、北畠界隈の歴史探訪(その1 阿部野神社と北畠公園)
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大阪市阿倍野区播磨町で生を受けて30年間住み続けた街、その後大阪府和泉市に転宅し40数年、業務上の東京3年間を除くと大阪しか知らない私にとって、阿倍野区播磨町界隈には今から思えば多くの名所旧跡があったのだが、あまり興味も無く見過ごして来た。久しぶりに旧宅周辺の名所旧跡を探訪してきた。(散策したのは2009年5月で、本稿は近隣大学聴講時の宿題テーマで纏めたものです。)
地下鉄西田辺駅から母校阪南小学校、旧宅、母校阪南中学校、母校住吉高校、阿部野神社、北畠公園、阿倍王子神社、阿倍晴明神社をめぐり天王寺へ。4ヶ所の名所旧跡巡りである。
《その1 阿部野神社、北畠公園》
阿倍野区和泉泉南線に面した北畠公園 阿部野神社
小学生時代「あきいえさん」と呼んだ遊び場であった北畠公園は、北畠顕家公の墓所と言われている。その北畠親房、顕家親子を祭る神社が阿部野神社。神社で貰った由緒書やその他の資料によると、明治15年阿部野神社と号して創立、同23年鎮座祭が斎行され別格官幣社に列せられた。親房公は後醍醐天皇の信任厚く「後の三房」と称せられた一人。
顕家公はその長子で、元弘3年(1333)8月齢わずか16歳にして陸奥守に任じられ、10月義良親王(当時6歳、後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向し多賀国府にて奥州統治する。建武2年(1335)足利尊氏の反逆が明らかになると、鎮守府将軍に任命され、延元元年(1336)奥州より上洛し尊氏を九州に敗走させ、再び東国へ戻った顕家は多賀から霊山に国府を移した。延元3年(1338)再び勢力を挽回した尊氏から京都回復のため再度上洛するも、阿倍野の合戦で敗れ、石津で戦死(御歳21歳)したというのが定説である。
北畠公園の顕家公の墓 墓所前の由緒記
彼は死ぬ直前、主上(後醍醐天皇)への奏上文を書いている。諸国の租を3年間免じること、官爵を重んずること、朝廷を跋扈する雲客、僧侶への接し方を改めること、遊幸を慎むこと、法令を厳にすること、愚直の廷臣を排除すること、等々である。
顕家卿阿倍野合戦の図(住吉名勝図会)と後醍醐天皇宛上奏文要約
思うに、源頼朝以来の鎌倉幕府を支配していた執権北条氏が滅び、建武の中興(1333年)が成り後醍醐天皇の王政復古の理想が動き出そうとする時、再び武家(今度は足利氏)との主導権争いの渦中に投げ出された16歳の顕家は、奥州にあってどのように考えていたのであろうか、私には大いなる興味が持ち上がる。というのも、
①彼の奏上文の中味からすれば、自らも公家ではあるが主上の取り巻きの廷臣どもが天下国家、民百姓のことを考えず自らの保身のことのみを考えて、果たして王政復古が実のある形で執行できるのかという疑問、
②更に一度は九州まで落ち延びた尊氏が容易に短時間で大軍を擁することが出来たということから、「武家の棟梁」というものが有する潜在的な底力、
③同じ武家の棟梁足りうる親朝廷派の新田義貞の人望の無さ、等々
を目の当たりにして「国家とは」「天皇とは」「政治体制のあり方」といったことを熟考したに相違あるまい。
北畠親房公、顕家公を御祭神とする阿部野神社由緒 北畠顕家公像と花将軍の歌
まさに、天皇制社会と武家社会の分水嶺が顕家の手中にあったと言っても過言ではあるまい。北畠公園の墓所は江戸期の学者並川誠所の提唱で享保年間1720年頃建てられ、「花将軍と謳われた悲運の貴公子」と北畠公園の墓所由緒書にある。1990年「小説すばる」に掲載された北方謙三の「破軍の星」の主人公でもある。
注)阿部野と阿倍野は、次回(その2)で解説します。