Anchor

旅行記、世相独言

さんふらわーde九州北部の歴史旅 (その7)征明の拠点 肥前名護屋城跡

2018年06月10日 21時40分09秒 | 異文化体験_日本
(写真はクリックで拡大します)

さんふらわー de 九州北部の歴史旅    2018.5.16-20

その7.征明(文禄・慶長の役)の拠点・肥前名護屋城跡


 嬉野温泉を出発しようとすると、一転雷鳴が轟き豪雨となった。しばし小雨になるのを待って出発。予定では有田・伊万里の窯元見学等も考えていたが、出発を遅らせたのでパスすることにし、ナビの案内する最短コースで一路、名護屋城跡に向かう。
 嬉野温泉からおよそ55km、東松浦半島の山道を1時間半ほど走って波戸岬の付け根に位置する名護屋城跡に到着したのは11時頃。

          
   東松浦半島の名護屋城の位置                名護屋城跡に到着(左上の建物が博物館)

 九州の一般的な観光ルートから離れていることもあり、名護屋城跡や県立名護屋城博物館を訪れる人は少ないようだ。しかし、関西人の私にとってこの城跡(文禄・慶長の役)は、関ケ原や大阪冬・夏の陣に多大な影響を与えた所であり、まさに徳川天下を造り出した所と考えられるのだ。

          
  観光案内所で貰った名護屋城案内書              観光案内所から見る弾正丸方面景色 

 名護屋城跡観光案内所で歴史遺産維持協力金100円を支払い、肥前名護屋城の解説パンフを貰って、大手口に向かう。この辺りから見る城跡は城のかげ溜池や弾正丸方面の景色だが、その大きさに驚かされる。

          
   名護屋城の見取り図                  肥前名護屋城図屏風より  

 名護屋城博物館が、城と陣跡の特徴を簡単にまとめているので、若干の付言をして先にそれを紹介する。
●名護屋城は、豊臣秀吉の征明・朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しての出兵拠点としてわずか5ケ月(主要部分)で築かれた城である。
●1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。
●城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇った。
●城の周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされている。
●現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されている。
●名護屋城は、関ヶ原の戦い後、寺沢広高が唐津城を築城した際、一部の遺材を使用したが、1615年の一国一城令で人為的に破却さ
 れた。

 「大手口」から緩やかな登りを終えると「東出丸」、それに続くのが本丸を守る要の「三の丸」。「馬場」を介して「二の丸」にも通じている。三の丸の上に「本丸」が続くが、かつて三の丸から本丸の入口に二層の豪壮な「本丸大手門」があったようだ。伊達政宗が青葉城の大手門に移築し国宝でもあったが、空襲で焼失したようだ。

  
       大手口の石碑              大手口の解説案内              東出丸(千人枡曲輪、遠く呼子大橋が見える)

  
 三の丸(馬場を介して二の丸に通じる)          三の丸解説盤                 三の丸の井戸

 本丸は、東西130m・南北125mで、玄界灘を一望する西北の隅に「天守閣」が置かれていた。巨大な五層天守で、大坂城と同じ入母屋破風、千鳥破風、唐破風などを多用し金箔も施された贅を尽くした豪華な天守だったようだ。
天守閣からは壱岐・対馬も眺望できたとか。ここから遠く朝鮮方面を遠望していたのだろう。本丸跡には元帥東郷平八郎による名護屋城址の石塔が建っている。また、昭和初期に建造された俳人・青木月斗句の碑「太閤が 睨みし海の 霞かな」も置かれている。

  
 広大(130×125m)な本丸跡            本丸跡中央の石碑(東郷平八郎書)        天守閣横の青木月斗句碑

  
本丸西北隅の天守台跡(岬突端を介して朝鮮方面を遠望)     視界の解説盤           天守台跡からの眺め

  
 名護屋城から北方面の航空写真        城周りの主要武将の陣跡            本丸石碑に見る「内務省」

 海縁の高台で風が強く、時折雨も降る天候なので、元来た道を引き返し、隣接する「佐賀県立名護屋城博物館」に向かう。

          
   佐賀県立名護屋城博物館                     博物館で貰う案内書

 1993年10月に開館した名護屋城博物館、訪ねてみて驚いた。まず、施設の立派さ、展示内容の濃さ、そして入館料が無料、おまけにイヤホンガイドの貸し出しも無料。
 2階が展示スペースになっており、「名護屋城以前」、「歴史の中の名護屋城」、「名護屋城以後」、「特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」」の4つのコーナーで大陸との原始・古代から中世、江戸、近・現代の交流を詳しく展示している。

  
  2階展示スペースの展示配置          入口すぐの名護屋城の復元模型         名護屋城復元模型

 また、巨大な名護屋城のパノラマや、文禄の役では秀吉軍が陸戦では優位に戦いを進めるも、李舜臣率いる朝鮮水軍にことごとく破れ補給路を断たれて南海岸まで撃退させられたが、その際の日本水軍の安宅船と朝鮮水軍の亀船の復元模型など、見るべきものは多い。是非ホームページを一度チェックしてみて下さい。
 http://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/

  
日本水軍の安宅船(左)と朝鮮水軍の亀船(右)    文禄・慶長の役で築かれた倭城         蔚山倭城跡

 文禄・慶長の役が、秀吉子飼いの武将たちのその後の関係を大きく変え、関ケ原の戦い、更には大阪冬・夏の陣で、誕生することのなかった徳川天下を誕生せしめた重要な出来事であったことは、多くの歴史家が書いていることである。朝鮮半島の南岸には多くの倭城が建設されたが、特に蔚山倭城の籠城等を通じた心理的変化は大きい。

 2007年韓国国立暜州博物館交流記念 特別企画展資料

 有意義な名護屋城跡の見学を終え、2007年10月から行われた特別企画展「秀吉と文禄・慶長の役」の解説書(1000円)を購入し、受付の女性に別府への帰路の案内を乞うて博物館を後にした。
 名護屋博物館から国道204号で唐津を抜け、国道203号で牧瀬から厳木多久有料道路へ、多久ICから長崎自動車道、鳥栖JCTから大分道で別府に戻る206km、3時間のドライブで、無事4時過ぎに別府・杉乃井観光ホテルに到着。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« さんふらわーde九州北部の歴... | トップ | さんふらわー de 九州北部の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

異文化体験_日本」カテゴリの最新記事