それまで飼っていた、文鳥やインコを飼うことを止めて1-2年たった頃だった。
偶然通りかかった小学校前で夜店が開かれていた。
小学校の頃までは、良く夜店や祭りの縁日に通った。
懐かしく思い、自転車を降りて夜店を見ながら歩いていた。
その中に、ヒヨコを売る店もあった。
鶏のヒヨコには、悲しい思い出があった。
小学校3年生の頃、鶏のヒヨコを飼い大きくしたことがあった。
立派なオスの鶏になった。
鶏は裏庭で放し飼いにされた。
私にはなつかなかったが、コケコッコーと大声で鳴く大きなとさかの鶏をかっこよく思い好きだった。
あるとき、学校から帰ると、突然その鶏はいなくなっていた。
母は、ゴミ屋にやったという。
私は母を責め、悲しくて泣いた。
ヒヨコを見ると、そうしたことが思い出された。
大人になって、大きくなった鶏をもてあました母の思いも分かるようになったので、鶏のヒヨコを飼おうという気にはならなかった。
だが鶏のヒヨコとは違う縞々の柄のヒヨコがいた。
店主に聞くと、姫鶉で成長しても手に乗る程度の大きさだという話で、餌は何でも食うということだったので、買って帰った。
母が、怒ったことは言うまでもない。
とりあえず、母を説得して、文鳥やインコを飼っていたケージを引っ張り出して、そこで育てた。
夜店で買った姫鶉のヒヨコは、みるみる大きく成長した。
予想したよりは大きかったが、手のひらに乗る大きさだった。
この鳥が、文鳥やインコと違うのは、家の中に放すと絶えず走り廻っていることだった。
姫鶉は、文鳥やインコのようには、なつかなかったが、それでも呼ぶとたまに走り寄ってきたり、手に乗せて包んでやると、少しの間はおとなしくじっとして、手の中で遊んだりしていた。
インコや文鳥は、肩や手に止まってそこで居眠りをして、投げ捨ててもすぐに舞い戻るが、姫鶉は数分立つとすぐに、手の中から走って逃げた。
まるで、腕白坊主のように思えた。
羽が生え変わり、成鳥の羽が生えた頃から、姫鶉を捕まえては上に放り投げ飛ぶ練習をさせた。
そのかいあって、少し上に投げるだけで、家の端から端まで水平に近い状態で飛べるようになった。
大きくなった姫鶉はわがままで、裏庭に放すと走り回って、ダンゴムシやミミズを食べたりしていた。
私が縁側に腰掛けていると、私の足を突きに来たり、足の甲に乗ったりして遊びに来た。
大きなゴキブリを捕まえると、ゴキブリをくわえたまま、私の足の周りを「見てくれ」とばかりに誇らしげに首を真っ直ぐ立てて、クークーと喚声ををあげながら、何度も回り、最後に丸呑みした。
母が鶉は、砂浴びをするというので、砂を買ってきて弁当箱が何かに砂を入れて砂浴び場を作ってやると、気持ちよさそうに砂浴びを始めた。
初めて見た鳥の砂浴びに驚いた。(後日スズメが水浴びも砂浴びもするのを目撃した。)
しかし、その後が大変だった。
家の中で遊ばすと、家中走り回り、羽についている砂がバラまかれ、掃除しても畳がざらざらするのだった。
それでも、家族一同鶉が喜ぶならと、誰も砂浴びをやめさせろとは、言わなかった。
家の中で遊ばれると、不都合が多くなったので真冬以外のときは、ケージも裏庭に下ろし、出来るだけ裏庭で遊ばせるようにした。
夜が近づくと鶉が水を飲み餌を食べにケージに入るので、ケージの戸を閉め、家の中に上げるようにした。
それも手間なので、ケージを縁側に上げ、庭で遊んでいる鶉を呼び寄せ、縁側のケージで餌や水を飲むように訓練した。
訓練はうまく行き、朝ケージの戸を開けて、縁側のガラス障子を開けてやると、自分で庭に下りて遊び、腹が減ると、縁側のケージに上がって餌を食べるようになった。
気分によって家の中も走り回るようなったが、大体裏庭にいることが多かった。。
家の中に入ると、わたしが呼ぶと来るときもあれば、こちらを向いたまま無視することもあった。
こちらから捕まえに行くと、じっとして逃げ回ったりせず、手の中でしばらくじっとしていた。
そうしたときは、手の中から、いつも2-3回に分けて少しずつ首を真っ直ぐ上に伸ばし、最後に上を向いて勝ち誇ったようにクゥォクゥオーと大声で鳴いて、一気に首を元通り縮める。
気分がよいと、これを何度もすることがあり、余りにけたたましい鳴き声なので首を真っ直ぐに持ち上げるときに、「わがった・わかった」といって頭をちょっと抑えてやると、もとの姿勢に戻るが、すぐに頭を上げた。
その鶉を最後に見かけたのは、イタチが鶉を加えて裏庭の塀を登っていくのを見たときであった。
8月の終わりか9月の始め頃、だった。
その頃は、夜になってもなかなか、縁側のケージに上がってこないことが多くなった。
入らないときは、こちらが呼ぶと近くに寄ってくるので、捕まえてケージに入れた。
しかしイタチにやられる前の数日間は、鶉は遊びに夢中で呼んでもなかなか寄ってこず、縁側にも上がってこなかったので、分からせるため縁側のガラス戸を閉めて、餌や水を摂れないようにした。
居間で食事をしていると、2回ほど縁側のガラス障子に鶉が飛び上がりガラス戸にぶち当たってきたので、縁側の戸を開けに行った。
その時目にしたのは、イタチにくわえられた姫鶉だった。
生あるもの、必ず別れがあることは分かっていても、その後しばらく大事なヤンチャな相棒を亡くした喪失感を味わい、悲しみに落ち込んだ。
以上のことは、以前のブログにも思い出として、似た内容を書いた記憶があります。(同じ出来事です。)
20-30代の頃の姫鶉の思い出です。
偶然通りかかった小学校前で夜店が開かれていた。
小学校の頃までは、良く夜店や祭りの縁日に通った。
懐かしく思い、自転車を降りて夜店を見ながら歩いていた。
その中に、ヒヨコを売る店もあった。
鶏のヒヨコには、悲しい思い出があった。
小学校3年生の頃、鶏のヒヨコを飼い大きくしたことがあった。
立派なオスの鶏になった。
鶏は裏庭で放し飼いにされた。
私にはなつかなかったが、コケコッコーと大声で鳴く大きなとさかの鶏をかっこよく思い好きだった。
あるとき、学校から帰ると、突然その鶏はいなくなっていた。
母は、ゴミ屋にやったという。
私は母を責め、悲しくて泣いた。
ヒヨコを見ると、そうしたことが思い出された。
大人になって、大きくなった鶏をもてあました母の思いも分かるようになったので、鶏のヒヨコを飼おうという気にはならなかった。
だが鶏のヒヨコとは違う縞々の柄のヒヨコがいた。
店主に聞くと、姫鶉で成長しても手に乗る程度の大きさだという話で、餌は何でも食うということだったので、買って帰った。
母が、怒ったことは言うまでもない。
とりあえず、母を説得して、文鳥やインコを飼っていたケージを引っ張り出して、そこで育てた。
夜店で買った姫鶉のヒヨコは、みるみる大きく成長した。
予想したよりは大きかったが、手のひらに乗る大きさだった。
この鳥が、文鳥やインコと違うのは、家の中に放すと絶えず走り廻っていることだった。
姫鶉は、文鳥やインコのようには、なつかなかったが、それでも呼ぶとたまに走り寄ってきたり、手に乗せて包んでやると、少しの間はおとなしくじっとして、手の中で遊んだりしていた。
インコや文鳥は、肩や手に止まってそこで居眠りをして、投げ捨ててもすぐに舞い戻るが、姫鶉は数分立つとすぐに、手の中から走って逃げた。
まるで、腕白坊主のように思えた。
羽が生え変わり、成鳥の羽が生えた頃から、姫鶉を捕まえては上に放り投げ飛ぶ練習をさせた。
そのかいあって、少し上に投げるだけで、家の端から端まで水平に近い状態で飛べるようになった。
大きくなった姫鶉はわがままで、裏庭に放すと走り回って、ダンゴムシやミミズを食べたりしていた。
私が縁側に腰掛けていると、私の足を突きに来たり、足の甲に乗ったりして遊びに来た。
大きなゴキブリを捕まえると、ゴキブリをくわえたまま、私の足の周りを「見てくれ」とばかりに誇らしげに首を真っ直ぐ立てて、クークーと喚声ををあげながら、何度も回り、最後に丸呑みした。
母が鶉は、砂浴びをするというので、砂を買ってきて弁当箱が何かに砂を入れて砂浴び場を作ってやると、気持ちよさそうに砂浴びを始めた。
初めて見た鳥の砂浴びに驚いた。(後日スズメが水浴びも砂浴びもするのを目撃した。)
しかし、その後が大変だった。
家の中で遊ばすと、家中走り回り、羽についている砂がバラまかれ、掃除しても畳がざらざらするのだった。
それでも、家族一同鶉が喜ぶならと、誰も砂浴びをやめさせろとは、言わなかった。
家の中で遊ばれると、不都合が多くなったので真冬以外のときは、ケージも裏庭に下ろし、出来るだけ裏庭で遊ばせるようにした。
夜が近づくと鶉が水を飲み餌を食べにケージに入るので、ケージの戸を閉め、家の中に上げるようにした。
それも手間なので、ケージを縁側に上げ、庭で遊んでいる鶉を呼び寄せ、縁側のケージで餌や水を飲むように訓練した。
訓練はうまく行き、朝ケージの戸を開けて、縁側のガラス障子を開けてやると、自分で庭に下りて遊び、腹が減ると、縁側のケージに上がって餌を食べるようになった。
気分によって家の中も走り回るようなったが、大体裏庭にいることが多かった。。
家の中に入ると、わたしが呼ぶと来るときもあれば、こちらを向いたまま無視することもあった。
こちらから捕まえに行くと、じっとして逃げ回ったりせず、手の中でしばらくじっとしていた。
そうしたときは、手の中から、いつも2-3回に分けて少しずつ首を真っ直ぐ上に伸ばし、最後に上を向いて勝ち誇ったようにクゥォクゥオーと大声で鳴いて、一気に首を元通り縮める。
気分がよいと、これを何度もすることがあり、余りにけたたましい鳴き声なので首を真っ直ぐに持ち上げるときに、「わがった・わかった」といって頭をちょっと抑えてやると、もとの姿勢に戻るが、すぐに頭を上げた。
その鶉を最後に見かけたのは、イタチが鶉を加えて裏庭の塀を登っていくのを見たときであった。
8月の終わりか9月の始め頃、だった。
その頃は、夜になってもなかなか、縁側のケージに上がってこないことが多くなった。
入らないときは、こちらが呼ぶと近くに寄ってくるので、捕まえてケージに入れた。
しかしイタチにやられる前の数日間は、鶉は遊びに夢中で呼んでもなかなか寄ってこず、縁側にも上がってこなかったので、分からせるため縁側のガラス戸を閉めて、餌や水を摂れないようにした。
居間で食事をしていると、2回ほど縁側のガラス障子に鶉が飛び上がりガラス戸にぶち当たってきたので、縁側の戸を開けに行った。
その時目にしたのは、イタチにくわえられた姫鶉だった。
生あるもの、必ず別れがあることは分かっていても、その後しばらく大事なヤンチャな相棒を亡くした喪失感を味わい、悲しみに落ち込んだ。
以上のことは、以前のブログにも思い出として、似た内容を書いた記憶があります。(同じ出来事です。)
20-30代の頃の姫鶉の思い出です。