明日は祇園祭宵山だ。
最近祇園祭によく行くようになった。
昨年は宵山だけだったが、一昨年は宵宵山・宵山・山鉾巡行と3日間連続で行った。
先ほど、昨年、一昨年の写真を見たが、やはり、すごいの一言に尽きる。
私の知っている日本の祭りは、僅かなので大きなことは言えないが、質・量・規模ともに日本一ではないかと思う。
特に山鉾の文化財的価値はすごいものがある。
各山や鉾は各町内で山鉾巡行に使用するすべてのタペストリーや彫刻や装飾品を展示しているが、その中には国や府県指定の文化財も多い。
更に宵宵山から宵山まで有力な町家で展示される、美術工芸品は、目を奪われる。
一見するだけで現代美術の傑作と思われる豪壮な作品を展示している旧家もあった。
祇園祭のメインイベントである山鉾巡行の、人と山鉾と祇園囃が一体になった豪華絢爛の巡航の華やかさ美しさ、ダイナミズムには、何度見ても心を奪われる。
はじめは祇園祭の宵山のことを良く知らず、四条通界隈のメインの鉾だけ見て、満足していた。(山と鉾の違いhttp://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/33816252.html)
その後、山も見て歩くようになったが、各町内の山の展示場所があるが、いつも見学の行列が出来ているうえ、山は小さくて貧相に思えて余り興味が無く、単に山の横を通り過ぎるだけだった。
あるとき、山をお祀りしている路地から、わらべうたが聞こえてきた。
私が若い頃、ラジオで音楽学者の女性が日本のわらべ歌について、文化社会を含め様々な側面からの解説をしていて、それをきっかけに全国のわらべ歌に興味を持っていたのが、京の祭りで本物のわらべ歌が聞こえてきて驚いた。
是非歌っている場面を見たいと思って、長い行列に並んだ。
行列は、細い路地の奥に入っていった。
その奥では、信仰の対象としての、山にお祀りしている神様と、山に飾られている貴重な文化財である、タペストリや彫刻や装飾品の数々だった。
そして、子供達は浴衣を着てわらべ歌を歌いながら、神様に奉納するろうそくを売っていたのである。
小さな祠には沢山のろうそくが点灯され、行列の人の多くが次々とろうそくを献灯し、手を合わせて拝んでいた。
ろうそくに照らされ、祈る人たちは美しかった。
各山特製のお守りや、みやげ物も、昔のやり方で、町会の世話人の人により販売されていた。
祇園祭が、祭事であること、そしてその心が今も脈々と地域社会に息づいていることを実感し、その時初めて祇園祭の奥深さや伝統や文化の力を実感した。
それ以降、大きな鉾をじっくり見るより、沢山の山を見て廻るようになった。
しかし、それをするには問題があった。
見て廻る距離が、長いのだ。
大きな鉾では、それぞれの鉾独特の祇園囃子を聴くようにしている。
祇園囃子を長く聴いていると、心に染み入る。
更に、各山鉾周辺の古いお家では、先祖代々伝わる美術品を展示していることが多い。
それらの中には、文化財も含まれている。
中には先に書いたように、すばらしい現代美術が展示されることもたまにある。
祇園祭の宵宵山から宵山にかけては、美術館や博物館を廻るのと同じ、もしくは活きた伝統行事を見ることでそれ以上の価値があるかもしれない。
明日は、出来れば先に三条界隈の現代系の画廊を廻って、お茶を飲んで一休みしてから、夕方から宵山に行ってみようと考えているが、歩く距離が長いので、体力的に持つか心配でもある。
最近祇園祭によく行くようになった。
昨年は宵山だけだったが、一昨年は宵宵山・宵山・山鉾巡行と3日間連続で行った。
先ほど、昨年、一昨年の写真を見たが、やはり、すごいの一言に尽きる。
私の知っている日本の祭りは、僅かなので大きなことは言えないが、質・量・規模ともに日本一ではないかと思う。
特に山鉾の文化財的価値はすごいものがある。
各山や鉾は各町内で山鉾巡行に使用するすべてのタペストリーや彫刻や装飾品を展示しているが、その中には国や府県指定の文化財も多い。
更に宵宵山から宵山まで有力な町家で展示される、美術工芸品は、目を奪われる。
一見するだけで現代美術の傑作と思われる豪壮な作品を展示している旧家もあった。
祇園祭のメインイベントである山鉾巡行の、人と山鉾と祇園囃が一体になった豪華絢爛の巡航の華やかさ美しさ、ダイナミズムには、何度見ても心を奪われる。
はじめは祇園祭の宵山のことを良く知らず、四条通界隈のメインの鉾だけ見て、満足していた。(山と鉾の違いhttp://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/33816252.html)
その後、山も見て歩くようになったが、各町内の山の展示場所があるが、いつも見学の行列が出来ているうえ、山は小さくて貧相に思えて余り興味が無く、単に山の横を通り過ぎるだけだった。
あるとき、山をお祀りしている路地から、わらべうたが聞こえてきた。
私が若い頃、ラジオで音楽学者の女性が日本のわらべ歌について、文化社会を含め様々な側面からの解説をしていて、それをきっかけに全国のわらべ歌に興味を持っていたのが、京の祭りで本物のわらべ歌が聞こえてきて驚いた。
是非歌っている場面を見たいと思って、長い行列に並んだ。
行列は、細い路地の奥に入っていった。
その奥では、信仰の対象としての、山にお祀りしている神様と、山に飾られている貴重な文化財である、タペストリや彫刻や装飾品の数々だった。
そして、子供達は浴衣を着てわらべ歌を歌いながら、神様に奉納するろうそくを売っていたのである。
小さな祠には沢山のろうそくが点灯され、行列の人の多くが次々とろうそくを献灯し、手を合わせて拝んでいた。
ろうそくに照らされ、祈る人たちは美しかった。
各山特製のお守りや、みやげ物も、昔のやり方で、町会の世話人の人により販売されていた。
祇園祭が、祭事であること、そしてその心が今も脈々と地域社会に息づいていることを実感し、その時初めて祇園祭の奥深さや伝統や文化の力を実感した。
それ以降、大きな鉾をじっくり見るより、沢山の山を見て廻るようになった。
しかし、それをするには問題があった。
見て廻る距離が、長いのだ。
大きな鉾では、それぞれの鉾独特の祇園囃子を聴くようにしている。
祇園囃子を長く聴いていると、心に染み入る。
更に、各山鉾周辺の古いお家では、先祖代々伝わる美術品を展示していることが多い。
それらの中には、文化財も含まれている。
中には先に書いたように、すばらしい現代美術が展示されることもたまにある。
祇園祭の宵宵山から宵山にかけては、美術館や博物館を廻るのと同じ、もしくは活きた伝統行事を見ることでそれ以上の価値があるかもしれない。
明日は、出来れば先に三条界隈の現代系の画廊を廻って、お茶を飲んで一休みしてから、夕方から宵山に行ってみようと考えているが、歩く距離が長いので、体力的に持つか心配でもある。