散歩者goo 

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昨日記140715火(面接落ち 高齢者の仕事 祇園祭宵宵山)<修正追加>

2014年07月16日 16時30分12秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ 平均/最低% = 33.4  24.9  66  43  
昨日は、以前から祇園祭の宵山または宵宵山に行く予定でいた。
今年の祇園祭から山鉾巡行が、17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭(あとまつり)に分かれて巡行するようになった。
そのため、宵山も分かれて行うようになった。
祇園祭の宵山は、以前はたまに行っていたが、最近は数年に一度のペースで行くようになった。
今年から、宵山の状況がどのように変わるのか興味があって、今年は行かねばという気になった。

朝、面接に行った会社から、提出した履歴書類が返送されてきた。
もともと、この会社の募集要綱に65歳と年齢制限が入っていたので無理だと、私が職安でも言っていたが、職安の担当者が大丈夫だと勧めるので受けた会社だ。
落ちる可能性がかなり高かった。(担当者は努力していますという面接件数を上げるためか?)
面接に行ったときに待たされ、受付の人が「約束の面接時間までその辺で立っておいてください。」という対応をされたときに、ほぼ落ちたなと思った。

この国では、70歳近い高齢者は、身体や知的能力にかかわらず、企業に縁故のない人は掃除以外する仕事がなさそうなので、おとなしく掃除のパートでも探そうか。
ところが、掃除の仕事ですら、女性トイレの関係で、男性が嫌われる傾向が強い。
以前から分かっていることに、愚痴を言っても始まらない。
反省点はいろいろあるが、どうしようもないことに、応募先にITに詳しい採用担当者がいる場合、このブログが提出先の採用担当者に読まれている可能性が強い。
ところが以前から私自身このブログで弁解しているように、ブログを推敲せずに書きっぱなしで投稿する場合がほとんどだ。
そのため誤字脱字、消去不良、意味がつながらない、説明不足等が必ずある。
今日のブログは、今訂正中でかつ加筆しているが、酷いミスを大量に犯していて、意味の通らない文章もありここで訂正している。
先ほどまでアップされていたこの「昨日記140715」を読むと、採用担当者は、こんなに間違った仕事をされたらたまったものじゃない、という感想を持つだろう。

今回、電子メールで、履歴書を送った後は、訪問者数はほとんど変わらなかったが、このブログの多くの記事が大量に読まれていたことは、採用担当者が読んでいた傍証かもしれない。
過去から、批判的なことや様々な意見や、だらだらと日々を送る反省とか、自己破産とか書いてあって、初めこのブログを読んだ人は驚いたに違いない。
私にとっては就職やアルバイトをするには、このブログの存在は都合が悪いが、今更どうしようもないし自己表現としてのブログを消すつもりはないが、垂れ流しのミスブログで私を判断されるのは残念だが、訂正するには多くありすぎて不可能だ。


面接落ち通知のことがながくなったが、気にはしているが、ショックとか沈むと言うほどの影響はなかった。
その後気を取り直して、午前中に、遅れていた昨日記を2本書いた。
昼は、食事関連の家事を行い6個の丼鉢に温野菜セットを作った。

余談だが、今7月16日の3時前だが、猛暑日に感じるような熱い風が外から入ってくる。
室温は33度近くで、まだ汗だく状態ではないが、この先の高温との戦いが思いやられる。

話を元に戻すが、
夕方近くになって、祇園祭の前祭りの山鉾の場所を調べ、メモした。
5時過ぎに家を出た。
以前、4時ごろ家を出て5時過ぎに四条烏丸に着いて、歩き回ったが、夕方は、まだ人も少ないが、西日に照らされ、昼間の暑さが残り非常に暑かった悪い記憶があるので、宵山を見て回るのは6時以降がよいと思っている。

阪急電車はかなりすいていて、座って京都まで行けた。
初めに薙刀鉾を見に行ったころから急激に人が増えだした。
最初の計画では、見て回るルートで、保昌山は離れているので見る予定はなかったが、薙刀鉾から4ブロック南なのでそれを見てから、南から順に見て回ることにしたが、これは歩く距離をかなり長くした。
山鉾の配置は「祇園祭山鉾巡行コース」に掲載されている。
https://www.kyokanko.or.jp/gion/junkou.html
その後南の山鉾から順に見て回った。

前祭りの山鉾は東西南北約680mの範囲に配置されていて。その間通りが格子状に並んでいて、室町通(北行き)や新町通(南行き)には一方通行で規制されていて錦通も一方通行で部分的に規制されている。
したがって一方通行の規制を考慮せずに回ると、ルートの取り方により大変回り道をして山鉾を見ることになる。
今までもそれで随分失敗した。
近くに山や鉾が見えていても一方通行で近づけないのだ。

見て回るには、コツがある。
各山には必ず、遥拝所があり、町内会の会所のようなところも多い。
そこに山に乗せるご神体や飾りのタペストリー等が飾られていて、お守りや山のオリジナルグッズが売られている。
8時前までなら、小学生から幼児たちが、古いわらべ歌を合唱しながらろうそくを売っている風情ある光景に出合うだろう。
鉾では、鉾の前でやはり、浴衣姿の児童幼児が座布団に座りながら、合唱して販売するのを見ることができる。
山鉾の飾り用のタペストストリには、重要文化財クラスのものもあるし、各時代の当代一の絵師が筆を執り織ったタペストリも多く、現代日本画家も競って描いている。
飾りの工芸品も目を見張る最高級の工芸品が多い。

よく知れば知るほど、祇園祭りの山鉾が動く美術館といわれるのも分かる。
各町内の家には、代々伝わる飾り物を家に展示する家も多い。

私が歩いていた時に、丁度四条傘鉾の踊りの時間に当たり、子供たちの先祖代々受け継がれた踊りと囃子を堪能できた。

この日京都に来る前は、今年は祭りが2つに分かれるので、人も少なく回るのも楽だろうと思っていたが、人でも歩く距離も変わらなかった。
もともと宵山を夜の間に3―6時間で回り切るのは無理があった。
今までは、宵山を回っても疲れて見ていない山や鉾が多かったのだ。

とにかく、祇園祭は楽しく、祭りの中の祭と思っているが、すべて一日で見ようとすると苦行にもなる。
お金があって(飲食店も魅力的でオシャレな店がたくさんある。)分けて時間に余裕を持ってまわると、非常に楽しいものになるだろうと思っている。
帰宅は、11時半に近かった。
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昨日記140714月(昨日記の論点 応募落ち 俳句と桑原武雄)

2014年07月16日 11時58分53秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇時々雨  最高/最低℃ 平均/最低% = 29.2  25.1  84 69  
7月14日は、ジムも休みなので、月曜日は日曜同様の感覚になる。
私の場合土曜日は、ギャラリーを回ることにしているので、ある意味いそがしいが、日曜日と月曜日は暇なことが多い。
土曜日のギャラリー廻りを、月曜日にすることも考えたが、作家と話せるのは、圧倒的に土曜日が多い。
最近は、土曜日を美術関係の鑑賞に潰すのではなく、探鳥とか、考古学関係とか、山歩きとか別の趣味に振り向けるのも有りかなと思っている。
その場合、月曜日をギャラリー廻りに振り向けるのだ。
ただ、活動領域を増やすと、それ相応に経済環境が必要だが、現状はそんな余裕はない。
経済的に余裕がなければ、現状維持で我慢しなければなるまい。
とにかく食べられることが出来ての文化だ。
月曜日も遅れている昨日記を2本書いた。

この日、昨日記の遅れの原因になった履歴書や職務経歴書をメールで送付した応募先から、書類審査で落ちたとの知らせが入っていたことを知った。
書類作成の遅れや、応募先の仕事に関係する実務経験のなさと、年齢を考えて、ほぼ無理だろうと予想はしていたが、落ちたことはショックといったことは全くなかったし、凹むほどではなかったがが、なんとなく薄くブルーな気分にはなった。

夕方から気分転換に、お茶を飲みに行き、芭蕉関係の本を読んだ。
最近は、面白くなり、速読から熟読または何度も読み返しながら読み進むようになった。
いまだに、俳句に関しては、どれだけ表現できているのかという疑問は残る。
桑原武雄の俳句第二芸術論の客観的に見て、筋が通っている。
俳句は、季語とかイコン化により解釈されるところがある。
ところが「古池や」の句でさえ、外国人研究者が複数で翻訳するといった事実がある。
これに関しては、研究者の勉強不足は明らかだが、象徴主義による表現がどこまでの範囲普遍化するかという問題は極めて哲学的問題を含んでいて、記号論的なまたは、実存と現象学的大きな議論の余地がありそうだ。
しかもこうした問題は、現代美術にも感じるところがあると思っている。
芸術は、コニュニケーションの一種であることは疑いない。
そこに価値を同じくする各グループの共通認識が存在する。
それは文化文明であり、その背景に、性別・民族・人種・宗教・言語・風土環境・・・・・といったものがあるが、その分析に関してはハンチントンの「文明の衝突」で分析されている。
現在西洋文明が経済的に圧倒的優位に立ったために、文化芸術は、西洋的まなざしを標準している。
詩も各民族固有の表現形態を持っている。
それは意味のみならず、言語の音韻的特性にも依拠するのだ。
我々は英語の翻訳された詩を読んで、そこに韻を踏んでいることに気付かないが、彼らにっとっては韻を踏むことも重要な要素の一つである。
それ以外万葉集の枕詞や俳句の季語等、各民族で成立した象徴的約束事は多い。

翻って、すべての芸術を考えた場合、暗黙の了解事項=約束事または象徴がないものは少ない。
現代アートでさえ、その画面構成や素材等で、間隔的に表現内容を推し量る。
もっと極論すれば、色彩や音や音色の持つ感覚は、人類が共有する了解事項である。
赤は暖色であり、青は寒色だ。
これはまさに地球に存在する人類が、自然からの影響で実存的に獲得した共通の了解事項である。
芸術そのものは、そのようなパーツを使用して成立しているのである。
その意味では、グループ間で成立する約束事による表現も、芸術であるといえよう。
書もそうであろう。
かなは、ほとんどの外国人には読めない。
アラビア語の書道があると聞くが、我々にはその良し悪しが分からない。

とにかく様々なことを頭にめぐらせつつ、批判的に本を読むことは、非常に楽しくミステリアスである。
そういう読み方をしているので、芭蕉の偉大さや、俳諧の面白さや歴史的流れを見ていると、俳句の芸術性に心酔しつつ、一方で桑原氏の意見にも賛同する矛盾を抱えて読み進めている。

その意味では、短歌に関しては、桑原氏のような疑問を持っていない。
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