散歩者goo 

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昨日記150315日(JARFO 夜ゼミ)(追)

2015年03月16日 13時48分47秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
雲・雨  最高/最低℃ =11.6.  4.7
昨日は天気もぐずついていたので、行く予定にしていたJARFOで行われる夜ゼミに出かけるか躊躇していた。
副食も底をつくので、製造する必要がある。
昼食と夜食をとると、副食が無くなるので、その日に食材を買い込み次の日の10食分の副食を作る必要があるので、その為一日つぶれることになる。
だが、昼食と夜食を外食すれば、副食作りは翌日の午後から行えばよいことになる。

いろいろ考えた結果、天気が問題ないなら、京都に行くことにした。
昼に出かけ、外食し、京都文化博物館でパラソフィアを観て、夜に始まる夜ゼミに行くことを考えた。
予報によると、午後は曇となっていたので、昨日記を書いてUPしてすぐに自転車に飛び乗って、勢いよく出かけた。
JRの駅の駐輪場に自転車を駐輪し、いざファストフードで食事と思って入る前に財布を出そうと胸に手を当てると財布がない。
一瞬、歩いて家まで帰らなければと思った。
しかしお金がカバンの中にあることを思い出した。
万一の事態のためにペンケースに千円入れていることを思い出したのだ。

余談になるが、私は、社会人になってから、財布を持たずに出勤することが度々あり、それ以来、通勤かばんにお金を入れておく習慣があった。
それが拡大して、手帳や定期入れにもお金を入れて、30代の頃は千円札が1万円札になっていて、山行のリュックサックにも入れていた。
とにかく、小さい時から傘は忘れたりハンカチを持たないことはかなりの頻度であった。
忘れ物の癖の対応は、結局忘れても大丈夫なように予備対策をするようになるとともに、出かける前の事前のチェックもするようになり、忘れ物をしてもほとんど緊急対応できるようになった。
しかし、自己破産する前に、長期間借金生活で日々の生活に困るようになった50代以降、あちらこちらにお金を入れておくことはなくなった。
しかし最低限、いつも持ち歩くセカンドバッグにだけは万一の為に、千円だけ入れていた。

話を戻すが、その場で、今後どうするかいくつかの行動プランを考え、最善の案を実行した。
結論として、帰宅して財布を取りに帰ると4-50分ロスするので、それからパラソフィアを観に行っても時間的な余裕がないので、パラソフィア行は中止することにした。
その後ファストフードで、昼食をとり、コーヒーを飲みながら読書した。
それから帰宅し、家でたまったまま放置していて気になっていたレシートの転記作業を行った。
その前に、レシート処理に時間がかかるので作業方法の改善を考え、以前から分析検討し計画していた手法の処理案を実行した。
即ち、昨年新しく導入した会計ソフトの特性を利用し、入力方式を抜本的に変更し、それに合うようレシートを予め大きく整理してから、ランダムに機械的に入力した。
能率は倍以上向上した。
予想以上の効果に、こんなことなら、もっと早く実行に移すべきだと思った。

5時頃になって、再び京都に出かけた。
7時前に三条東山にあるギャラリーJARFOに着いた。
すぐに尾崎眞人先生による、現代美術の夜ゼミは始まった。
テーマは、日本の戦後美術と、現代美術の分岐点だった。
その象徴として、山下菊二の作品についてのワークショップ・講義があった。
ワークショップは、その作品を観て各自好きなタイトルをつけ、集まったタイトルを分析して、講義を通じて作品の意味を考えるのである。
その中では、共産党と戦後美術の関係も語られた。
そうした戦後美術と、具体美術からもの派につながる、日本の現代美術との流れについて、話があった。

実は現代美術の流れについては、世界の流れや日本の流れについて多くの説があり、これが正しいというもの派まだ確定していない私はと思っている。
哲学的に考えても、xx派というグループ分けは、グループ分けした人の価値観が中心になっていて、価値観というのは、主観的な物であって、その人の特性や属性が反映されるのだ。
一般の歴史学・考古学ですら、年代の区分でも学者で意見が分かれているのだ。
(例えば縄文時代や、弥生時代の始まりの時期すら確定していないし、平安時代から武家社会への移行や、大化の改新に対する見方も新しい研究成果でどんどん変化している。)
人文科学や文化芸術は、自然科学と違い絶対に正しいということはないと思っていて、美術史の区分も様々な考えがあり、そういう考えがあるという程度に思っておいた方が良い。
それは、権威あるといわれる美術館ですら認識が違うし、時代が変われば更に美術史の見方も変わってくるのだ。
現代美術の評価は多分、百年2百年のちの後世の評価を待つしかないのだろう。

しかし、誤解されては困るのだが、評論家や美術館や大学の評論等が、価値がないと言っているのではない。
少なくとも、専門家はその分野を研究し、最新の学説や考えを基本に論旨を展開しているのであって、その段階では正しいかどうかは別にして、大いに傾聴に値するものだと考えている。

レクチャー後も質疑応答で、パラソフィアに関することや、その他現代美術に関することで、他では聞くことができない非常に興味深い話を聞くことができた。
その後も、余った酒類を飲みながらの交流会が続き、馴染みの出席者たちと歓談した。
帰宅したのは12時前だった。
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