散歩者goo 

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昨日記150321土(炊飯 西天満 ジム・筋トレ 昨日記改革)

2015年03月22日 12時33分37秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =19.0   8.0
今まで何度か昨日記のことで、自己反省した。
しかし、その反省は全く生かされず、ある時から、再び日常茶飯のことを書いているうちに、折に触れ様々なことを書くので効果があると存在意義を認め、そのまま現在に至っている。
ところが、今までの記録を詠み返すとくどくどと日常茶飯を描写した内容が多くあり、そのために30分から1時間程度の時間を割いている。
日常茶飯の行動は、予定日報表にグラフで表現しているので、かなり正確にたどることができるし、くどくどとした日常茶飯の描写は私にとっても読者の方にとっても必要ないだろう。

具体的に見ると、例えば昨日は特別なことはなく、日常茶飯のことだけだった。
今までの書き方で描くと、次のようになる。


昨日は午後から冷凍ご飯が無くなったので、冷凍ご飯を十数食作った。
冷凍ご飯は、一食ずつ予めラップを敷いた茶碗に入れて105gから120g程度に計量して、ラッピングする。
ご飯を計量する作業は、実際には茶碗への盛付作業で、盛付時に計量するのだ。
計量するときに、ご飯の量を追加したり減らしたり、更に盛付する時に毎回しゃもじにご飯がつくので取ったり、その後しゃもじを流水に浸したりと、かなり手間がかかるのだ。
ラッピングは、解凍したときに簡単にラップが広げられるように工夫するため(端面が必ず宙に突き出るようにする。)、一定の形に丁寧に包まねばならず、これも手間がかかる。
こうしてできたご飯の塊(おにぎりに多少近いが、固く握っていないのでおにぎりではない。)を冷凍して終了だが、食事の時は電子レンジで解凍し、加熱するだけで炊き立てと変わらないご飯を食べることができる。


話を元に戻すが、今までの昨日記は、このような書き方を続けてきて、長くなり書くのも読み直すのも苦痛だった。
しかも読者の方にとっては、どうでもいい話が多く、私にとっても自分でやっているので別に自分のために説明する必要はないし、いつ日常茶飯のことをしたかというのは、15分単位で記録している予定日報表を見れば一目瞭然である。
即ち、時間の無駄ということで、つまらぬことを書くために時間を無駄に費やしてきたのではないかと、今思っている。


昨日の日常茶飯を要約して書くと、次のようにも描ける。


昨日は午後から十数食の冷凍ご飯を作るため、炊飯作業をした。
いつものように西天満に行く予定をしていたので、予定していなかった炊飯作業が入ったので、作業を急いだ。
突然の炊飯作業は、予め予定日報表に組み込むことが出来たので、私の日程管理のミスで生じた混乱だった。

その後いつものように西天満を回り天満橋でお茶を飲み読書し、その帰りにスーパーに寄り食材を仕入れて帰った。
帰宅後、ジムに行き、筋トレを行った。

昨日は、本当は、芦屋で行われるバッハのロ短調ミサの演奏会に行きたかったが、最近の出費状況を考えると我慢するしかなかった。
それ以外にも、歌劇椿姫の前売り券も買いたかったが、私のような貧困階級の独居老人は貧乏人らしく分相応の生活をするしかないのであり、食事や医療(歯科等)に困らないだけでもありがたいと感謝するしかない。
福祉思想のなかった地代の人々の生活は、どれほど惨めだったであろうと想像するし、現代でも、地球上で貧しい地域に生まれた人の生活を考えると、とてもぜいたくは言えない。

だからと言って、日本は恵まれているので必要以上の格差の是正や福祉の充実の要求をするべきではない、ということにはならない。
基本的に、格差は自然にできるものではなく、人間の意思決定=制度で発生するものと考えている。
人間の考え方次第で、制度はいかようにも変わるのだ。(歴史がそれを証明している。)
格差のことについては、ピケティ教授もその構造的問題を実証し、改善の提言もしている。


再び話を元に戻すが、日常茶飯のことを要約して書いた文は、183字で書いていて、その後にそれに付帯した簡単な感想文は430字弱で書いている。
このような書き方に改めると、400字前後で書くことができるので、昨日記の所要時間も30分もかからない。
感想文については、単独のブログ・エッセイにして、詳しく事実の論拠を例示や引用をしたり、論理の展開を図ることもできる。

ということで、今後昨日記はできる限り400字以内に収めるようにし、感想文の省略も普通にし、出来れば、トータルで300字以内にまとめることを目標にしたい。
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