曇時々雨、雷を伴う
午後からハローワークに出かけ、アルバイトの状況を調べる。
過去にハローワークには何度も通ったので、求職票の検索は慣れている。
73歳になるので、求人そのものがあるか心配だったが、それなりにあるようだ。
当然清掃業務がほとんどだが、清掃は過去何度もやったので、もう掃除のアルバイトはしないし、それほど極端に生活に困っているわけではない。
ギャラリー時代にやった清掃アルバイトは、母の死後蓄えも無くなり、消費者金融から借金し、家賃滞納や電気水道ガス料金の滞納の上、その日の食事代にも困り、ホームレスになる可能性もあったので仕方なくやった。
ギャラリーが、日赤近くの上六にあったときは、早朝6時前から9時まで御堂筋にある住友銀行系のビルを清掃した。
その時は母が、脳梗塞を起こし入院していて、ギャラリーの行きと帰りに病院に寄り、世話をした。
正月に一時帰宅した時に、夜中に起きて変なことを言い出し、私に対し「どなたか知りませんが、いつもお世話になっています。」と言われたときに、ショックを受け涙が出た。
認知症の程度は軽微だったが、正常の時がほとんどだが、時折自分の居場所が分からなくなったり妄想がでたりするらしかった。
正月が明けてから、別の病院に転院させた。
兄夫婦は、私が一存で転院処置をとったことを非難した。
その後、すぐに阪神淡路大震災が起きた。
私は御堂筋にあるビル掃除のアルバイトを始めて数日後のことだった。
自転車で鰻谷通?を御堂筋に向かって自転車で走っていて、数分で仕事場のビルに着くころだった。
自転車で走っていると、稲光がし、何となく電線が揺れているように見えた。
周囲で、シャッターがガラガラと開く音が聞こえた。
こんな早朝から開ける店もあるのかと思いつつ自転車を走らせると何か様子がおかしい。
電柱が揺れているように見えた。
自転車を止めると、大きく台地が揺れていた。
仕事場に入ると、いつも出勤する時間帯になって雄人は来ず、ある社員は御堂筋線が止まり、難波から歩いてきたといった。
その間も掃除は続けたが、大きな余震のたびにすごい地鳴りが聞こえ不安だった。
その日は、速めに仕事を終え、8時頃、母の入院している病院に向かった。
病院の待合のTVでは、北陸地方に大地震があったと言っていたが、情報が混乱しているとの報道の後、高速道路が倒壊している上空からの現場映像が映し出され、初めて見る光景に息をのんだ。
神戸が壊滅状態になっているらしいことが分かった。
それを見届けて、母の病室に向かった。
母は大部屋に居て、怖かったと言っていた。
そのころには、多発性脳梗塞の為随分認知機能が衰え、ニュースのことを話しても、どこまで分かっているのか分からなかったが、「ふんふん」と私の話を聞いていたが、質問は無かった。
とにかく、私が世話しに行くと安心していたようだ。
その日も、いつも通り画廊に出勤したが、誰も来なかった。
その年の夏に、母は亡くなった。
震災を機に、客足は途絶え、その月にギャラリー廃業を決意したが、丁度春に私の生命保険が満期となった。
その資金を基に、西天満にギャラリーを移転しその後現代美術系のギャラリーとして5年間続けた。
話を元に戻すが、ハローワークで検索して、福祉関係のアルバイトがあることが分かった。
しかし、これも実際に問い合わせないと、年齢制限でにかかる可能性がある。
とりあえず、又ハローワークにより相談することにし、ハローワークを後にした。
近くにある天満橋のいつもの店に寄り、コーヒーを飲みながら読書し、その後淀屋橋まで中之島公園を歩き、地下鉄で帰宅した。
思い出
自選ブログ集・新規掲載(新規掲載は、数か月以内に書いたブログの中から選定しています。)
新規掲載下段に分野別自選ブログ集(フォルダーリンク)も掲載しています。
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午後からハローワークに出かけ、アルバイトの状況を調べる。
過去にハローワークには何度も通ったので、求職票の検索は慣れている。
73歳になるので、求人そのものがあるか心配だったが、それなりにあるようだ。
当然清掃業務がほとんどだが、清掃は過去何度もやったので、もう掃除のアルバイトはしないし、それほど極端に生活に困っているわけではない。
ギャラリー時代にやった清掃アルバイトは、母の死後蓄えも無くなり、消費者金融から借金し、家賃滞納や電気水道ガス料金の滞納の上、その日の食事代にも困り、ホームレスになる可能性もあったので仕方なくやった。
ギャラリーが、日赤近くの上六にあったときは、早朝6時前から9時まで御堂筋にある住友銀行系のビルを清掃した。
その時は母が、脳梗塞を起こし入院していて、ギャラリーの行きと帰りに病院に寄り、世話をした。
正月に一時帰宅した時に、夜中に起きて変なことを言い出し、私に対し「どなたか知りませんが、いつもお世話になっています。」と言われたときに、ショックを受け涙が出た。
認知症の程度は軽微だったが、正常の時がほとんどだが、時折自分の居場所が分からなくなったり妄想がでたりするらしかった。
正月が明けてから、別の病院に転院させた。
兄夫婦は、私が一存で転院処置をとったことを非難した。
その後、すぐに阪神淡路大震災が起きた。
私は御堂筋にあるビル掃除のアルバイトを始めて数日後のことだった。
自転車で鰻谷通?を御堂筋に向かって自転車で走っていて、数分で仕事場のビルに着くころだった。
自転車で走っていると、稲光がし、何となく電線が揺れているように見えた。
周囲で、シャッターがガラガラと開く音が聞こえた。
こんな早朝から開ける店もあるのかと思いつつ自転車を走らせると何か様子がおかしい。
電柱が揺れているように見えた。
自転車を止めると、大きく台地が揺れていた。
仕事場に入ると、いつも出勤する時間帯になって雄人は来ず、ある社員は御堂筋線が止まり、難波から歩いてきたといった。
その間も掃除は続けたが、大きな余震のたびにすごい地鳴りが聞こえ不安だった。
その日は、速めに仕事を終え、8時頃、母の入院している病院に向かった。
病院の待合のTVでは、北陸地方に大地震があったと言っていたが、情報が混乱しているとの報道の後、高速道路が倒壊している上空からの現場映像が映し出され、初めて見る光景に息をのんだ。
神戸が壊滅状態になっているらしいことが分かった。
それを見届けて、母の病室に向かった。
母は大部屋に居て、怖かったと言っていた。
そのころには、多発性脳梗塞の為随分認知機能が衰え、ニュースのことを話しても、どこまで分かっているのか分からなかったが、「ふんふん」と私の話を聞いていたが、質問は無かった。
とにかく、私が世話しに行くと安心していたようだ。
その日も、いつも通り画廊に出勤したが、誰も来なかった。
その年の夏に、母は亡くなった。
震災を機に、客足は途絶え、その月にギャラリー廃業を決意したが、丁度春に私の生命保険が満期となった。
その資金を基に、西天満にギャラリーを移転しその後現代美術系のギャラリーとして5年間続けた。
話を元に戻すが、ハローワークで検索して、福祉関係のアルバイトがあることが分かった。
しかし、これも実際に問い合わせないと、年齢制限でにかかる可能性がある。
とりあえず、又ハローワークにより相談することにし、ハローワークを後にした。
近くにある天満橋のいつもの店に寄り、コーヒーを飲みながら読書し、その後淀屋橋まで中之島公園を歩き、地下鉄で帰宅した。
思い出
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