60年代中盤生まれの私としては、70年代後半から80年代前半までの音楽に最も影響を受けたことは間違いありません。
で、ときどき、「そういえば、あの曲は?」とか、「あの人は?」と、何の前触れもなく思い出してしまうことがあります。
今日思い出してしまったのが、タイトルの「渡部まさみ」さん。曲名は、「小舟のようにLoving You」1982年6月発売、エピックソニー、というデータが残っています。
当時から好きな曲でした。私は、歌手の皆さんにとっては、あまりうれしくないタイプのファンで、曲が気に入っても、すぐにシングルを買うということはめったにないのです。この曲を聴いたとき私が思っていたことは、「もう2,3曲聴いて、よさそうだったら買おうかな」程度でした。
私の住む、同じ中部地方の歌手だったような記憶があります。きれいな人だった覚えはあるのですが、トップアイドルのようなルックスではなかったと思います。(もう昔過ぎて思い出せません)
名古屋で放送していた夕方の番組「ぱろぱろ」に出演していました。そのときのインタビュー
「今日は、このあとどんな予定が?」に対して、「今日は、もう終わりです。帰ります。」と答えていました。「明日も、ありません」と答えていたかもしれません。つまり、「あまり忙しくない」というニュアンスがもろに伝わるような、アイドルとしては、失格な受け答えではありました。実際にも、業界としての政治力的に、あまり有利な扱いは受けていなかったのであろうと思われます。
以前松田聖子さんのところでも触れましたが、プロダクションでは、その年デビューする歌手の中に、「一押し」「2番手」「3番手以下」という順序が決められています。でも、それは、たくさんのタレントを抱えた、大手、政治力のあるプロダクションでの話です。渡部まさみさんの場合、(勝手な憶測ですみませんが)おそらく規模も政治力も小さいプロダクションから出たのだと思われます。
「ぱろぱろ」出演のときから、妙な違和感を覚えてはいたのですが、その後、彼女は、1枚もシングルを出すことなく、芸能界を去って行ったのではないかと思われます。
「小舟のようにLoving You」は、あんなに魅力的な曲だったし、渡部さんの声も、歌い方もすばらしかったのに、おそらくヒットはしなかったのでしょう。その後、彼女の名前が語られることなく、現在に至ります。
気になった私は、ネットで少し検索してみました。そして、強烈に驚いたことがあります。
「小舟のようにLoving You」作詞、作曲は、なんと尾崎亜美さん。シングルのアレンジは後藤次利さん!さらに、尾崎さんはこの曲が大のお気に入りでセルフカバーまでしており、自分のコンサートのクロージングナンバーとして歌ったこともあるという!!
音楽を、作った人で評価するつもりはありませんが、上の事実から、私の25年前の耳は確かだったと、思わず自画自賛してしまいました。
とすると、あれだけの表現力を持っていた渡部さんが、たった1曲のシングルを残して、しかもまともなデビューキャンペーンも行われることなく、業界から消えていったことが不思議でなりません。何か知っている人がいたら、教えてくださいね。もちろん今は、(年齢的にも私の先輩なので)いいお姉さんになっていることと思われますが。
で、ときどき、「そういえば、あの曲は?」とか、「あの人は?」と、何の前触れもなく思い出してしまうことがあります。
今日思い出してしまったのが、タイトルの「渡部まさみ」さん。曲名は、「小舟のようにLoving You」1982年6月発売、エピックソニー、というデータが残っています。
当時から好きな曲でした。私は、歌手の皆さんにとっては、あまりうれしくないタイプのファンで、曲が気に入っても、すぐにシングルを買うということはめったにないのです。この曲を聴いたとき私が思っていたことは、「もう2,3曲聴いて、よさそうだったら買おうかな」程度でした。
私の住む、同じ中部地方の歌手だったような記憶があります。きれいな人だった覚えはあるのですが、トップアイドルのようなルックスではなかったと思います。(もう昔過ぎて思い出せません)
名古屋で放送していた夕方の番組「ぱろぱろ」に出演していました。そのときのインタビュー
「今日は、このあとどんな予定が?」に対して、「今日は、もう終わりです。帰ります。」と答えていました。「明日も、ありません」と答えていたかもしれません。つまり、「あまり忙しくない」というニュアンスがもろに伝わるような、アイドルとしては、失格な受け答えではありました。実際にも、業界としての政治力的に、あまり有利な扱いは受けていなかったのであろうと思われます。
以前松田聖子さんのところでも触れましたが、プロダクションでは、その年デビューする歌手の中に、「一押し」「2番手」「3番手以下」という順序が決められています。でも、それは、たくさんのタレントを抱えた、大手、政治力のあるプロダクションでの話です。渡部まさみさんの場合、(勝手な憶測ですみませんが)おそらく規模も政治力も小さいプロダクションから出たのだと思われます。
「ぱろぱろ」出演のときから、妙な違和感を覚えてはいたのですが、その後、彼女は、1枚もシングルを出すことなく、芸能界を去って行ったのではないかと思われます。
「小舟のようにLoving You」は、あんなに魅力的な曲だったし、渡部さんの声も、歌い方もすばらしかったのに、おそらくヒットはしなかったのでしょう。その後、彼女の名前が語られることなく、現在に至ります。
気になった私は、ネットで少し検索してみました。そして、強烈に驚いたことがあります。
「小舟のようにLoving You」作詞、作曲は、なんと尾崎亜美さん。シングルのアレンジは後藤次利さん!さらに、尾崎さんはこの曲が大のお気に入りでセルフカバーまでしており、自分のコンサートのクロージングナンバーとして歌ったこともあるという!!
音楽を、作った人で評価するつもりはありませんが、上の事実から、私の25年前の耳は確かだったと、思わず自画自賛してしまいました。
とすると、あれだけの表現力を持っていた渡部さんが、たった1曲のシングルを残して、しかもまともなデビューキャンペーンも行われることなく、業界から消えていったことが不思議でなりません。何か知っている人がいたら、教えてくださいね。もちろん今は、(年齢的にも私の先輩なので)いいお姉さんになっていることと思われますが。
曲名もわからなくて、 ただ うた、渡辺まさみ、、、、とだけ聞いて、すごく気に入ったので、20年以上覚えていました。
最近インターネットのおかげで、本人のものは無いのですが、尾崎亜美さんのCDを取り寄せ、再会?することができました。
今も渡辺まさみさんの曲もさがしてます。
お気に入りに登録して聞いています。
探しに探して、やっと見つけた時にはU+203C本当に嬉しかったです。
同じように、渡部まさみさんの曲を探している方が居たなんて、それも嬉しいコトでした。今、まさみさんはどうされているのかしらU+2047ラジオでしか知らない渡部まさみさん。テレビでご本人の歌われる姿が観たかったです。
つボイノリオで有名な今伊勢中学を卒業して、堀越学園に入学しました。
私のが確か2つぐらい年が下でしたが、担任の先生が同じでした。
…と言うか、親戚です。
叔父さん(まさみの父)が会社を経営を経営してましたので、いわゆる社長令嬢ってやつです。
小舟のように…ですが、尾崎亜美さんに作って頂いて、凄くいい曲でした。
まさみ姉さんも、あの同時では、かなり歌が上手い方だったと思います。
同期に可愛いアイドルが沢山いた時代だったからでしょうか?
顔もそれほど可愛いわけではなかったので、売らなかったんでしょうかね…
私も何枚もレコードを買いに行った記憶があります。私の父もあちこち配ってました。
多分ですが、実家に一枚はとってあると思いますが、今度探してみます。
だいぶ前ですが、北海道のラジオ放送の中継でたまたま、まさみ姉さんの声を聴きました。
あぁ~元気にやってんだな!って思ってましたが、今は何処にいるのかわかりません!
叔父さんの会社も今は無くなってしまったので、どうしているのかと…
本人は売らなかった事を凄く気にして、なかなか帰って来なかったのと、親戚中でも、まさみの事は聞いてはいけない雰囲気だってので、そのままになってしまいました。
でも、渡辺まさみを覚えていてくれる人がいた事に、正直ビックリいたしました。
親戚代表で御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
こちらこそ、大変驚愕しております。
こんなにご本人に近い方のコメントがいただけるとは、感激です。
貴重な情報がこんなにたくさん。
それにしても、知流辺さまの情報から考えるに、まさみさんは、曲があまり売れなかったことで、ご自身の実力と世の中を動かす影響力について、過小評価をしてしまったのではないかと推測されます。「あの当時ではかなり上手い」のではなく、時代に関係なく抜群の歌唱力です。
何と残念なことでしょう。
私のような掃き溜めのようなブログに、こんなにもいろんな方から、「私も覚えている」「いい曲だった」「私も同じように思っていた」と、わざわざご連絡いただいているのです。
あの曲をラジオで聴いた人に与えたインパクトは、かなり大きかったのではないかと思われます。
そして、一時期北海道で活動していらっしゃったという情報にも驚かされました。
よくわからなかったのは、所属事務所です。どんなところに所属していらったのでしょうか。
かたくなに閉ざされていた謎が紐解かれてきた思いです。ありがとうございました。
私は20年ほど前に札幌で同じマンションに住んでいました。
その時の彼女はモデルをしながらすすきのでお母さんとお店をしていました。
彼女は歌手を辞めたあと、競馬関係の番組のリポーターをして騎手の方と婚約されていましたがお相手の方が落馬事故で亡くなり、その後は上記のようにお母さんと札幌に居ました。
その後、お店でまたスカウトされ、演歌歌手として再デビューするという夢を持って上京したと思います。
出来ればしるべさんと直接お話がしたいと思いました。
この方の事は幼少期の頃から存じ上げておりました
歌を出してからすぐにご家族ともに引っ越されました。
深い事情があり歌手を諦められたと思います。
この歌は今でも覚えています
いつか私が何処かで歌います