森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

農耕民族と狩猟民族

2007年08月05日 16時13分26秒 | 過去ログ
最近の朝のセミの鳴き声は元気だ。
家では全くエアコンはかけずなので、朝はもっぱらセミの鳴き声で起こされる。
家の周りは大きな木ばかりなので、仕事場に行く間はセミの大合唱のなかを進むことになる。
そこで、すごく耳障りな泣き声に遭遇した。
これは私にとってというか、人間の身体に対する振動にとってというか、とにかく違う。耳をつんざく音だ。
周波数、デシベルなどなど、が違ってそういう意識が発生したのだと思う。
これは繰り返すと順応が起こると思うが、セミの中での関係性はどうなんだろうと思った。
セミには昆虫なので大脳はないが、神経はある。
だが、大脳がないので、セミ同士が意識しているといのはおかしい。
ただ、その違いは響きでわかるのか。
響きの違いがわかったとしても自己に置き換えることはないので、そのセミをほかのセミが意識することはないのだろう。
いずれにしても、違いという視点で、自己と他者の存在を意識するのは霊長類の機能なんだろう。
日本人はとくに違いに敏感な民族だと思う。
四季の違いを肌で感じるっていうのもあるが、そもそも農耕民族で、同じということを意識しすぎている民族でもある。
まわり近所すべて同じという意識である。
それに伴い、安心感が生まれるというものである。
個がないとよく言われるが、それは主張せず、他とは違わないということを意識しているのであろう。
だから、同じ意識を持つ人たちとは共存、協調できる。
とりわけ日本人としてのやさしさ、米百俵の精神などといわれるが、それは同じ意識であるという視点から生まれるのであろう。
だから、他の民族に比べ、違っているというのに大変敏感である。

欧米は縄張り意識な狩猟民族であったために、この違うという点にはそれほど敏感でないのではないか。

そこでである。
日本のイジメの特有さは、とかく、「違う」というものに対して攻撃する傾向がある。
これは「社会」に出ても同じである。
イジメとまではいかないが、とかく、自らの来歴に存在しない者に対しては、防御し、攻撃する傾向がある。

セミにはそんなものは存在しないだろうなと思い、道を歩いて職場に来る。
そういや、7~8年前に北海道へ出張で出かけたとき、カラスのいじめにであった。
カラスの集団がある1羽のカラスをくちばしでつついていじめているのである。


いろいろあるわ。

そういう感覚(経験)に出合うと、自らの意識はUP DATEされる。
そういう現象をそのまま受け入れれば、おもろいが、いつも自らの解釈(記憶)に洗脳されてりまう。

いずれにしても、経験だし、「それを」経験していないものが、「それ」を否定してはいけないと最近つくづく思うし、世の中の人間は、そこからstep upなかなかできない。

自らの力を他人に認められたいという志向であるが、それだと、「徳」にはならない。

相撲道の心技体が最近注目されているが、「徳」というものは難しい。
「徳」というのは、他人に惑わされない精神である。

「徳」がにじみ出る人間は、その一つ一つの行為が「美」であるのだろう。

ちなみに本学の建学の精神は、

「徳」をのばす
「知」をみがく
「美」をつくる

です。

これを意識した脳教育研究会を本学内に設立できればと思う。


今週末は岡山が自習であったため、久しぶりの土日を自らの研究室で過ごしている。採点は昨日の午前中ですみ、午後はもっぱらまったり感。
いや、この感覚、空間、時間ですよ。
まさに心身がリフレッシュする。
この時空間が、以前はあった。
何をするわけでなく、本を読み、文献を読み、決して焦らない時空間が。


とはいうものの、原稿を少し書き進めておこう。