森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

すっかり回想録

2007年08月29日 07時10分32秒 | 過去ログ
先週半ばに熊本より高知に帰り(向かい)、高校の同窓会お疲れ様同窓会に出席し、そのままベーシックコースへ。

初日は「脳科学とリハビリテーション」を話した。
いらない情報は与えず、必要最低限に絞ったのが功を奏した。
それよりも、スライドを使わず、カーテンを開け、青い壮大な太平洋をバックに講義をしたことがいいんだろう。
明るい気持ちで学習することが一番いい。
カーテンを開ければ、龍馬も眺める太平洋。

学習は驚きからはじまる。


そのどこまでも続く地平線を見れば、勉強する意欲もわく。
講習会に来ても、知識や技術は断片的でしかない。
それを結び合わせるのが感情である。
そして、いつまでも勉強し続けようという気持ちにさせる前向き感情である。
後ろ向き感情でない。

感情はエピソード記憶として長期記憶となる。
むしろ、初回のコースは意味より感情の記憶が残ったほうがいい。
1回の受講だけで、何もわかっていない。

人生すべて勉強である。
認知を生きるということはそういうことである。

患者も認知を生きているが、自分自身も天寿に全うされるまで認知を生きている。

いずれにしても、休みボケでない、パーフェクトに近い講義ができた。

2日目は実習などのサポートに入る。
体で感じ、記憶する。
頭でっかちにならない手続きにもいい。
自らの脳で手続き記憶が生まれる。

臨床を生きるための必須の事項だ。

レセプションに。
その前に時間があったので、追手筋の「ひょっとこ寿司」へ。
小中学校の同級生が握っていた。
彼の記憶がすごい。
僕は、それが徐々に、波紋が広がるように、よみがえってきた。
面白いものだ。
脳が必死に結び合わせているのだろう。
この必死さ、ニューロンが手を伸ばして、手を握り合わせている瞬間、なんとも脳は愛おしい。

小中学校の同級生は、複雑で、社会として壮大だと、違う意味で感じた。

人生はどうなるかわからない。
自分が今こうしているのも、そのつどのシステムの位相があったのだろう。
それに出会うのも人生。
自らの力に、他者の力。
それが相互作用し、位相が起こる。

人が人を呼ぶ。

人を呼ぶために努力し続けなければならない。

再会を約束してレセプション会場へ。

いろんな談義をしたが、思いは伝わってきた。
あとは、それを実行するかだ。
「ようだい」だけはききたくない。
20代が多かったので、がむしゃらに生きることだ。
右脳で感じろ!

二次会、三次会へと進み。
2時。

もはや、3夜連続の午前様となり、酔いもひどい。

朝、無理やりからだを起こして午前中の「右脳と左脳」の講義を行う。

いろんな仮説を知ってもらい、新たな仮説を創造してもらいたい。
右半球だから、USN、左半球だから失語、それは結果でしかない。
その中身の仮説が21世紀になって急激に解明されている。
それを知ることが、来る患者さんへの、準備となる。

偶然は準備のできていないものを助けてくれない。

見るということは、視覚だけでない、脳のシステムで、観るということ。
観るということは、何かの視点に立つということ。
すなわち、現象のボトムアップが自らの知識のトップダウンの神経の流れと相互作用する瞬間を言う。

ここでは右と左は長くなるので触れないが、12月までには論文化しようと思う。

旧態依然の治療から一歩前進へ。

無事にコースも終了し、みんなと別れ、夜はよさこいのメンバーと懇親。
塾長の説得力、そして情熱は、いつも心打たれる。
理屈じゃない、それが魅力だ。

9月に再会を約束し、別れた。

4夜連続の午前様。

そして、朝の4時に起き、奈良に戻ってきた。

診察を終え、仕事に復帰。

考えてみるとはじめての夏のバカンス。

2週間も休みをとったのは初めてだ。
どうしても仕事が気になり、2~3日もすれば職場に来ていた自分。

それを払拭できた。

いったん、リセットすることは新たな創造を生むということに気づいた。
ずるずる脳を使っているからよくない。
これは運動学習にも言える(証明されている)。

そして、何よりも自分にとってよい感情を生み出した。

新たな企画で、あれもやりたい、これもやりたい、ということの前向きな感情がわいたことである。


そして、そろそろもどろうかという情がわいた。


仕事をしながらも、そういう企画は浮かぶのだが、幹が10本もありながら仕事を続けると混乱してしまう。

それをいったん伐採し、新たな芽を自らの脳に生えさせる。

一種の脳の野焼きだ。

この気持ちがいつまで続くかわからないが、12月までは続けたい。

土日はすべて講演で1年間ぐらい来ていた自分に休むことはいいことだと感じさせてくれた。

それに気づいた。

それをさせてくれたのも他者と自己の相互関係性である。