昨日は大学内での仕事。
久しぶりに図書館で2007年の欧文を調べ、コピーをした。午後は大学院の説明と、4回生ゼミ生のスケジュールを確認した。
大学院を希望される方は、事前に指導教員への照会があるので、お忘れなく。
ここんとこ、仕事のいい意味での効率を考えている。悪い意味での効率はバイアスによる省略化である。
昨日の健康科学研究所開所記念シンポジウムのポスターを企画・作成すると、自然に5時間以上費やし、結局は22時ににもなっても仕上がらないので、いったんやめた。適当に作ればいいんだが、それもできない。デザインというのは妥協ができない代物で、論文とは少し違う。私の内面を見られそうな感じがあるので。
しかしながら、時間を費やしていれば、やるべき(やろうとしている)プロジェクトがどんどん遅れる。
ましてや、学部生の卒論(16名)の研究計画もそろそろ真剣に目を通さないといけないし、もちろん院生も。
自分のやるべき仕事である「痛みの認知機構~大脳皮質における二重性」などが、どんどんずれこむ。
これでも教育研究生活も長くなって、授業などの要領は身についてきたが、新たな創造性、つまり新規なプロジェクトにとりくもうとすると、大脳皮質が総動員されるために、なかなか進まない。
しかしながら、これが楽しいんだけど。
一方、人前で話すことは、もはや、私の脳のなかに数多くの「認知テンプレート」つまり経験が蓄積されているために、意外と余裕がある。
記憶の豊富さというようりも、どちらかといえば、その引き出しの多さといったところであろうか。
もちろん、先輩方の講義を聞くと、いつもそのテンプレートがまだまだであると感じる。
こうしたことを考えていると、意識・注意の向け方に違いがあるのではないだろうか。
若いと外(外界)に向ける注意・意識が多いが、年輪を重ねると、内(内界)に向かう注意・意識が多い。
これはもちろん記憶、経験に由来するが、直感的パターン認識によるものだと思う。
もちろん、結びつけ能力や、フレーム能力が優れていることになる。
このときである。
いわゆる大人であってもこの年輪の形態が最低二つあるように思う。
ひとつはバラバラな状態から結び合わせるときに、バイアスに縛られず、関係のないことから、「わかる」瞬間に出会う人たちである。
これが、発想につながるし、問題解決のための知恵となる。
一方、年輪を重ねて、カチコチの頭になっている人は、直球勝負というか、関係のないことから問題を解決する術がない。
つまり、それまでにどう生きてきたかに相当左右されるのだが、前者は切り株にしたときに、その年輪は相当に密なんだろう。一方、後者は同じ半径かもしれないが、その年輪の密度は少ないのだろう。
「これはこうなんだから」という後者の大人によく出会うのは、私にとっても学生にとっても不幸なことだ。
「これはこう」なんていうのは科学でない。
反証可能性について、セラピストもきちんと勉強すべきであるし、そういうカリキュラムがないと、リハビリテーションは科学から抹殺されるであろう。
そうなれば、近い将来、ロボット脳なセラピスト、プログラムにしか反応しない者が生産される。
同じ60歳であったとしても、年輪、すなわち「認知テンプレート」が豊富な人になりたいものである。
この多さが賢者になる。
老いということは、すばらしいことなんだ。
そういうことを日野原先生が冬木学長をみると、感じる。
他人・仕事・勉強(外界)に惑わされない。
どしっと構えて余裕がある。それは、そういうことなんだろう。
花火大会ですね、自宅から花火が目の前に見えました。