今日から火曜日は13:00から「リハ概論」、
14:40から「発達系理学療法学」、
16:10から「神経系理学療法学」、
の3連続授業。
さきほど終わった。
一回生、二回生、三回生と流れる。
単純なヒエラルキーではないが、
ある程度、ヒエラルキーは存在し、
それは、対象が関係性を結ぶこと(あるいは干渉する場合もある)で
非線形的に発達したり、入れ子になったり、
位相が生じたり、多種多様に変化していく。
やはり、一回より、二回、二回より三回で
講義における相互作用度合が違う。
これはお互いの目標を共有しているのもある。
明確な目標ができ、
それに向かい、共同注意する機構が働いているのもある。
一方、一回は、授業や大学にまだ予測(仮説)が生まれず(記憶がないから)、
逆に、予測不能な状態から、
過敏な警戒状態を作り、
逆に、脅威に対して過剰に反応する。
不安感情を司る帯状回が大脳皮質よりも大いに働くのだ。
だから、結果的に「不快」と判断、
あるいは、「傾眠」状態になる。
それを見た教師は、「不快」になり、
逆に「情動」が大いに喚起され、
「恐怖」を与えてしまう。
そうすると慣れない環境でただでさえ、
「精神的」緊張が、身体化され、筋緊張(筋張力)をあげてしまっているのに、
「恐怖」によってさらに、その張力をあげてしまい、
結果として「疲労」を与え、
疲れやすい(注意を持続できない)脳と身体を作ってしまう。
今日もこの1年から3年への流れの中でそれを感じ、
1年の授業を反省した。
単に、1年が高校感覚というだけの問題でなく、
脳のそういった機構によるものであり、
教師次第では、なんとでもなる。
ライブ感覚、あるいは落語感覚と、人を引き付ける人、
それが教師の力量だが、
それだけでは不十分かもしれない。
いや人を引き付けなくとも、学生と教師が最終的には「ハーモニー」
を奏でることができれば、それでいいと思う。
教え方がうまいことにこしたことはないが、
それよりも、「ハーモニー」として「インタラクション」するかが、
その学生の将来を思えばよいのかもしれない。
めぐりあったすべてのものからおくられるサイン。
何一つ見逃さない、そうやってくらしていこう。
とミスチルが言っているが、それも一理あるし、
渡辺淳一の「鈍感力」も一理ある。
見逃すことで「ストレス」でない場合もある。
一長一短このファジーな「人間」が実に面白い。
さて、実習生諸君。
スポーツ選手でMental、physicalというが、
自らの体験から、
Mentalがいかにphysicalに影響するかをからだで記憶しておいてもらいたい。
「心身状態」とよくいうが、
障害を持つ患者とはphysicalだけの問題でない。
Physical therapist、身体の治療者だが、
その両義性(不可分)を自分自身で感じ、
よきセラピストへ成長してほしい。
みんな、あせっているよ。
まだ1週間、はじまったばかりだ。
何もできなくて当然、何もわからなくて当然。
「人生」とはそういうもの。
もしすべてができれば、「実習」なんていらない。
そして、physical therapyはレシピ通りのtherapyとなる。
まずは何も知らん自分を・・・
それを感じることがスタートだ。
今始まったばかりに自信なんかいらない。
信頼を謙虚さから勝ち取ることだ。
「人間」を治療する「人間」は
「人間」に教育を受けることから「成長」できる。
大いに悩み、大いに泣き、喜怒哀楽を出すこと。
2年もすれば、よき「経験」として昔話で話すことができるよ。
さて、37度台の脳と身体には今日の三コマはきいた。
37度代の風邪がなんとなくいちばんきつい。
「無理」がきく「体温」だと潜在的に思っているから、
「無理」するのだろう。
38度を超えれば、「無理」をやめる。
そう「身体」がサインをあたえているのだと思う。
知らないうちに「免疫力」を落としているのかもしれない。
まじめをやめれば病気にならないっていう本がでるぐらい
「日本」は今ストレス社会なのか???
まじめ、それは大事だが、さきほどのファジーな感が生きていくとき大切なんだろう。
「生きる力」と小学校教育で叫んでいるが、
そのもの自体が叫ばれるこの時勢。
時代が変貌する。
それも地球上における「時代」なんだろう。
「知る」こと、それは「はじまる」こと。
14:40から「発達系理学療法学」、
16:10から「神経系理学療法学」、
の3連続授業。
さきほど終わった。
一回生、二回生、三回生と流れる。
単純なヒエラルキーではないが、
ある程度、ヒエラルキーは存在し、
それは、対象が関係性を結ぶこと(あるいは干渉する場合もある)で
非線形的に発達したり、入れ子になったり、
位相が生じたり、多種多様に変化していく。
やはり、一回より、二回、二回より三回で
講義における相互作用度合が違う。
これはお互いの目標を共有しているのもある。
明確な目標ができ、
それに向かい、共同注意する機構が働いているのもある。
一方、一回は、授業や大学にまだ予測(仮説)が生まれず(記憶がないから)、
逆に、予測不能な状態から、
過敏な警戒状態を作り、
逆に、脅威に対して過剰に反応する。
不安感情を司る帯状回が大脳皮質よりも大いに働くのだ。
だから、結果的に「不快」と判断、
あるいは、「傾眠」状態になる。
それを見た教師は、「不快」になり、
逆に「情動」が大いに喚起され、
「恐怖」を与えてしまう。
そうすると慣れない環境でただでさえ、
「精神的」緊張が、身体化され、筋緊張(筋張力)をあげてしまっているのに、
「恐怖」によってさらに、その張力をあげてしまい、
結果として「疲労」を与え、
疲れやすい(注意を持続できない)脳と身体を作ってしまう。
今日もこの1年から3年への流れの中でそれを感じ、
1年の授業を反省した。
単に、1年が高校感覚というだけの問題でなく、
脳のそういった機構によるものであり、
教師次第では、なんとでもなる。
ライブ感覚、あるいは落語感覚と、人を引き付ける人、
それが教師の力量だが、
それだけでは不十分かもしれない。
いや人を引き付けなくとも、学生と教師が最終的には「ハーモニー」
を奏でることができれば、それでいいと思う。
教え方がうまいことにこしたことはないが、
それよりも、「ハーモニー」として「インタラクション」するかが、
その学生の将来を思えばよいのかもしれない。
めぐりあったすべてのものからおくられるサイン。
何一つ見逃さない、そうやってくらしていこう。
とミスチルが言っているが、それも一理あるし、
渡辺淳一の「鈍感力」も一理ある。
見逃すことで「ストレス」でない場合もある。
一長一短このファジーな「人間」が実に面白い。
さて、実習生諸君。
スポーツ選手でMental、physicalというが、
自らの体験から、
Mentalがいかにphysicalに影響するかをからだで記憶しておいてもらいたい。
「心身状態」とよくいうが、
障害を持つ患者とはphysicalだけの問題でない。
Physical therapist、身体の治療者だが、
その両義性(不可分)を自分自身で感じ、
よきセラピストへ成長してほしい。
みんな、あせっているよ。
まだ1週間、はじまったばかりだ。
何もできなくて当然、何もわからなくて当然。
「人生」とはそういうもの。
もしすべてができれば、「実習」なんていらない。
そして、physical therapyはレシピ通りのtherapyとなる。
まずは何も知らん自分を・・・
それを感じることがスタートだ。
今始まったばかりに自信なんかいらない。
信頼を謙虚さから勝ち取ることだ。
「人間」を治療する「人間」は
「人間」に教育を受けることから「成長」できる。
大いに悩み、大いに泣き、喜怒哀楽を出すこと。
2年もすれば、よき「経験」として昔話で話すことができるよ。
さて、37度台の脳と身体には今日の三コマはきいた。
37度代の風邪がなんとなくいちばんきつい。
「無理」がきく「体温」だと潜在的に思っているから、
「無理」するのだろう。
38度を超えれば、「無理」をやめる。
そう「身体」がサインをあたえているのだと思う。
知らないうちに「免疫力」を落としているのかもしれない。
まじめをやめれば病気にならないっていう本がでるぐらい
「日本」は今ストレス社会なのか???
まじめ、それは大事だが、さきほどのファジーな感が生きていくとき大切なんだろう。
「生きる力」と小学校教育で叫んでいるが、
そのもの自体が叫ばれるこの時勢。
時代が変貌する。
それも地球上における「時代」なんだろう。
「知る」こと、それは「はじまる」こと。