月曜日は授業の準備に追われる.
珍しく資料を本気で作ると,
結局,今日の授業では脱線ばかりで
進まず.
いらない話をしないと,
注意の持続がもたないが,
淡々と講義を続ける勇気も時には必要だと思う.
夕方より,フォーラムを開始する.
土曜日の一般の方々に対するフォーラム内容と違って,
大脳皮質の連合線維から治療を考えるという
いきなり医学・生理学の視点であるために
私自身,脳を使い分けないといけないが,
本質的には変わらない.
私はもはや「脳」の虜である.
このわからない物質に魅力をつねに感じている.
この得体のしれない,
そしてなんとも言い難い
ものに対して
これほどまで魅了されるとは
5年前には考えもつかなかった.
しかし,脳だけを考えているのではない.
行為するという視点から,
身体が脳をつくるという視点から魅了されている.
認識という視点は行為である.
知るために私たちは動くという手段を用いた.
この生物学的視点はゆるぎない事実である.
いくら,脳のことを勉強しているセラピストがあらわれたとしても,
この視点を解読するという視点にたたないと
乗り越えることが厳しい.
エクササイズが創造できないのも
その影響が大きい.
私は,歩きながらも,風呂に入りながらも,
そして,仕事をしながらも,試験監督しながらも
このことについて考えている.
それは何をみても,何を感じても「エクササイズ」を創造せよ.
という教えを実践しているからである.
臨床家だけが臨床のスペシャリストではない.
僕は,つねに,その臨床の空想に思いをふけている.
空想科学(デカルト的)といわれても,
それをする自分が好きである.
フォーラムでは
高次脳機能障害を3名で考えた.
この一部はMOOKで書いているのでご参照ください.
今日は神経と発達の授業.
情熱をくみ取ってもらい,
次の治療を創造する力の源を形成してもらいたい.
大学という場所は,自由に学問する場所である.
マニュアル人間を作るところでない.
いろんな教授陣がいていいのである.
協調という名のもと,
無理に統制しているきらいが現代の大学にある.
それでは新たな視点は生み出されない.
ルールを守る,ルールを破る.
そのせめぎあいを人生は演出する.
2コマ授業し,
今から大学院の授業である.
院の授業は自由だ.
脳は私自身であり,私を演出するための物質である.
この深さと広さに耐えられる精神をもつものが次なる臨床を演出するであろう.
その時々の異端の脳.
それは誰か?
この読者かもしれない.
珍しく資料を本気で作ると,
結局,今日の授業では脱線ばかりで
進まず.
いらない話をしないと,
注意の持続がもたないが,
淡々と講義を続ける勇気も時には必要だと思う.
夕方より,フォーラムを開始する.
土曜日の一般の方々に対するフォーラム内容と違って,
大脳皮質の連合線維から治療を考えるという
いきなり医学・生理学の視点であるために
私自身,脳を使い分けないといけないが,
本質的には変わらない.
私はもはや「脳」の虜である.
このわからない物質に魅力をつねに感じている.
この得体のしれない,
そしてなんとも言い難い
ものに対して
これほどまで魅了されるとは
5年前には考えもつかなかった.
しかし,脳だけを考えているのではない.
行為するという視点から,
身体が脳をつくるという視点から魅了されている.
認識という視点は行為である.
知るために私たちは動くという手段を用いた.
この生物学的視点はゆるぎない事実である.
いくら,脳のことを勉強しているセラピストがあらわれたとしても,
この視点を解読するという視点にたたないと
乗り越えることが厳しい.
エクササイズが創造できないのも
その影響が大きい.
私は,歩きながらも,風呂に入りながらも,
そして,仕事をしながらも,試験監督しながらも
このことについて考えている.
それは何をみても,何を感じても「エクササイズ」を創造せよ.
という教えを実践しているからである.
臨床家だけが臨床のスペシャリストではない.
僕は,つねに,その臨床の空想に思いをふけている.
空想科学(デカルト的)といわれても,
それをする自分が好きである.
フォーラムでは
高次脳機能障害を3名で考えた.
この一部はMOOKで書いているのでご参照ください.
今日は神経と発達の授業.
情熱をくみ取ってもらい,
次の治療を創造する力の源を形成してもらいたい.
大学という場所は,自由に学問する場所である.
マニュアル人間を作るところでない.
いろんな教授陣がいていいのである.
協調という名のもと,
無理に統制しているきらいが現代の大学にある.
それでは新たな視点は生み出されない.
ルールを守る,ルールを破る.
そのせめぎあいを人生は演出する.
2コマ授業し,
今から大学院の授業である.
院の授業は自由だ.
脳は私自身であり,私を演出するための物質である.
この深さと広さに耐えられる精神をもつものが次なる臨床を演出するであろう.
その時々の異端の脳.
それは誰か?
この読者かもしれない.