今夜は伊勢神宮の式年遷宮のハイライトである「遷御の儀」である。
なぜ20年に一度、同じ建物を造って、言葉は悪いが行ったり来たりを繰り返すのかといえば、確固とした説は実はないのだという。
弥生式の建物の耐用年数とか、あるいは神道的な意味での清浄さを保つためとか、何しろ1,300年前から続いていることに対して現代人は推測であたるより他はない。
ただ、宮大工さんの技術継承という意味合いでも20年に1度というのは大きな意味はあるようだ。
20年前に見習いだった職人さんが、20年間で蓄積した技を新しい神殿に捧げ、また次の世代に伝える。
効率やスピードがもてはやされる世の中で、こういった壮大なセレモニーが残っているのもわが国の長い長い歴史のなせるワザであろう。
さて、話はおとといに戻る。
富山市内の居酒屋でひとり飲みをしているところに、市内某スナックのママさんがやってきた。
6月末を境に、1つを除いてはスナック通いを控えていて、彼女と会ったのもまるまる3ヶ月ぶりであった。
お客さんを連れていたのでその場で話をすることはなかったが、居酒屋を出てから予定外ながらお店に顔を出すことにした。
平日でお客も少なく、たくさん話すことはできて楽しい時間になった。
中身を書くことはできないが、彼女は伊勢の式年遷宮にインスパイアされたというスケールの大きな理由から、一つの大きな転換を行うことをすでに決めている。
20年という長い時間積み重ねた実績に寄りかかることなく、まったく新しい世界に踏み出そうとしている。
もちろんシッカリ者の彼女のこと、以前から周到に準備を重ねてスムーズに転換できる段取りは整えている。
私と同世代にして、この段階からの向上心、好奇心にはアタマが下がるばかりだ。
出会ってからそれほど長くは経っておらず、長い長いお付き合いをしてきたお客など山ほどいるのだとは思うが、時間のわりには深く付き合えたとの言葉に偽りはないだろう。
彼女が考えている節目の日まではもうそれほど日数はない。
節目の日にはもちろん行くが、夜遊びを控える方針は変えないから、節目までの間にあと1回か2回行けるかどうかといったところだ。
いずれ、お店とお客として「向かい合わせ」ではなく、対等な立場で「席を並べて」飲みたいという話はお互いに以前からしているものの、そのためには私自身がそれにふさわしい男になっていなくてはダメだろう。
自己満足ではなく、その判断は彼女にゆだね、それを受け入れることにしたい。
たとえ顔を見ることができなくなっても、今この時点ですでに私という人間を最も深く理解してくれた女性の一人ということには変わりはないからである。
なぜ20年に一度、同じ建物を造って、言葉は悪いが行ったり来たりを繰り返すのかといえば、確固とした説は実はないのだという。
弥生式の建物の耐用年数とか、あるいは神道的な意味での清浄さを保つためとか、何しろ1,300年前から続いていることに対して現代人は推測であたるより他はない。
ただ、宮大工さんの技術継承という意味合いでも20年に1度というのは大きな意味はあるようだ。
20年前に見習いだった職人さんが、20年間で蓄積した技を新しい神殿に捧げ、また次の世代に伝える。
効率やスピードがもてはやされる世の中で、こういった壮大なセレモニーが残っているのもわが国の長い長い歴史のなせるワザであろう。
さて、話はおとといに戻る。
富山市内の居酒屋でひとり飲みをしているところに、市内某スナックのママさんがやってきた。
6月末を境に、1つを除いてはスナック通いを控えていて、彼女と会ったのもまるまる3ヶ月ぶりであった。
お客さんを連れていたのでその場で話をすることはなかったが、居酒屋を出てから予定外ながらお店に顔を出すことにした。
平日でお客も少なく、たくさん話すことはできて楽しい時間になった。
中身を書くことはできないが、彼女は伊勢の式年遷宮にインスパイアされたというスケールの大きな理由から、一つの大きな転換を行うことをすでに決めている。
20年という長い時間積み重ねた実績に寄りかかることなく、まったく新しい世界に踏み出そうとしている。
もちろんシッカリ者の彼女のこと、以前から周到に準備を重ねてスムーズに転換できる段取りは整えている。
私と同世代にして、この段階からの向上心、好奇心にはアタマが下がるばかりだ。
出会ってからそれほど長くは経っておらず、長い長いお付き合いをしてきたお客など山ほどいるのだとは思うが、時間のわりには深く付き合えたとの言葉に偽りはないだろう。
彼女が考えている節目の日まではもうそれほど日数はない。
節目の日にはもちろん行くが、夜遊びを控える方針は変えないから、節目までの間にあと1回か2回行けるかどうかといったところだ。
いずれ、お店とお客として「向かい合わせ」ではなく、対等な立場で「席を並べて」飲みたいという話はお互いに以前からしているものの、そのためには私自身がそれにふさわしい男になっていなくてはダメだろう。
自己満足ではなく、その判断は彼女にゆだね、それを受け入れることにしたい。
たとえ顔を見ることができなくなっても、今この時点ですでに私という人間を最も深く理解してくれた女性の一人ということには変わりはないからである。