今日はクリスマスイブである。
昨日は県内東部を写真撮影やらライブ鑑賞やらで走り回ったから、今日は特別なことは何もせず自宅でノンビリした。
先日、社歴が浅いためナシと思っていたボーナスが意外にもあってうれしかったが、来年早々には車検が控えておりパッと使うことはためらわれる。
どうせなかったお金だからと遊びやモノに使うのもいいとは考えたものの、まずは今年度の住民税残り一回分を早々に納付しようと思い直してそうした。
期限ぎりぎりまで待ったところで出ていく額は同じ、望外の実入りがあった時にひと思いにカタを付ければ後々気がラクである。
昨日の夕方は、舟橋村でのライブ鑑賞の後そのまま魚津に帰るにはもったいない気がして富山市の中心にクルマを進めた。
しかしクリスマス週だからか道がずいぶんと混んでいて、結局は何もせずに自宅に向かうことになった。
大雪も峠を越えて道路にも雪はなく、家族連れやカップルがイルミネーションなどを目当てに大挙して出ていたのだと思う。
私自身はクリスマスだからと特別に騒いだり遊んだりといった人生を送ってきていないし、それはバレンタインやハロウィンなどでも同じだし、そこが他人と違うからと言って引け目を感じることもない。
今日という日は12月24日であるだけで、それ以上でもなければそれ以下でもない。
クリスマスとて所詮「舶来」のイベントであり、しかも我が国ではそれらすべてをに「商い」に結び付けてくることに辟易していることから、そういったものに対しては冷めてしまっている。
テンションが上がるとか気持ちの切り替えをするのは、例えば地元のお祭りであったりお盆や正月であったり、どちらかというと「我が国的」な節目の方だ。
バレンぼっちやクリぼっちといった言葉が幅を利かせ、ぼっちでいることがあたかも不幸で負け組であるかのような印象がバラまかれる世の中にあっても、イベントをつかまえては無理にでも誰かと関わって楽しもうなどとは思わない。
ひとりの方が楽しいと思って過ごしたいように過ごして心が安寧ならばそれでよいし、この日はせめて誰かといたいと考えるなら前もって段取りを組めばよいし、要は好きなようにすればよい。
好きなようにしたつもりでも幸せを感じられないなら、それはどこかで他人を意識して無理をしていることの裏返しだ。
どういう状態であれば幸せなのかという基準は文字通り人それぞれである。
いわゆる俗なもの、すなわちカネ、モノ、チイ、メイヨ、コネ、カタガキなどといったところに価値を見出す人もいれば、俗なものにはこだわりはなくシュミやジブンミガキを重視する人もいる。
これらはどちらが悪いというわけでもなく、他人が干渉できることでもなく、変えることは難しい。
私自身は目に見えるモノとなるとそれほど多くを持っていない。
生活に必要なものは揃ってはいるが高級と呼べるものは皆無だし、機能はシンプルなものばかりだ。
カネも少ないし、ヨメやコドモといったカゾクもいないし、モチイエもないし、立派なカタガキもないし、トモダチも少ない。
それでも、半世紀生きてきていつがいちばん幸せかと聞かれれば、自信を持って「今」と答えられる。
あまりにも順調すぎた学生までの人生のせいで、他人の感情の機微も分からず、人生について真剣に考えることもない、およそ年齢相応からはかなりかけ離れた精神性のまま社会に出たため30歳くらいまでは苦しいだけの日々が続き、ついには適齢期と言われる大事な年代に体を壊して、以後は経済的にも不安定となり家庭を持つことなど考えられなくなった。
もう半世紀を超えて生きた今となってはその点に関しては仕方がないと割り切るよりなく、むしろ挫折の後、心に温めていた事柄を徐々に始めていって、そこからの出会いのおかげでライブのステージにも立つことができたし、我が国の全ての都道府県に足を入れることもできた。
仕事に関しては、対人交渉が関わる仕事はあきらめ作業や運転を主とするものにシフトして、今もそれがメシのタネとして続いている。
若い頃は周囲に受け入れられることばかりを求めて自分の好きなように生きてこなかったところを、体を壊すという悪い出来事をキッカケに少しずつ自分の好きなように生きることに遅まきながら目覚めていって、多くの失敗も経ながらとはいえ今は長く続けられそうな仕事にも恵まれて心の安寧を得ているのだから、今がいちばん幸せと思うのは、決して強がりでも何でもなく素直な気持ちである。
今日より明日、明日よりあさってと、これから日に日に無限に幸せになっていくと思えば、この憂き世にあっても何とかやっていけるのだろうと思う。
昨日は県内東部を写真撮影やらライブ鑑賞やらで走り回ったから、今日は特別なことは何もせず自宅でノンビリした。
先日、社歴が浅いためナシと思っていたボーナスが意外にもあってうれしかったが、来年早々には車検が控えておりパッと使うことはためらわれる。
どうせなかったお金だからと遊びやモノに使うのもいいとは考えたものの、まずは今年度の住民税残り一回分を早々に納付しようと思い直してそうした。
期限ぎりぎりまで待ったところで出ていく額は同じ、望外の実入りがあった時にひと思いにカタを付ければ後々気がラクである。
昨日の夕方は、舟橋村でのライブ鑑賞の後そのまま魚津に帰るにはもったいない気がして富山市の中心にクルマを進めた。
しかしクリスマス週だからか道がずいぶんと混んでいて、結局は何もせずに自宅に向かうことになった。
大雪も峠を越えて道路にも雪はなく、家族連れやカップルがイルミネーションなどを目当てに大挙して出ていたのだと思う。
私自身はクリスマスだからと特別に騒いだり遊んだりといった人生を送ってきていないし、それはバレンタインやハロウィンなどでも同じだし、そこが他人と違うからと言って引け目を感じることもない。
今日という日は12月24日であるだけで、それ以上でもなければそれ以下でもない。
クリスマスとて所詮「舶来」のイベントであり、しかも我が国ではそれらすべてをに「商い」に結び付けてくることに辟易していることから、そういったものに対しては冷めてしまっている。
テンションが上がるとか気持ちの切り替えをするのは、例えば地元のお祭りであったりお盆や正月であったり、どちらかというと「我が国的」な節目の方だ。
バレンぼっちやクリぼっちといった言葉が幅を利かせ、ぼっちでいることがあたかも不幸で負け組であるかのような印象がバラまかれる世の中にあっても、イベントをつかまえては無理にでも誰かと関わって楽しもうなどとは思わない。
ひとりの方が楽しいと思って過ごしたいように過ごして心が安寧ならばそれでよいし、この日はせめて誰かといたいと考えるなら前もって段取りを組めばよいし、要は好きなようにすればよい。
好きなようにしたつもりでも幸せを感じられないなら、それはどこかで他人を意識して無理をしていることの裏返しだ。
どういう状態であれば幸せなのかという基準は文字通り人それぞれである。
いわゆる俗なもの、すなわちカネ、モノ、チイ、メイヨ、コネ、カタガキなどといったところに価値を見出す人もいれば、俗なものにはこだわりはなくシュミやジブンミガキを重視する人もいる。
これらはどちらが悪いというわけでもなく、他人が干渉できることでもなく、変えることは難しい。
私自身は目に見えるモノとなるとそれほど多くを持っていない。
生活に必要なものは揃ってはいるが高級と呼べるものは皆無だし、機能はシンプルなものばかりだ。
カネも少ないし、ヨメやコドモといったカゾクもいないし、モチイエもないし、立派なカタガキもないし、トモダチも少ない。
それでも、半世紀生きてきていつがいちばん幸せかと聞かれれば、自信を持って「今」と答えられる。
あまりにも順調すぎた学生までの人生のせいで、他人の感情の機微も分からず、人生について真剣に考えることもない、およそ年齢相応からはかなりかけ離れた精神性のまま社会に出たため30歳くらいまでは苦しいだけの日々が続き、ついには適齢期と言われる大事な年代に体を壊して、以後は経済的にも不安定となり家庭を持つことなど考えられなくなった。
もう半世紀を超えて生きた今となってはその点に関しては仕方がないと割り切るよりなく、むしろ挫折の後、心に温めていた事柄を徐々に始めていって、そこからの出会いのおかげでライブのステージにも立つことができたし、我が国の全ての都道府県に足を入れることもできた。
仕事に関しては、対人交渉が関わる仕事はあきらめ作業や運転を主とするものにシフトして、今もそれがメシのタネとして続いている。
若い頃は周囲に受け入れられることばかりを求めて自分の好きなように生きてこなかったところを、体を壊すという悪い出来事をキッカケに少しずつ自分の好きなように生きることに遅まきながら目覚めていって、多くの失敗も経ながらとはいえ今は長く続けられそうな仕事にも恵まれて心の安寧を得ているのだから、今がいちばん幸せと思うのは、決して強がりでも何でもなく素直な気持ちである。
今日より明日、明日よりあさってと、これから日に日に無限に幸せになっていくと思えば、この憂き世にあっても何とかやっていけるのだろうと思う。