写真で綴る気ままなすぎさん

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新四国相馬霊場八十八ヶ所58番札所 観音堂と生・なま(鮮魚)街道

2018年09月06日 06時51分33秒 | 八十八か所札所・観音札所など

新四国相馬霊場八十八ヶ所58番札所 布佐観音堂(千葉県我孫子市都10)
布佐観音堂は、生・なま(鮮魚)街道 馬の慰霊の為に魚問屋や馬主によって建立されたもの。本尊は馬頭観音。
お堂は明治3年の利根川決壊により流失、大正2年に再建されたもの。 相馬霊場58番の札所になっている。

移し元寺 仙遊寺「たちよりて作礼の堂にやすみつつ 六字を唱え経を読むべし」

太子堂

布佐観音堂は、生・なま(鮮魚)街道 馬の慰霊の為に魚問屋や馬主によって建立
生・なま(鮮魚)街道の標識が・・・
なま街道で鮮魚の輸送がはじまったのは慶安三年(1650)頃からです。
布佐から松戸に至る道筋は時代により変わりましたが、享保十二年(1727)以降は、
布佐ー発作ー成成ー浦部ー平塚ー冨塚ー藤ケ谷ー佐津間ー金ヶ作ー松戸の道筋をたどって送られまし
明治になり馬にかわって鉄道が使われるようになると、なま街道もその役割を終えました。

江戸時代には、川を使った水運が栄え~鹿島・銚子沖なとで水揚げされた鮮魚は江戸日本橋の魚市に送られていました。
鹿島・銚子沖周辺で水揚げされた鮮魚は高瀬舟に乗せ利根川から上流の関宿まで北上、
ここから江戸川に~新川、小名木川を通り江戸日本橋に送り送り込まれる様になりました。
このルートは距離が長い、冬季の渇水期は高瀬舟が関宿付近を通れなかった事などから
五月から七月の夏季以外は、生・なま(鮮魚)街道が利用された。

生・なま(鮮魚)街道は、木下、布佐の河岸に送られ、馬に積み替えられて陸路、
布佐ー発作ー亀成ー浦部ー平塚ー冨塚ー藤ケ谷ー佐津間ー金ヶ作ー松戸 再び舟便で
江戸川から江戸日本橋へ。銚子を夕刻出た鮮魚は翌日の夕刻には日本橋に着いたといわれています。


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