私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

すべては心持ち次第

2014年01月15日 11時04分36秒 | 悟り
◇すべては心持ち次第◇

人生において最も有益な学びは何かと訊かれると、私は迷わず、「すべては自分の心持ち次第である」ということを体得することですと答えます。

喜びや苦しみ等の感情や感覚は、すべて自分の心でつくっています。
しかし、多くの方の場合、自分や身のまわりに起こる出来事と、それに対する価値判断や感情等の感覚的な反応があまりにも固定的に結合しすぎています。
例えば、自分が誰かから評価されると、自分の価値が上がったような気分になるとともに、嬉しい等の感覚的な反応が生じます。
逆に、仕事を失った場合等には、自分の価値が下がったような気分になるとともに、不安をつくる等の反応が生じます。
また、病気になったときも同じような心の反応が生じます。

このように多くの方は、出来事と心の反応の間の結びつきがあまりに強いため、まるでロボットのように、何かの出来事に対して機械的に反応して行動するようになっています。

出来事に対して機械的に反応している自分の心に気づいてください。
出来事の奴隷になってしまっている自分の心に気づいてください。
そして、自分の心の主導権を取りもどしてください。

人から評価されなとダメだと思い込み、劣等感や嫉妬等の感情をつくっているのは、誰ですか?
仕事を失うことや、病気になったことをよくないことだと思い込み、苦しみ等の感情をつくっているのは、誰ですか?

それらの感情等は、すべて自分が勝手につくっているものなのです。


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「私という考え」との遭遇

2014年01月14日 14時05分40秒 | 私の体験
◇「私という考え」との遭遇◇

ここに来られる方に、私の体験談が参考になる方がおられるかも知れないので、私が「私という考え」を実感(自覚)できるまでの道のりについて書いてみます。

「私という考え」について私の体験談をお話しをするためには、2013年4月に私がマスターゲートさんから見性印可(あなたは悟りましたよという師匠の認定)を頂いたときに遡ってお話ししなければなりません。

私は、ゲートさんの講話を聴いているときに、この世のすべての事象は私がつくっている考えなんだということを理解し、その場で見性印可を頂いたのですが、そのときに、この私という存在も考えであることを確信したのです。
なぜそういう確信が芽生えたのか自分でもよく分からないのですが、すべての事象は考えであり幻であるということを理解した次の瞬間、この私という存在も考えであることを確信したのです。
ただこのときは、私が考えであるという確信があるだけで、実感(自覚)もなければ、それがどういうことなのかも分かりませんでした。

でも見性の翌日か翌々日ころに、私が考えであるということに対する糸口が少し分かり始めました。
それは、「私」は考えなのだから、「私という考え」をつくらなければ「私」はないのだろうということでした。
この私の切り口はそれなりの手応えを感じたので、これをまだ東京に滞在しておられたゲートさんに質問してみようと思いました。
しかし、ゲートさんを取り巻く周りの当時の雰囲気は、見性により「私」を捉えられた方々の喜びや、「私」という存在を揺るぎないものとしてそこを目指して自覚を続けておられる方々の切実さで染まっており、「私は幻だ」という私の質問をゲートさんにできるような状況ではありませんでした。

その直ぐ後、ゲートさんはフランスに帰国されました。
以後、私は独自に「私」を見つめ続けることで、自問自答しながら、「私という存在」と向き合っていくこととなりました。

見性後の最初のころは、私という存在については、考えであることは間違いないとは思っていたのですが、私を含むすべての事象が生まれ出る源のようなもの(言葉では表現できません)があるのではないかと考えていました。
そして、その根源については、考え(幻)なのか、幻ではなく何かがそこにはあるのか、よく分からないでいました。
私の内面を見つめ続けるうち、その根源も、私がつくっている考えであることが分かり、これによって、まさにすべての事象が考えであることが分かっていきました。
これは、2013年の8月から9月にかけてのことだと思います。

こうして私は、私を含む本当にすべての事象が考えであることを確信したのですが、依然として私が考えであるということを実感(自覚)できないでいました。
このため、まだ納得ができないというか、スッキリしないというか、もどかしさを抱えながら、私が考えであるということがどういうことなのかを見つめ続けていました。

そして、9月末から10月中旬にかけて、私に対するもどかしさはどんどん高まっていきました。
毎日毎日殆ど仕事もせずに、職場で自分に意識を向け続けるようになっていました。
顕在意識の思考が止まる程に集中し、毎日何時間も自分に意識を向け続けていました。
それでも、私が考えであることが実感(自覚)できずにいました。

その過程の中で、こんなワークを考えてやったりもしました。
それは、名付けて「私という存在が考えであることを自覚するワーク」というものでして、
「誰が私という考えをつくっていますか」、
あるいは「これをやっているのは私だと誰が考えてますか」
という問いを繰り返し自問自答しながら、私に意識を向け続けるワークなのです。

ご興味がおありの方は、どうぞやってみて下さい。
私の場合、上のワークを集中して数分やると、頭の中や、私という存在が飴細工のように崩壊しそうな感じになりました(笑)。

そうやってもんもんとしながら私に意識を向け続けているうち、10月19日の朝、ふっと、私という存在が考えであることを実感(自覚)できたのです。

「私」という意識が無くなっているような不思議な感覚とともに、「私という考え」がつくられなければ「私という存在」も存在しないことを実感(自覚)できたのです。
結果として、見性のときに得た「私という考えをつくらなければ私は存在しないんだ」という切り口でよかったのです。

こうして、「私という存在」が考えであることが実感(自覚)できると、様々な考えを照らし出すようにして生成しながら遷りゆくスポットライトのような思考の連鎖、あるいは思考そのものが私であるという理解に、直ぐに到達しました。

以上です。


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「私は在る」という錯覚について

2014年01月13日 14時28分18秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「私は在る」という錯覚について◇

しつこく、今日も書きます。
これは、「私」という個の意識に目覚められた方に読んで頂きたいと思います。

あなたの目の前にリンゴがあるとします(リンゴでなくても、パソコンでも何でもいいです)。
そのリンゴは、あなたが目で観る等してそれに意識を向けているときだけそこに存在し、あなたが意識を向けていないときは存在しません。
あなたが意識をむけてリンゴという考えつくっているときだけ、リンゴは存在します。
これは間違いありません。
まずは、ここをしっかりと確認していただきたいと思います。

では、「私」についてはどうでしょう。
多くの方は、リンゴについては厳然とした観察者の視線を向けられるのに、対象が「私」になると、途端に曖昧になり自分をごまかそうとします。

もう一度お伺いします。
「私は常に在るのだ」と思われますか?
リンゴは私が観ているときだけ存在すると言っておられるのに、「私」については誰も観てなくとも、常に存在するんだとお考えでしょうか?

「私は常に在るのだ」と考えられている方に申し上げたいのですが、「リンゴ」は自分が観ていときだけ存在すると言っておられるのに、「私」についてはどうして簡単に、誰も観てないのに常に在るという結論を出されるのでしょうか。
「私が私を観ているから」と仰るかも知れませんが、本当に「私」が「私自身」を観ることができるのでしょうか。
「私を観ている」というときのあなたの視点はいったいどこにあるのでしょうか。
視点だけを私の外側に置いて、私自身を観ているとでも仰るのでしょうか。
それは余りにもナンセンスです。

もっと強く、もっと厳しく「私」に意識を向けて、「私」を見つめてください。
そうすればいずれ、「私という存在」が考えであり、「私という考え」がつくられる現場に遭遇することになると思います。


補足です(2014年1月15日)。
上では、私の意識が向けられているときだけリンゴが存在すると書いていますが、この表現は正確ではありません。
リンゴに意識のスポットが向けられ、リンゴという考えが生成されているとき、そこには「私」という存在はありません。
そこには、リンゴという考えだけが存在します。
敢えて言えば、そのとき、リンゴが「私」そのものなのです。
つまり、スポットライトのように移りゆく考えそのものが「私」なのです。


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「私」に意識を向け続ける

2014年01月10日 12時41分20秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「私」に意識を向け続ける◇

最もシンプルでしかも強力な覚醒の方法はと訊かれたら、私は迷わず、「私」に意識を向け続けること、つまり「自覚」だと答えます。

熾烈なまでの激しさで、「私」に意識を向けてみていただきたいと思います。
そのとき、顕在意識の思考はほぼ止まっているだろうと思います。
顕在意識の思考が動いているうちは、まだ集中が足りません。

燃えたぎる炎のような激しさで意識の焦点を「私」を当ててみてください。
そうすれば、まずは「私」という個の意識を捉えることができると思います(これが見性です)。

そうして「私」が照らし出されたなら、その「私」に向けてさらに意識を集中し続けてください。
これでもかこれでもかというくらいに、「私」に意識を集中しつづけてください。
そうすれば、いずれ「私」が考えであり、幻であるということが実感(自覚)できるようになります。
そして「私」という意識や認識も消えていきます。


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悟りのゲート(2)

2014年01月09日 09時29分56秒 | 悟り
◇悟りのゲート(2)◇

昨日の記事の続きです。
この記事は、昨年6月29日の記事にも上書きコピーします。

前回の記事「悟りのゲート(1)」に書いたことは、私なりに確信が得られていることについて書いたのですが、今日の記事は一部まだ十分な確信には至っていないことを少し前倒し的に書きます(無責任でごめんなさい、笑)。

前記の記事で、悟りの要素には個の意識に対応した要素(見性)と、全体の意識に対応した要素(明け渡し)があると書きました。
今回は、その2つの悟り要素を得ることの意味等について書いてみたいと思います。
(「意味」だなんて。自分の言葉に思わず笑ってしまいます。すべて考えなのに、笑)

個と全体に対応する2つの悟り要素を得ると、その瞬間か暫く後に、おそらく次のようなことが起こります(私には起こったようです)。
「私」という意識や認識が無くなるのです。
また、私という存在を含めてすれべは考えであり、幻であることが理解できてますから、どんな考えも掴まなくなり、考えの海で溺れることもなくなります。
一時的な感情や考えの波はありますが、留まることなく、また痕跡を残すことなく過ぎ去っていくようになります。

ここからは、少し考察的な内容になっていきます(笑)。

以前ここに、何故か理由は知るよしもないが、「個」という意識要素と「全体」という意識要素の分離が起こり、それと同時に私という存在である思考の連鎖が始まったと書きました。
非常に不可解なことではありますが、ささにそのようなのです。
(私という存在が思考の連鎖あるいは思考そのものであるという点については、過去記事「思考の連鎖と私(1)~(3)」をお読み下さい。)

それで、私である思考の連鎖の終わりが気になるのです。
シンプルに考えて、始まりがあるのなら終わりもあるのだろうと思う訳なのです(笑)。

そしてまた、シンプルに考えてこう思うのです。
個の意識と全体の意識の分離により私が始まったのなら、それらの再統合により終わるのではないかと。
つまり、個と全体の両方の意識に目覚めたら、私という思考の連鎖も終わるのではないかと。

このことについて、ここ3ヶ月ほどずっと観ているのですが、やっぱりそうなんだろうと思うのです。
私という存在は、個の意識と全体の意識の再統合により何らかの形で一旦は終わるのだろうと。
(私の希望としては、跡形もなく消えてしまいたいのですが、笑。)


やっぱり、今日のこの記事の内容は、まだ現在進行形的な感じです。
おそらくまた改めて書きます(笑)。

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悟りのゲート(1)

2014年01月08日 11時18分48秒 | 悟り
◇悟りのゲート(1)◇

昨年6月28日、29日の記事で悟りのゲートについて書いたのですが、クリアになった視点でもう一度まとめてみようと思います。
この記事は、昨年6月28日、29日の記事にも上書きコピーします。

私という意識(これも考えであり、幻なのですが)は、以前に書いたように、「個」という意識要素と「全体」という意識要素の微妙なバランスにより成り立っています。
しかし、悟りを得る前の意識状態(顕在意識)では、個、全体の両方の意識要素に対する認識が殆どありません。
よって、悟りとは、顕在意識のレベルで個の意識、全体の意識に目覚めることなのです。

これに対応して、悟りの要素には、個の意識に対応した要素と、全体の意識に対応した要素が含まれています。
典型的には、個の意識に対応した悟りのゲートが見性であり、全体の意識に対応した悟りのゲートが明け渡し(大いなる受容)です。
なお、ここでいう明け渡しは、一神教系の宗教でいう特定の神に対する明け渡しとは本質的に異なります。
悟りのゲートは複数存在するのですが、多くの方の場合、いずれかのゲートを順番に一つずつ潜っていかれるのが通常なのだろうとは思います。
ですが、希に複数のゲートを一度に潜ってしまわれる方もおられるのかも知れません。

まず、見性について説明します。
見性とは、私という存在が創造主としての揺るぎない私であるに気づくことです。
すなわち、これが「個」という意識要素に対する目覚めなのです。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。

また見性では、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。
しかし、多くの方の場合、全体という意識要素に対する目覚めはまだ得られてないため、個(私)という意識要素の影響が全体という意識要素のそれよりも大きく、アンバランスです。
自覚(私に意識を向ける)を続けることにより、全体意識に目覚めていくとともに、私という存在を含めてすべての事象が考えであり、幻であることに気づいていきます。

次に、明け渡し(大いなる受容)は、すべてを受け入れて私という自我を明け渡すことです。
すべてを受け入れると言っても、明け渡しの瞬間に本当にすべてを受け入れてしまう方はおそらく極めて希なんだと思います。
私の場合もそうだったように多くの方の場合、その時点でその方が残すべきものは残して、それ以外のすべての事象に対する受け入れが起こります。

明け渡しに伴って、全体意識が目覚めますので、相対的に肉体感覚の自我の影響が小さくなります。
このため、いわゆるエゴに伴う苦しみや欲望等が薄くなり、楽になります。
しかし、多くの方の場合、個という意識要素に対する目覚めが得られてないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
また、すべての事象が考えであることに対する認識もないですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされます。
この明け渡しを経た方の場合も、自覚を通じて「私」という個の意識に目覚めることにより、主体性の欠如や、考えの海の中での迷いの状態から抜け出すことができます。


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個人的なこと(正直な感覚や疑問など)

2014年01月07日 15時34分59秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(正直な感覚や疑問など)◇

今日は、最近の私が感じていることや、思っていること、特に疑問などについて正直に書いてみますね。

私という存在が思考の連鎖、あるいは思考そのものであり、すべてが幻だということを理解しても、特に何が変わったかと言われれば困ります(笑)。
仕事はますますやらなくなってきてますが(笑)。

家では、重い知的障害のある長男の世話が大変なのと、通常の感覚の中で生きる家内との関係(ギャップ)が大変で、日常生活でのストレスはそれなりにあり、まだイライラすることも多いですし(笑)。
それに加え、片付けなければならない仕事がまだ残っているのに、それが手に着かず気分が重いですし(笑)。
普通の意味でパッとしない日常を送っています(笑)。

それでも、感情も考えも、良い悪いにかかわらず、流れるように一時的なものになってきてはいます。
それと、執着は根っ子の部分では殆ど(ひょっとするとすべてか?)、無くなってる感じです。
私にとっての最後の執着は、いまのところ(笑)、家族のことと、こうして悟りに関する情報を伝えることのようなのですが、それらについても、いまこうして一応やってはいますが、根っ子のところではどうでもよくなってしまっています。
私自身を含めてすべて、幻のまま流れるままに遷ろっていけばいいんだと思っています。

ただ正直なところ、疑問に思うこともないではないのです。

それは、私という思考の連鎖の終わりについてです。
そもそもが幻なもので、終わりがあるのかないのかさえよく分からないのです。

そんなこんなでいろいろ思う訳なのです(笑)。
「このまますれべては幻なんだ~って思いながら延々と幻を続けるのか?」とか(笑)。
「それでもいいんだけど、それも面倒くさいな~、勘弁してほしいな~」とか(笑)。
「できれば消えてしまいたいよ」とか(笑)。

などと言いながら実は、「私はこの肉体が滅ぶのと共に消えるんだ」という、理由のない確信もあったりして、なんせ微妙な感じなのです(笑)。

この煮え切らない状況は、もう暫くは続きそうな感じです。
また書きますね(笑)。


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思考の連鎖と私(3)

2014年01月06日 14時56分44秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖と私(3)◇

思考の連鎖と私についてさらに補足します。

思考の連鎖、あるいは思考そのものが私ですから、あの世を含めたこの世界のすべての事象が私であるということになります。
私もあなたも、石ころも草木も、天界の神々も、私から見ればすべて私なのです。
もちろん、あなたから見れば、すべてあなたということになります。

なぜなら、私が見て経験している世界は、私自身を含めて私の思考であり、あなたが見て経験している世界は、あなた自身を含めてあなたの思考ですから。


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思考の連鎖と私(2)

2014年01月03日 14時14分17秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖と私(2)◇

前回の記事に続いて、思考の連鎖と私についてさらに補足します。

思考の連鎖こそが私であると言うと、いやそれは違うという声が聞こえてきそうです。
思考の連鎖が私なのではなく、思考(考え)をつくっているのが私であり、本質の私なのだと。

この考えは間違いではなく、見性という悟りのゲートを潜るのにはとても有効なのですが、これが終わりではないのです。
あなたが「本質の私」と言っているとき、もっと言えば「本質の私」という感覚を得ているときのあなたの内面を観ていただきたいのです。
あなたがこれは本質だと言っているその「本質の私」も、考えであり幻であることに気づくはずです。
ある考えをつくっている瞬間に、それと同時にその考えをつくっている「本質の私」が存在していると感じているそのあなたの感覚は、錯覚なのです。
考えがつくられている現場をもっと詳細に観てください。
そこには、考えの生成だけがあり「本質の私」は存在していないはずです。


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