息子夫婦と孫娘二人の帰省。 まだ、2歳半と2か月の孫娘だが、やっぱり可愛い。 二人とも女の子で、我が夫婦は男の子二人だったので、女の子の幼少の行動や言動はまったく理解できていないけど、少なくとも、女の子はやっぱりその一つ一つの仕草など、可愛いのである。
まっ、これも爺と婆の楽しみの一つなんだろうし、もちろん、どんな子供でも可愛いに決まっているのだ。
その子供が血のつながりのあるなら、当然だけど、猶更可愛いに決まっているではないか。
これは、単にではなく、やはり自分の子供の面影があるし、瓜二つと言ってもいいような容姿なら猶更だろう。
さてさて、今日は年に何度もないような快晴の天候で、しかも、暑くもなく、寒くもなく、湿度も高くなく、気持ちの良い風があり、公園で走り回っても意外と汗でべた付くような日でもなく。
ある意味では、年にそれほど訪れることが無いような素敵な天気に恵まれた。
昼前から近くの公園に出かけて行って、滑り台を何度も滑り、ブランコも、ボール遊びも、そして、シャボン玉のおもちゃでは、長い時間を楽しく過ごすことも出来た。
夜は外食で、この時期でも意外と空いている店に行って、座敷に鎮座することも出来て、楽しく夕飯を済ませる事も出来た。
こうした平凡で何気ない日常が普通に過ごせるようになったことは、本当に幸運と言うか、幸福な時間だ。
平凡な生活が何よりも素敵な生活だろうと実感する。 その平凡で平和な人生を生きる時が来たんだな・・・と、この60年の人生を振り返ると、平凡な生活が出来るのは、どれほどの努力や経験が必要なんだろうと思うのである。
人は平凡な生活と言うと、何かあまり楽しくないように思える事があるだろうが、平凡な生活が出来る事はそれほど容易い物ではない。
平凡とは、安定と安心、未来への不安や不満が無い状態だ。 さらには、これと言って、特別な事件や事故もなく、特になにか人と違っているような人生でもない。 しかし、人生で何も特化した事が起きない人生を送る事が出来る人は、それは相当に少ないだろう。 人の一生で、こうして、特別な出来事が無いと言う人は意外と少ないのである。
子供の事や、親戚、友達、お金や、会社、その他の対人関係や生活環境などなど、ほとんどの人は相応に不満や不足を感じる事だろうし、時には生活そのものを根底から左右するような出来事に遭遇する事も少なくない。
自分が求める人生との差を感じて、怒りや劣等感、憂鬱感、絶望すら感じることもあるだろう。
しかし、何事も、自分を信じて、自分の道を見失いで、自分が何をどのように求めているのか? 自分が本当に好きな物はなにか? 自分がどこに行きたいのか? 人間は必ず死する物。 死は間違いなくやってくる。 その時、その死する時までやりたい事とは? その死するまでやりたい事、それこそが、自分に取って、最もやりたい事、やらなければならない事、自分に最も見合っている事、なのである。
それに出会えるまで、探し求める事も人生には必要だろう。 必ず、誰にでも、必ずそうした物があるのであるし、常に自分を見つめる姿勢を忘れる事が無い限り、出会えるのである。
そして、自分が信じるそのものを信じ、どこまでも諦めずに継続する意欲が有れば、必ず思い通りの人生が待っている。
それは、想像していた容とは違っているかも知れない。 しかし、未来は未知のもので、そもそも、その未知な物を想像することは出来ないし、現実は想像を超えてやってくる。
これこそが、生きると言うことの意味があるのである。 想像を遥かに超えたところに現実が存在する。 どれほど想像を膨らませても、決しして自分が思って居る世界を見ることは出来ない。
それほど、現実は複雑で、想像以上に楽しいのである。 楽しい? そう、楽しいのである。 想像していない現実が現れる時は、ワクワクして、その先に思いを巡らせる。 その期待や不安が入り混じった心の不安定感こそが、何よりも生きている証拠だろう。
若い頃を思い出すとそうだろう。 時には危険な事も平気でするだけの意欲や勇気がある。 いろんな意味で、初めて経験する事であり、それに対する期待や不安、裏切りや幸福感、満足感、怒り、悲しみ、憂い、優越感などもあるだろう。 そうした、所謂、青春と言う人生で何よりも代えがたい人生最高の時期は、どれほど傷ついても自分の思いを全て実行する勇気が欲しいと、今は思うのである。 後悔はやらない後悔の方が、やって、失敗して傷つく後悔以上に辛いのだ。 特に若い時期なら、傷付くことなんて大したことではない。
回復力は遥かに高齢との差は歴然で、30歳ぐらいまでなら、何をどうしようと、取り戻せるのである。
さてさて、今日は孫娘と沢山の時間を過ごせたことに感謝して、明日からの日常をしっかりと過ごせる気力となるだろう。