昨日買ったCD。森山直太朗の「さくら」。古いかも知れないが、私は大好きな一曲。卒業シーズンの曲で、季節違いだが、思わず買ってしまった。
モーツアルトの「交響曲第41番<ジュピター>・第40番」レナード・バーンスタイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏。暗いと思うモーツアルトで、一、二を争う程、私の好きな曲。
森山直太朗のさくらを聴くと、ふと自分が卒業した時の事を思い出す。いずれの学校でも、自分は卒業式の時には泣かなかった。泣いたらみっともないと思ったし、当時は受験や就職の事であたまが一杯で、泣く余裕もなかった。男が泣けるか、と。
しかし、当時、他のクラスで柴田君という野球部でキャプテン級の、頭は余り良くはなかったみたいだが、彼は一人、男泣きに大泣きしていた。皆と別れたくはない、離れたくはないと一心に泣いていた。
当時私は、何でそんなに大泣きするのか聴いてみたかった位だったが、本当に悲しかったのだろう。そうやって感情をどこでもむき出しにして泣ける柴田君が、今から考えるととても羨ましい。私よりも少なくとも何十倍も青春を謳歌した事になるだろうから。
そうやって、男の癖に泣いていた柴田君も、今はもう立派に成人して立派になっているだろう。私よりも当時から大人びた所があった。中森明菜が大好きで、彼はレコードを買い集めていた。感性が豊かな方で、よく学校時代は彼は泣いたり笑ったり、喜怒哀楽の幅が広かった。豪放磊落というか、気分屋かも知れないが、義侠心、男気もあった。
私は、何であの時に泣かなかったのだろう。カッコばっかり付けて、クールな、硬派でバンカラな、応援団員の様な自分を決め込んでいた。だから、当時の思い出が余り残っていない。友人たちと肩をたたき合い、互いに涙を拭いて慰め合ったり、励まし合ったりした事もついぞは無かった。灰色に帯びた、受験受験就職の、悲しい、虚しい青春時代であった。
まるでシンガーソングライター歌手、東大卒銀行員勤めの二足の草鞋を履いた小椋佳の「しおさいの詩」に出てくる、歌の内容が今の偽らざる私の心境である。勉強ばっかりで、世間一般の、人並みの男女間の純粋な恋愛もしてみたかったし、お友達付き合いですら、親友すら余りいず、出来なかった。
本当に、青春時代を不意に、無為に過ごしてしまった後悔たるや、尋常ならざる、これが平常心で居られようか、という程の悔いがある。
だから、という訳でもないが、今は今を一生懸命に生きて、この一身を、心も体も焼かれて完全燃焼し尽くす覚悟で生きている。あの時の後悔があるから、今の私がある。その覚悟で、今日の今を生きていく、正に生きて生き抜く私が、ここに居る。