この「ブッダのことば」スッタニパータ(中村元訳)は、おそらくは、後期の最大級の最高峰の大仏典、法華経とは又趣きが違い、初期仏典の、小乗教の部類に属する仏典、書物、著作なのだろうが、読んでいると、心が非常に和み、落ち着くのだ。
何も、日蓮正宗では、法華経(妙法蓮華経)ばかりを重んじるのではなく、法華折伏、破権門理(はごんもんり)が成立した後は、小乗教も、爾前権教(にぜんごんきょう)も、全てが法華経、即ち、大聖人様の仏法に基づき、全てが帰りゆき、許され、含まれる、という、八万宝蔵の大仏法の全てを正宗の御教えに包含して止まない、一切経(一切法)・世間法が全て、大元の、大仏法、即ち、法華経、即ち、大御本尊様、各家庭の御本尊様、に帰属するんだ、と言う、そこまで敷衍(ふえん)してゆく御教えが、大仏法・大仏教哲学が、日蓮正宗の懐の深さが伺(うかが)われる我が法門なのである。
御釈迦様、釈尊が説かれた仏教仏法が、語り口が優しく、極めて平明に、単純明快に、簡単穏便に書かれてあり、誰でも、誰をも惹き付けて止まない魅力がある。
この本を、私は、以前、母と共に我が家で暮らしていた時に、その頃は、キリスト教のキリスト番組を聴いたり見たり、家では、聖書を読んでいた時に、並行して、試しにこの「ブッダのことば」中村元訳を読んでみて母に聞かせた事がある。
すると、お母さんは、こっちの方が良い、安心して聞きやすい、と言う。何か、キリスト教の方は、何かにつけ、こじ付け、暴力的と言うか、押し付けがましく、極めて暗示的であり、暗く、ああしろ、こうしろ、こうしなさい、ああしなさい、と言ってばかりいる、と嫌っていた。
今から考えると、母なりの、私ら親子自身の心の平安を保つ術を持った、自然の発露、心の防衛反応だったのかも知れない。子供・息子の私が、その、キリストの害悪の教えに毒されつつあったのを、母なりに、とても心配していたのかも知れない。
教えの程度が、キリストの方が極めて低すぎる、とも言っていた。キリスト教の戒律重視、というか、人間の義務感ばかりが重視、尊重され過ぎ、全く自由が無かった。
人間が、何か、神の奴隷、神の僕がイエス・キリストであり、それに我ら全人類も従え、という、人類皆奴隷の、本当に救われない宗教が、キリスト教であった。
それに比べて、特にキリスト教の聖書を読んでいると、何か非常に暗く、暗鬱で、陰鬱で、陰気な気分に必ず支配されていた只でさえ暗かった当時の私が、この「ブッダのことば」一冊を読んでいる時には、その時だけは、一切が朗らかな自由に支配され、自由な自分の裁量に任せて、自分なりの人生を歩める快活な明るい希望に満ちた気分に唯一なれるような気がした書物なのである。
それから、私は、そのキリストを潔く辞めたものの、又もや、今度は創価学会に、座談会・新聞等は全く行かず取らなかったものの、個人的な内的信仰をその後、十数年?位は続けただろうか。学会地区の担当員が持って来た、自動的にうちのポストに入れてゆく、池田センセー出演の、同時衛星中継の切符だけが、学会との唯一の絆、便りであり、これに血道を上げて、母の運転する車で母と一緒に、学会の文化会館まで、夜中が多かったが、切符を持って、同中を見に行った。
そこでは、文化会館の映像では、勝手気ままに、池田センセーをこれ見よがしに宣揚ばかりしていて、正に池田教・個人崇拝であり、今から考えると、しょうもない、見るに耐えない、何が池田センセーなんだ、そんなに偉いんならば、もっと会員に、奉仕というものをしろよ、えばるな、サービスが足りないんじゃないのか、自分ばっかりえばってて、という不満感ばかりが未だに募ってしょうがない。
以上。よしなに。wainai