或る、私たちの歌会に属する男性の、公民館事務所に置いて行った、短歌の一首から。
ホームから見送らる我感激に言葉たらずで手を振るのみか
先生:時間軸を感じ取れるのか?
「ホーム」?
実際に作者に聞くと、中学を卒業して、集団就職した時の歌。(本人談)
生徒さん:「感激に」と直接的具体的に過ぎる、そう述べてよいのか。
「ホームから」「から」は格助詞(主語を表す)古典では「より」。通過点にも使う。「より」の方が多い。
先生:「意味としては分かるが、言葉が足りない。」
生徒さん:「言葉たらず」とは本当は言わない。
『言葉にはならずに』「ず」助動詞。
「で」この場合、現代語風。古語古典的には、活用語につくと、~しないで。
活用の未然形につく。
「で」接続助詞。格助詞の場合もある。すると、「言葉たらずにならないで」となる
ex.おおつき公民館「で」歌会を催す。
格助詞「で」(場所・事情・状態・手段・原因・理由)を示す。体言(名詞)に付けば(付く場合)「格助詞」。
先生:「感激に」が嫌ならば「胸に来し」で切る方法。斎藤茂吉の場合。三句切れ。下の句を敢えて字余りにすると見映えが良くなる。
「見送らる」の「る」。
「る」は、「可能、~できる」「受け身」「尊敬語、~なさる」
この歌は本来は、「見送らるる」が正しい。
受け身の助動詞。送る+「る」。
「手を振る」(四)、「のみか」(三)。「四三調」吾は行きたり⇒行きたり吾は。
「斎藤茂吉式短歌」⇒(しまりが良くなる)
小夜中に風寒けれや筆をもつ吾が身近くにストーブを寄す
小夜中(さよなか)=真夜中。午前〇時前後。
真冬。「風寒けれや」。「や」。二句切れ。係助詞。ここで切っちゃって、三句以降に、自分の感情をつづる。「寒かったなあ」という自分の状況を出す。
「ば」にした場合、結句に施しが必要。
「終句・結句」最後にもって来て有効なのは、「けり」「ぬ」。
「寄す」を「寄せた」の場合は「寄せり」となる。
せけり(詠嘆)。
短歌で「けり」は100%詠嘆を表す。過去形は無いと思って下さい。(先生)
「寄せけり」の場合、直前の「を」を省くこと。「ストーブ寄せけり」。
先生:結句の終わり方。理屈で言えば、状態だけ歌っている。
「風寒けれや」の「や」。「ば」という方法。「ば」=「ので」。
斎藤茂吉「雪を照らせり」(結句)。
やうやくに気付きてくれぬ餌台に名の知らぬ鳥コメを啄ばむ
「やうやく」作者の気持ち、を表す。二句切れにしたのが、「やうやく」で、この歌、一首は「生きた」。『気付きてくれ「ぬ」』。「ぬ」完了・継続。「やうやく」が感動を表す「外的」自然に(そうなった)。
固有名詞「コメ」と『具体的に』入れたのが良かった。
この場合「ぬ」を、「つ」にすると、意識的に(何かをした)。という時に使われる。「内的」の場合。
斎藤茂吉の一首。蔵王にて詠んだ歌。
雪降りて(途中の句、私が失念、済みません)光に今朝は照らされてゐる
無心なる心いづこにわすれ来て欲が芽を出すキャンバスの中
先生談:四句まで読むと、えっ?何だ?となる。
最初は宝くじでも買ったのかな、となるが、最後の結句で、あっ!となる。
「短歌」の世界も、絵の世界も、皆同じ。
「欲が芽を出す」これを言わずに、そう思わせるのが大事。
「絵」「短歌」の中に、それを感じさせるのが大事。
歌の形としてはわかる。「短歌」も、最初には、数を多く作る事が大事。
先生・生徒さん:下手にいじったり、変えなくても良い。バラバラになってしまう。
私の一首。
大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人我は知るなり
生徒さん:斬新である。
先生:こういう新傾向の短歌も、これからは出て来るのだろう。
生徒さんは、「風吹く強き町」の、ここは、文法的にもあっていいのか、と先生に質問すると、合っていいのだ、との答え。
「風吹く強き町」は、桜咲く見ゆ(終止形、ここで止まっている)。
文法的にあり。(多分、強めている)。
「大槻は」の「は」主語を表さず、強調を表す。主語を説明する、接続詞。
「我は」も強調。
「町にして」=「に」「して」。二つ合わさった語句。『に』=「なり」。
「に」は「なり」の連用形+「して」接続助詞。「ので」「時間」を表す言葉。
~の時に。~で。4才の時に。5才で。⇒現代語とは違う所。
※後でショートメールで先生と打ち合わせをして、「にして」を「旺文社古語辞典」で調べると、第一義に「場所」とあり、~にあって、~において、~で、とあり、その次の意味に時間が来る、と私が述べると、○○さん(私)の言う事は分かっていたので、短歌雑誌にはそのまま載せた。ただ、字余りだが「人」に「を」を入れさせてもらった、との返答を頂き、双方、了承し、次回もこの歌を議題にのせる風な事を承った。
改めて。
大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人を我は知るなり
※短歌の感動は、「一つに絞る」
単純化。
主題は一つ。
「これだ!!」と。
改作。これは採用はされない、一時的な歌。
大槻町は吹く風強くして 屋根飛ばされし人を知る
先生:古典はむつかしい。現代語とは違う性質を持つ。
結局、時間切れで、私の一首は、答えの出ないまま、ジ・エンドを迎えた。(これは解消解決した)。
その後の私は、コンビニでおにぎり、飲み物を調達して、私の菩提寺、お寺の、日蓮正宗無量山寿海寺へと、一目散に向かったのである。
それは、本日は、私は一地区在住だが、二・三地区の、お寺主催の、座談会があったからである。私は今年あたりから、数か月おきに開催されるその会合に、欠かさずに参詣していた関係上、今日も、末席を汚し、参加をさせて頂いたのである。
本日のテーマは、「日蓮大聖人の信心と奇跡について」というもので、皆、思い思いで、自身の体験を語り合った。
私は、何故か、キリスト教が、それら、「奇跡」の専売特許のような受け取り方をするキリスト教徒が多いが、何も、キリストだけが、「奇跡」がある訳じゃない。
仏教、仏典にだって、奇跡は取り上げられ、何と言っても、大聖人様の、日本国相模の国での、「竜の口の法難」での、「発迹顕本」の基ともなった、江の島の西側方面からの、光り物による、大聖人様が、侍たちに、刀で斬られる瞬間、守護された事実から言っても、凄い守護にあらせられた宗教としての、実感ある、現実的な御利益、功徳から言っても、「奇跡」がその時、竜の口の首の座で起こった事を、正にクライマックスを、私は強調した。
そうして、そんな凄い宗教が、日蓮正宗の持ち味、醍醐味なんだと。
尚、今回の如くの、一人一人、体験談を話す座談会も良かったが、今度からは、「質問会」形式による、皆が疑問に思い、質問してみたい事を、聞いてみる会にしたらどうか、との貴重なる意見が多数、現場の今日の会合には、寄せられていた事をも、ここに附したい。
以上。よしなに。wainai