キリスト教には、月に全収入の十分の一を神のものとして教会に差し出す什一献金という教えがある。イエス自身も「勿論、什一献金も大事だが」と言い、聖書にも十分の一を捧げる記述があちこちに見られる。
これは、高額所得者よりも低所得者に厳しいものだ。一か月に一千万円の収入の人が百万円払うのと、十万円収入のある人が一万円差し出すのと、重みが違う。一千万の人は残り九百万円残るが、十万の人は九万円しか残らない。
じわじわと貧乏な人たち程ジリ貧、苦しい家計となる。
神の言いつけだからといって、こんな無法な話はない。日蓮正宗ですら、月に一度、会費として一世帯、月に千円。これは強制じゃなく、機関紙「大白法」「慧妙」の二部の新聞代も含まれる。月に一回程度、ご供養がお寺ではお気持ちで結構です、と千円二千円でも気持ちで払う位で、勿論自由で、払わない人もいるし、強制されてはいない。日蓮正宗はお金に汚くなく、スマートなのだ。
キリスト教は、天国に死後行けるとばかり、天に宝を積むの甘言でえげつなく金を集め、その什一献金の呪縛たるや、如何ともし難い。
正に守銭奴宗教の面目躍如だ。金集めのシステムが、キリスト教程徹底したものはない。
ここにも、キリスト教の傲慢、限界が見えるのである。