2004年進め海外へ第一弾
2004年1月5日、巷は正月明けのその日、僕は堺の嫁さんの実家を午前七時に出発し、南海電鉄関西空港行特急ラピートに乗り込んだ。今回の出張は、東南アジアよりヨーロッパまで同時に行ってしまおうという今までに経験した事のないスケジュールでの決行となった。
急な航空券手配にて、恐ろしく混んでいるこの時期のフライトの中、僕はどうにか香港経由でバンコクへ入る往復チケットを手にしていた。バンコク以降のフライトは、バンコクに住む親友サミーに既に依頼済みである。
今回はまた、大阪に住む竹馬の友である藤井とその家族もこの日、バンコクへ家族旅行でやってくることになっており、久し振りに高揚している自分自身がわかった。
関空に着き、僕の出発約一時間後の直行便に乗る藤井の携帯へ電話を入れると、
「コップンクラップ!」との浮ついた声。彼の心中はすでにタイに入国している様であった。
現地時間の午後七時に僕の今回の滞在先であるスクインビット通り、アンバサダーホテルのロビーにて待ち合わせる事を確認し、僕はすたすたと香港行のキャセイ航空に乗り込んだ。
香港の空港では、わずか一時間のトランジットにて、入国し久し振りにその街の空気を肌で味わう事は出来なかったが、数年前に移転新築されたこの空港は、関空に負けないくらいきれいであった。
やはり中国である。
ゲートの行き先表示は漢字であった。ちなみにバンコクは「曼谷」と書かれてあった。読めない事もない。
一路、香港よりバンコクへ。約三時間のフライトである。少しずつ暑い国、暑い国へと向かっている。出国の際に着ていた冬のスーツ、カシミアのコート、マフラーがひどく邪魔になってきている。到着したバンコクは35℃であった。
さて、いつもの場所で、いつもの通り両替をし、するりと乗り込もうとしたタクシー乗り場には、なんと長蛇の列ができているではないか。これまで数多く、やって来たこの空港だが、こんなのは初めてである。念のため、そこに並んでいる西欧人らしきオジサンに聞いてみると、やはりタクシー待ちの列であった。
暑い中、タクシーを待つ事30分程。背中に汗が伝うのがわかる。気候の変化に体も驚いているようだ。
相変わらずのオンボロタクシーに乗り込み、どうにかこうにかアンバサダーホテルへチェックインした。するとフロントより「メッセージが届いています」と封筒を渡された。何かと思い、開けてみると、それは二日程前にここに滞在していたサラリーマン時代の同僚、久米とその彼女からのメッセージであった。
封筒には20バーツ紙幣(60円相当)と伴に、
「あけましておめでとう。これで美味い物でも食べてください。よい仕事が出来ますように!」
と書かれた見覚えある久米の字のメッセージが入っていた。そしてなぜかホモ専用のマッサージサロンのチラシが同封されていた。
この計らいにはフロント前で一人笑ってしまった。フロントマンは怪訝そうな顔をして僕を見ていた。
その日の夜のタイ料理はとても満足できるものであった。藤井と嫁さん、チビ1号、まだ赤ん坊の2号、サミー、サミーの嫁さんのリンゴ、そして僕達が出向いたのは、アンバサダーホテルの真正面に新しく出来たばかりのタイレストランであった。
こちらの仏教徒は牛肉を食べない。そんなサミーとリンゴに合わせオーダーをした。勿論、例のトムヤムクンと春雨の辛いサラダは忘れずに頼んだ。望んでいた通りの夕食だ。
サミーとリンゴに感謝、感謝である。
その後、女・子供をホテルへ戻し帰し、男たちはタニヤ通りのナイトクラブへ出陣したのであった。
しかし、さすがに時差と疲れで、眠くてたまらず短い時間で退陣し、午前零時にはすでに夢の中にいたのであった。
何故か翌朝は午前六時半に自然と目が醒めた。二度寝しようと試みたが寝れそうにないので、そのままシャワーを浴びて起きてしまうことにした。
午前七時、朝食を取りにホテルのレストランへ向かう。酒にやられた胃袋へは、ビュッフェのお粥がとても良いのであった。
仕入先へ向かうため、午前八時半にホテルを出発し、スカイトレインに乗るべく、ナナ駅へ向かった。
この時間は、会社勤めの人々が多い時間である。OL達が、雑誌や新聞を手に職場に向かっている。昔はバンコクでは見られなかった光景である。
プラットホームにぽつりと立っていると、スーツ姿のかなり美形の女性が、向こうから歩いてくるのに目が止まってしまった。相手も僕から目を離さない。
その間、数秒。
僕は気に入られたのだろうか。
僕から付かず離れず、列車の中でも半径2メートルの距離でちらちらとこちらを意識しているのがわかる。サイヤム駅で乗り換えた列車でもそうである。
タイ女性から声をかけてくる事はまずありえないと知っていたので、僕から声をかけようかとも思ったのだが、いやいや自分はそんなことをしている立場ではないと思い思い、少し残念だがあきらめる事にしてその場から離れた。
そんな浮いた出来事も、仕事に入るとあっという間に忘れて、ガンガンと仕入れに力を注いだのであった。
午後二時以降はホテルへ戻り、タイに住む昔からの友人達に電話し、近況を伝え合った。
同じ業界の友人であるボラサクは、彼女とうまくいっていないとの事。日商岩井に勤めるピムへは、短期滞在にて、挨拶できない非礼を詫びた。みんな揃って良い声をしていることがわかり、元気そうで何よりであった。
その後、出発前より楽しみにしていたタイマッサージへ、Tシャツと短パン、サミーにもらったサンダルで出かけた。久し振りのタイマッサージは、一時間400バーツ(1200円)。これは充分にその価値があるものであった。
そして夜は日本でも有名なレストラン「コカ」へタイスキを食べに行った。ここのタイスキの特徴は、なんとタイスキのスープに、トムヤンクンを使ってしまうというアイディアなのである。そしてこれがまた驚くほど美味いのである。至極の時である。辛い。美味い。ビールが進む。笑顔が絶えない。
やはり、この晩も男どもは飲みにいき、午前零時頃には部屋に戻ったのだが、僕は何故かとても飲み足らず、眠れそうにないので、一人初めて、ナナ・プラザというホテル近場の、そしてかなり怪しめの飲み屋街へ足を運んだのであった。そこはやはりやばかった。店に入ると、真中にステージがあり、そこではビキニ姿の女の子達がくねくねと踊っていた。それを見ながらビールをグビグビと飲んでいると、ビキニ娘の一人が、勝手に膝の上に座って話し掛けてくるのである。無視しつづけると、しばらくして行ってしまうが、すぐ違うビキニ娘がやってきて、勝手に膝に腰掛ける。それの繰り返しである。
隣り合わせたダイスケという日本人と親しくなり、しばらく一緒に飲んだ。そして彼より、ゴーゴーバーの「いろは」を伝授してもらった。僕は結局、この危険な香りする喧騒に身を任せ、午前二時頃まで一人酒を飲んでいた。
翌朝も午前八時にはすでに一人、レストランで朝食を食べていた。早起きは三文の得なのだ。
今日は午前九時に新規仕入元メーカーの車が僕を迎えに来る事になっていた。ロビーにてスーツ姿で待つ僕の方へ、向こうから藤井家族がやってきた。今日はプールサイドでゆっくりするとの事。
「昼に帰ってくるから、屋台に連れて行ってくれへんか?」
僕は藤井に頼んだ。藤井はかつて、カオサン通りといった、いわゆるバンコク長期滞在的ベタベタ的ヒッピー的貧乏旅行のエキスパートなのだ。
そういう点では、僕はかなり「おこちゃま」である。
適当に英語を操るがため、タイ語を学習しようとせずそれに頼ってしまう。それが故、タイ語しか全く通用しない道路に連なる屋台のような所では、まったくの「おこちゃま」になってしまうのである。
仕事の後、少し約束した時間より遅くホテルに戻った僕は、藤井家族はもう食事に行ってしまっただろうと、内心諦めながらもプールに行ってみる事にした。明らかに場違いなスーツ姿でプールサイドに立ち、ぐるりと廻りを見回すと、いたいた!
待っていてくれたのだ。
その三十分後、僕達はホテル付近の一番大きな屋台連なるテントの中にいた。僕は見よう見真似で、隣のテーブルで食べているタイ人の「焼きソバ」らしきお皿を指差し、日本語で頼んだ。「焼きソバ」は20バーツ(約60円)であった。
腹が痛くなればその時はそのときである。
いろいろ頼む。いろいろ食べる。
傾きかけた机には、スパイスがあり、各自がこれで自由に味付けする仕組みになっている。下味はあまり充分でない。置かれているのは、唐辛子、ナンプラー、砂糖、酢といったところだ。タイ料理では、この辛いのと、甘いのと、そして酸っぱいのをガツンと同時に投入してしまうのである。
タイの庶民の中での食事。どれもこれもなかなか旨い。これまでにない経験である。
心底楽しかった。年甲斐もなくはしゃいでしまった。
昼食後、藤井と二人でアンバサダーホテル内にサウナがあるという情報をもとにヘルスセンターへ向かった。
既に暑いバンコクで、更に暑いサウナへ出かけた。入れば5分足らずで汗だく男となった。そしてまた、マッサージをしてもらった。毎日のように揉まれ揉まれて、くねくねタコ化は時間の問題なのだ。
今夜一時のフライトにてヨーロッパ出発である。マッサージの後の柔らかくなった体を自室のベッドに横たえてフーフーと荒い息を吐きながらビールを飲んでいるうちに、小一時間ほど寝てしまっていた。
その夜は、サミーが香港で食べるより旨いと推薦する中華料理レストランへ連れて行ってくれた。
しかし、こいつの舌は大した物である。ハズレがないのである。
「お粥とはスープである」という新たな発見がそこではあった。
サミーに空港まで送ってもらうまでに、少し時間があったので二人で軽く飲もうと一軒のクラブに立寄った。そこは、日本人向けのクラブでありながら、僕の隣に座った娘は英語で僕につぶやいた。
「日本人はきらいです」
日本人に媚びる事しかしないホステス達の中で、この発言には驚いたというより、ある意味、感心してしまった。そして僕は、そういうこの娘の事が少し気に入った。
突然、僕の手を取り、そこにボールペンで字を書きだした。
「 黄 香蓮 」
自分の名前を中国語でそう書くのだと、彼女は言った。
「黄色い蓮が香ると書くのよ」
はにかみながらそう言った。
「色んな人が、色んな所で、色んな風に、生きているんだな」と俺はまた学習したのであった。
サミーの車で送ってもらったバンコク・ドンムアン空港で、急ぎタイ航空にチェックインする際、そのあまりの混雑ぶりに、はたしてちゃんと僕の荷物はスイス・チューリッヒ空港を経由し、ミラノへ届くのだろうかと気になった。チェックインカウンター預けられた荷物があまりにも多いのである。積み上げられた荷物は其々、行き先が違うようである。更には、僕には、チューリッヒでのトランジット時間が四十分しかないのである。
そして、その不安は現実となった。
ミラノ・マルペンサ空港にて、僕のスーツケースが出てくることなく、ガタガタと流れる手荷物搬送ベルトが停まった時、僕はかなり冷静であった。
こういう時こそ、冷静沈着でいなければいけない。
空港の紛失物担当窓口で強くクレームを伝えたのだが、更に悪い事には、その日、空港の職員たちのストライキが始まり、僕が搭乗した便以降のフライトが全て欠航となってしまったようであった。よって僕のスーツケースは行方知らずの尋ね人のようになってしまったのだ。
しかし、どうしてこういう状況になっても、西欧人は偉そうに振舞うのであろうか。僕はこれまで数限りなく様々な海外の空港へ訪れているのだが、このマルペンサ空港の職員やインスペクターの態度の悪さにはあきれかえるばかりである。いつもそう思うのである。今回もひどく癪に障ったが、こちらは自分を抑え、紳士的に紳士的に振舞った。
僕は仕方がないので取り敢えず、スーツケースなしの日本での普段の営業のような姿にて、いつもの通り、シャトルバスでミラノ中央駅に出て、そこからタクシーに乗り継ぎ、仕入元メーカーへ出向いた。仕事は止められないのだ。しかしスーツケースを持たずに入国するのはなんとも心細い感じである。
そしてその後、ドゥオモ広場の横にある百貨店・リナシャンテにて、その日のパンツとシャツと靴下を、トリノ通りにあるスーパーマーケットにて、ハブラシとヘアームースとブラシを求めた。
なんかドーンと疲れてしまったようである。
仕入元社長であるアントニオよりの夕食の誘いも丁重に断り、一人、これまでのミラノ訪問初日の鉄則となっている中華レストラン「東方飯店」へ行き、そこでの更なる決まり事と頑なに決めているマーボー豆腐とチャーハンにハイネケンビールの大瓶を頼み、そそくさと無言のまま胃に収め、そそくさと部屋に戻ったのであった。
しかし夏のスーツでこの寒さは辛い。喉が痛い。風邪をひいたかもしれない。
この時期の朝夕、ミラノは霧の都と呼ばれるにふさわしく、街には真っ白く靄がかかる。25メートル前は何も見えない。凍てついた空気の中、背中を丸め歩く人々の口から漏れるその白い息がそれを作っているのだろうかとふと思った。
まだ夜明け前の午前八時半、部屋の窓から見えるセピア色の街並をカメラに収めた。
この冷たい感じがフィルムに落とし込めるであろうか・・・。
今日も朝よりバリバリと商談をこなした。
この日の昼は、イタリアンビールでトマトソースのパスタを食べた。やはり本場のイタリアンだ。とても旨い。これだけで辛いスーツケース紛失も暫くの間、忘れる事の出来る僕は、なんと単純なのであろう。
この歴史ある街並は、その石畳だけですら圧巻である。お洒落な人々がそこを闊歩する。その歩く速度は、バンコクの人々よりかなり速く、リズミカルな気がする。ほとんどのショッピングウィンドウには、「SALDI」や、「SCONTO 50%」といった表示がかけられている。普段より賑やかに感じるのはセールの時期のせいであろうか。
その日の遅い午後、一人旅をしてきた我がスーツケースとようやく再会した。部屋の冷蔵庫よりビールを抜いて、スーツケースより何故か恐ろしく冷たくなっている「柿の種」を取り出して祝福の乾杯をする。このスーツケースはずっと寒い場所に置かれていたようである。よしよし、この部屋で温まりなさい。
取引先のコンピューターを借りてバンコクのサミーへ文句メールを打った。
「お前が取ってくれたフライトは、俺が心配した通りトランジットの時間が充分でなかったために、スーツケースが勝手に一人旅をした。こんな調子では、帰りのフライトも心配だ」
しばらくすると、サミーから返信が届いた。
「そいつは悪い事をしたね。ただ、帰りは例えスーツケースをまた失っても大丈夫だよ。バンコクは暑いから重い荷物はいらないよ。気にしないで」
ふざけた野郎である。
ナオミ・キャンベルが愛用する我が仕入元の世界限定40本のダイヤモンドネックレスを購入した。うちには生憎、ナオミ・キャンベルのようなスタイルの顧客はいそうにないが、これはこれできっと良いプロパガンダになるはずであろう。
その夜は、アントニオに連れられ、モンテ・ナポレオーネ通りにあるピッツァリア「ペパームーン」へ食事に出かけた。ここは日本人にも勿論そうだが、現地のイタリア人にもとても人気があるのだ。
この店での僕の定番は、「スパゲティ・ボンゴレ」と「ローストビーフのスピナッチ和え」である。
やっぱり旨い。この上なく本場イタリアンなのである。
アントニオとの食事中、イラクへの日本の自衛隊派遣の話題となった。
「日本もどうやらイラクへの自衛隊派遣する事を決めたようだな。驚いたよ」
「そういうイタリアは先導を切って派遣したよね。確か年末に爆撃テロで結構のイタリア人が亡くなったんだよね。それでも未だに国民は派遣継続を支持してるのか?」
僕は、同じ事が起これば、間違いなくパニックを起こすであろう日本を思いながら聞いてみた。
「みんな賛成してるよ。これまでイタリアはこの手の事態には、常に他の国の後ろに隠れて意見せずだったからね。このような形で国際的貢献が出来る事は、我らとしてのプライドの一つだよ」
僕は返す言葉がみつからなかった。
夜道、気温が氷点下になったであろう事を肌でひしひしと感じた。
部屋に戻り、ミラノに住む友人、ニコラへ電話するが繋がらなかった。
翌朝、まだ充分に夜と呼ぶに相応しい午前六時半、僕はミラノ中央駅のバーで人々に混じりカプチーノを飲んでいた。これからユーロスターでフィレンツェに向かうのだ。フィレンツェへはいつも日帰りなのである。
フィレンツェでは、彫金師として非常に名高いジョバンニに日本から持参したエメラルドやオパール、トルマリンといった裸石を預けて、次回の訪問までにアンティーク調のハンドメイドジュエリーを製作依頼する。そして、裏通りだが、密かに素晴らしいアンティーク物を所有する内緒のカメオ屋にて、象牙やトルコ石、珊瑚、宝石のアンティークカメオを探求するというのが、今回の主目的なのである。
これらのカメオの一部は、帰路、バンコクの仕入元に預け、その枠(フレーム)を作らせる。また一部は、改め来月、スリランカへ持ち込み、様々な宝石取り巻くデコラティブなブローチを作ろうという魂胆なのである。
話は変わるが、僕はミラノとフィレンツェ間の車窓からの風景がとても好きだ。
ただただ広い平原や畑に、ポツポツと立ち並ぶレンガ作りの家々をすり抜けて、ひたすら真っ直ぐ列車は走るのである。冬の葉のない背の高い木々は、きちんと等間隔で灰色の空に向かって突っ立っている。白樺の木のようだ。全てはモノクロの世界に近い。ぼんやりと靄がかかっている。
車内にてサービスされた熱い紅茶をストレートで飲みながら、暫くは変わる事無きこの風景を見つづける。
「これは海岸に打ちつける波をボンヤリ見ている感覚に近いな」ふと、そう思った。
もうすぐ列車はボローニャに着くであろう。セリエA・中田選手の今年のホームグランドである。
フィレンツェの仕事を、うまくこなす事が出来て肩の荷が下りた僕は、帰りの列車までの間、アルノ川に沿ってしばらく歩いた。
ポンテ・ベッキオ下の川面を、赤いカヤックを漕ぐ白髪の老人が、その静かな水面をアメンボウの様に、とても静かに過ぎて行った。
やはりとても良い街である。出来れば家族で来たいと思いつつ、今年もこの出張中に誕生日を迎える嫁さんへのわずかながらのトリビュートをと思い、革のシステム手帳を購入した。僕は同じブランドの青い革のコインケースが気に入り、それを求めた。
これで予定していたほとんどのイタリアでの仕事を終わらせた事になる。
帰路、向かいの座席に座る女性の顔が、昔、図鑑で見たネアンデルタール人にそっくりで気になって仕方がない。花粉症なのであろうか、ブーブーとよく鼻を噛み、その鼻の下が痛いのか、塗り薬をべっとりと塗りつけているので、夕陽が当たるその辺りはテカテカに輝いているのだ。気にしないでおこうと思うが、取り立ててする事がなく退屈な僕は、そこばかり目がいってしまう。
この女性、うつむき加減で雑誌に目を通していると思っていたが、あまりに動かないのでよくよく見ると、寝ていやがる。
「この手の人は。きっと心優しいタイプがおおい」そう思う事にした。
「はやくミラノに着かないかなぁ」
今、僕はチューリッヒ発バンコク行きの飛行機の中にいる。
帰路、ミラノ・マルペンサ空港よりチューリッヒへ向かう飛行機が遅れ、またスーツケースを失うのではと、内心ひやひやしていたのであるが、ヨーロッパ圏内のコネクションはしっかりしている。僕が二十分遅れた分、チューリッヒからの出発便も連結して遅れてくれたのであった。
ミラノ出発の今日は日曜日という事もあり、全くフリーの一日であった。
頻繁に訪れているこの街故、取り立てて何処に行く、何をするという訳でもなく、朝はホテルのベッドに潜り込んだままゴロゴロと本を読み、日本から持参した「どんべえのきつねうどん」を食べて過ごした。
その後、ウィンドウ・ショッピングをしながら、ぶらぶらと街を散策した。
銀行街の裏手にアンティーク・インテリアで有名なサンタマルタ通りという小道がある。この通りは、かつて僕の親父の大親友であった今は亡きイグナチオ氏が、店を構えていた通りでもある。今でも数件、顔なじみの店があるので訪ねてみたのだが、生憎、日曜日はどの店も閉まっていた。
セール期間中だからか、街を歩く人の多さには驚いた。日曜日ということもあり、家族連れや、若いカップル達、友人グループと道に溢れんばかりである。とても真っ直ぐ歩けない。
今日は家のリビングにとてもよく合いそうな薄い青色のテーブルクロスを発見し、40%引きで購入した。(ところが日本に持ち帰って見ると、それはベッドカバーであった。大失敗!)
今年も我がチビ達にお年玉をくれた兄と弟に、ドゥオモ横のガレリアにてネクタイを買った。
そして、人のネクタイを選ぶという事が如何に難しい事かとつくづく思ったのであった。
今日は珍しく、空が高く、青く澄んでいる。何もなくぶらぶらと行く宛てもなく異国の地を歩くのもたまにはいい。行き先、目的をもって歩くよりも当然歩調は遅くなり、自ずと周囲を観察できるようになる。人間ウォッチングもできる。
さて、あと三時間でバンコク到着だ。最後の仕事が待っている。飛行機は今、デカン高原にあるインド随一の宝石発掘の街・ジャイプールの上空を飛んでいる。いつかここへも来る事があろう。
今回の旅の最終日、最終地・バンコクはこの時期、ありえない大雨であった。それも普通の雨ではなく、通りが洪水状態で、走る車のタイヤの半分ほどは水に浸かってしまうほどなのだ。一般的に熱帯地域のスコールはざっと降り、パッと止むのであるが、まったく降りつづけるばかりなのである。
午後八時にサミーと落ち合い、俺の強い希望で、また辛い辛いタイ料理の最後の晩餐を楽しんだ。そして最後の晩は、この旅で一番沢山酒を飲み、ライブハウスのような所で泥酔した。
何回乾杯したであろうか。
「異国の地で、こんなに我を失うまで酔っていいのか」というぐらい飲んだのであった。
翌朝九時半に空港にいなければいけない僕が、誰かの間違い電話(大感謝!)により目を覚ましたのは午前十時。
一瞬、目の前が真っ白になり、全ての思考回路が止まった。
こんなに焦ったのは久し振りである。その五分後にはチェックアウトを済ませ、タクシードライバーに酒臭い息で叫んでいた。
「頼むから飛ばしてくれ!その分、倍払うから!」
オンボロタクシーは唸りながら、時速150キロ程の速さ(メーターが壊れていたので定かでないが・・・)で、高速を走ったのであった。
そして今、僕は香港から関空へ向かう最後の機内にいる。
ほぼ一週間の旅であったが、なかなか色々と心に残る旅であった。
辛い辛いと思っていた海外出張も本人の捕らえ方でそれは素晴らしく愉快なものに変わることがわかった。
明日からの日本でも目一杯頑張ろうと思う。辛いときは捕らえ方を変えてみようと思う。
香港の空港で、可愛いピンクの腕時計を二つ買った。
今夜、僕が帰宅する頃、奴らは既に寝ているはずだ。そっと枕元に置いておこう。明朝の喜ぶ顔が楽しみである。
最後に、今回の旅で接した全ての人々へ、その屈託なき笑顔に、
「 乾杯! 」
完
2004年1月5日、巷は正月明けのその日、僕は堺の嫁さんの実家を午前七時に出発し、南海電鉄関西空港行特急ラピートに乗り込んだ。今回の出張は、東南アジアよりヨーロッパまで同時に行ってしまおうという今までに経験した事のないスケジュールでの決行となった。
急な航空券手配にて、恐ろしく混んでいるこの時期のフライトの中、僕はどうにか香港経由でバンコクへ入る往復チケットを手にしていた。バンコク以降のフライトは、バンコクに住む親友サミーに既に依頼済みである。
今回はまた、大阪に住む竹馬の友である藤井とその家族もこの日、バンコクへ家族旅行でやってくることになっており、久し振りに高揚している自分自身がわかった。
関空に着き、僕の出発約一時間後の直行便に乗る藤井の携帯へ電話を入れると、
「コップンクラップ!」との浮ついた声。彼の心中はすでにタイに入国している様であった。
現地時間の午後七時に僕の今回の滞在先であるスクインビット通り、アンバサダーホテルのロビーにて待ち合わせる事を確認し、僕はすたすたと香港行のキャセイ航空に乗り込んだ。
香港の空港では、わずか一時間のトランジットにて、入国し久し振りにその街の空気を肌で味わう事は出来なかったが、数年前に移転新築されたこの空港は、関空に負けないくらいきれいであった。
やはり中国である。
ゲートの行き先表示は漢字であった。ちなみにバンコクは「曼谷」と書かれてあった。読めない事もない。
一路、香港よりバンコクへ。約三時間のフライトである。少しずつ暑い国、暑い国へと向かっている。出国の際に着ていた冬のスーツ、カシミアのコート、マフラーがひどく邪魔になってきている。到着したバンコクは35℃であった。
さて、いつもの場所で、いつもの通り両替をし、するりと乗り込もうとしたタクシー乗り場には、なんと長蛇の列ができているではないか。これまで数多く、やって来たこの空港だが、こんなのは初めてである。念のため、そこに並んでいる西欧人らしきオジサンに聞いてみると、やはりタクシー待ちの列であった。
暑い中、タクシーを待つ事30分程。背中に汗が伝うのがわかる。気候の変化に体も驚いているようだ。
相変わらずのオンボロタクシーに乗り込み、どうにかこうにかアンバサダーホテルへチェックインした。するとフロントより「メッセージが届いています」と封筒を渡された。何かと思い、開けてみると、それは二日程前にここに滞在していたサラリーマン時代の同僚、久米とその彼女からのメッセージであった。
封筒には20バーツ紙幣(60円相当)と伴に、
「あけましておめでとう。これで美味い物でも食べてください。よい仕事が出来ますように!」
と書かれた見覚えある久米の字のメッセージが入っていた。そしてなぜかホモ専用のマッサージサロンのチラシが同封されていた。
この計らいにはフロント前で一人笑ってしまった。フロントマンは怪訝そうな顔をして僕を見ていた。
その日の夜のタイ料理はとても満足できるものであった。藤井と嫁さん、チビ1号、まだ赤ん坊の2号、サミー、サミーの嫁さんのリンゴ、そして僕達が出向いたのは、アンバサダーホテルの真正面に新しく出来たばかりのタイレストランであった。
こちらの仏教徒は牛肉を食べない。そんなサミーとリンゴに合わせオーダーをした。勿論、例のトムヤムクンと春雨の辛いサラダは忘れずに頼んだ。望んでいた通りの夕食だ。
サミーとリンゴに感謝、感謝である。
その後、女・子供をホテルへ戻し帰し、男たちはタニヤ通りのナイトクラブへ出陣したのであった。
しかし、さすがに時差と疲れで、眠くてたまらず短い時間で退陣し、午前零時にはすでに夢の中にいたのであった。
何故か翌朝は午前六時半に自然と目が醒めた。二度寝しようと試みたが寝れそうにないので、そのままシャワーを浴びて起きてしまうことにした。
午前七時、朝食を取りにホテルのレストランへ向かう。酒にやられた胃袋へは、ビュッフェのお粥がとても良いのであった。
仕入先へ向かうため、午前八時半にホテルを出発し、スカイトレインに乗るべく、ナナ駅へ向かった。
この時間は、会社勤めの人々が多い時間である。OL達が、雑誌や新聞を手に職場に向かっている。昔はバンコクでは見られなかった光景である。
プラットホームにぽつりと立っていると、スーツ姿のかなり美形の女性が、向こうから歩いてくるのに目が止まってしまった。相手も僕から目を離さない。
その間、数秒。
僕は気に入られたのだろうか。
僕から付かず離れず、列車の中でも半径2メートルの距離でちらちらとこちらを意識しているのがわかる。サイヤム駅で乗り換えた列車でもそうである。
タイ女性から声をかけてくる事はまずありえないと知っていたので、僕から声をかけようかとも思ったのだが、いやいや自分はそんなことをしている立場ではないと思い思い、少し残念だがあきらめる事にしてその場から離れた。
そんな浮いた出来事も、仕事に入るとあっという間に忘れて、ガンガンと仕入れに力を注いだのであった。
午後二時以降はホテルへ戻り、タイに住む昔からの友人達に電話し、近況を伝え合った。
同じ業界の友人であるボラサクは、彼女とうまくいっていないとの事。日商岩井に勤めるピムへは、短期滞在にて、挨拶できない非礼を詫びた。みんな揃って良い声をしていることがわかり、元気そうで何よりであった。
その後、出発前より楽しみにしていたタイマッサージへ、Tシャツと短パン、サミーにもらったサンダルで出かけた。久し振りのタイマッサージは、一時間400バーツ(1200円)。これは充分にその価値があるものであった。
そして夜は日本でも有名なレストラン「コカ」へタイスキを食べに行った。ここのタイスキの特徴は、なんとタイスキのスープに、トムヤンクンを使ってしまうというアイディアなのである。そしてこれがまた驚くほど美味いのである。至極の時である。辛い。美味い。ビールが進む。笑顔が絶えない。
やはり、この晩も男どもは飲みにいき、午前零時頃には部屋に戻ったのだが、僕は何故かとても飲み足らず、眠れそうにないので、一人初めて、ナナ・プラザというホテル近場の、そしてかなり怪しめの飲み屋街へ足を運んだのであった。そこはやはりやばかった。店に入ると、真中にステージがあり、そこではビキニ姿の女の子達がくねくねと踊っていた。それを見ながらビールをグビグビと飲んでいると、ビキニ娘の一人が、勝手に膝の上に座って話し掛けてくるのである。無視しつづけると、しばらくして行ってしまうが、すぐ違うビキニ娘がやってきて、勝手に膝に腰掛ける。それの繰り返しである。
隣り合わせたダイスケという日本人と親しくなり、しばらく一緒に飲んだ。そして彼より、ゴーゴーバーの「いろは」を伝授してもらった。僕は結局、この危険な香りする喧騒に身を任せ、午前二時頃まで一人酒を飲んでいた。
翌朝も午前八時にはすでに一人、レストランで朝食を食べていた。早起きは三文の得なのだ。
今日は午前九時に新規仕入元メーカーの車が僕を迎えに来る事になっていた。ロビーにてスーツ姿で待つ僕の方へ、向こうから藤井家族がやってきた。今日はプールサイドでゆっくりするとの事。
「昼に帰ってくるから、屋台に連れて行ってくれへんか?」
僕は藤井に頼んだ。藤井はかつて、カオサン通りといった、いわゆるバンコク長期滞在的ベタベタ的ヒッピー的貧乏旅行のエキスパートなのだ。
そういう点では、僕はかなり「おこちゃま」である。
適当に英語を操るがため、タイ語を学習しようとせずそれに頼ってしまう。それが故、タイ語しか全く通用しない道路に連なる屋台のような所では、まったくの「おこちゃま」になってしまうのである。
仕事の後、少し約束した時間より遅くホテルに戻った僕は、藤井家族はもう食事に行ってしまっただろうと、内心諦めながらもプールに行ってみる事にした。明らかに場違いなスーツ姿でプールサイドに立ち、ぐるりと廻りを見回すと、いたいた!
待っていてくれたのだ。
その三十分後、僕達はホテル付近の一番大きな屋台連なるテントの中にいた。僕は見よう見真似で、隣のテーブルで食べているタイ人の「焼きソバ」らしきお皿を指差し、日本語で頼んだ。「焼きソバ」は20バーツ(約60円)であった。
腹が痛くなればその時はそのときである。
いろいろ頼む。いろいろ食べる。
傾きかけた机には、スパイスがあり、各自がこれで自由に味付けする仕組みになっている。下味はあまり充分でない。置かれているのは、唐辛子、ナンプラー、砂糖、酢といったところだ。タイ料理では、この辛いのと、甘いのと、そして酸っぱいのをガツンと同時に投入してしまうのである。
タイの庶民の中での食事。どれもこれもなかなか旨い。これまでにない経験である。
心底楽しかった。年甲斐もなくはしゃいでしまった。
昼食後、藤井と二人でアンバサダーホテル内にサウナがあるという情報をもとにヘルスセンターへ向かった。
既に暑いバンコクで、更に暑いサウナへ出かけた。入れば5分足らずで汗だく男となった。そしてまた、マッサージをしてもらった。毎日のように揉まれ揉まれて、くねくねタコ化は時間の問題なのだ。
今夜一時のフライトにてヨーロッパ出発である。マッサージの後の柔らかくなった体を自室のベッドに横たえてフーフーと荒い息を吐きながらビールを飲んでいるうちに、小一時間ほど寝てしまっていた。
その夜は、サミーが香港で食べるより旨いと推薦する中華料理レストランへ連れて行ってくれた。
しかし、こいつの舌は大した物である。ハズレがないのである。
「お粥とはスープである」という新たな発見がそこではあった。
サミーに空港まで送ってもらうまでに、少し時間があったので二人で軽く飲もうと一軒のクラブに立寄った。そこは、日本人向けのクラブでありながら、僕の隣に座った娘は英語で僕につぶやいた。
「日本人はきらいです」
日本人に媚びる事しかしないホステス達の中で、この発言には驚いたというより、ある意味、感心してしまった。そして僕は、そういうこの娘の事が少し気に入った。
突然、僕の手を取り、そこにボールペンで字を書きだした。
「 黄 香蓮 」
自分の名前を中国語でそう書くのだと、彼女は言った。
「黄色い蓮が香ると書くのよ」
はにかみながらそう言った。
「色んな人が、色んな所で、色んな風に、生きているんだな」と俺はまた学習したのであった。
サミーの車で送ってもらったバンコク・ドンムアン空港で、急ぎタイ航空にチェックインする際、そのあまりの混雑ぶりに、はたしてちゃんと僕の荷物はスイス・チューリッヒ空港を経由し、ミラノへ届くのだろうかと気になった。チェックインカウンター預けられた荷物があまりにも多いのである。積み上げられた荷物は其々、行き先が違うようである。更には、僕には、チューリッヒでのトランジット時間が四十分しかないのである。
そして、その不安は現実となった。
ミラノ・マルペンサ空港にて、僕のスーツケースが出てくることなく、ガタガタと流れる手荷物搬送ベルトが停まった時、僕はかなり冷静であった。
こういう時こそ、冷静沈着でいなければいけない。
空港の紛失物担当窓口で強くクレームを伝えたのだが、更に悪い事には、その日、空港の職員たちのストライキが始まり、僕が搭乗した便以降のフライトが全て欠航となってしまったようであった。よって僕のスーツケースは行方知らずの尋ね人のようになってしまったのだ。
しかし、どうしてこういう状況になっても、西欧人は偉そうに振舞うのであろうか。僕はこれまで数限りなく様々な海外の空港へ訪れているのだが、このマルペンサ空港の職員やインスペクターの態度の悪さにはあきれかえるばかりである。いつもそう思うのである。今回もひどく癪に障ったが、こちらは自分を抑え、紳士的に紳士的に振舞った。
僕は仕方がないので取り敢えず、スーツケースなしの日本での普段の営業のような姿にて、いつもの通り、シャトルバスでミラノ中央駅に出て、そこからタクシーに乗り継ぎ、仕入元メーカーへ出向いた。仕事は止められないのだ。しかしスーツケースを持たずに入国するのはなんとも心細い感じである。
そしてその後、ドゥオモ広場の横にある百貨店・リナシャンテにて、その日のパンツとシャツと靴下を、トリノ通りにあるスーパーマーケットにて、ハブラシとヘアームースとブラシを求めた。
なんかドーンと疲れてしまったようである。
仕入元社長であるアントニオよりの夕食の誘いも丁重に断り、一人、これまでのミラノ訪問初日の鉄則となっている中華レストラン「東方飯店」へ行き、そこでの更なる決まり事と頑なに決めているマーボー豆腐とチャーハンにハイネケンビールの大瓶を頼み、そそくさと無言のまま胃に収め、そそくさと部屋に戻ったのであった。
しかし夏のスーツでこの寒さは辛い。喉が痛い。風邪をひいたかもしれない。
この時期の朝夕、ミラノは霧の都と呼ばれるにふさわしく、街には真っ白く靄がかかる。25メートル前は何も見えない。凍てついた空気の中、背中を丸め歩く人々の口から漏れるその白い息がそれを作っているのだろうかとふと思った。
まだ夜明け前の午前八時半、部屋の窓から見えるセピア色の街並をカメラに収めた。
この冷たい感じがフィルムに落とし込めるであろうか・・・。
今日も朝よりバリバリと商談をこなした。
この日の昼は、イタリアンビールでトマトソースのパスタを食べた。やはり本場のイタリアンだ。とても旨い。これだけで辛いスーツケース紛失も暫くの間、忘れる事の出来る僕は、なんと単純なのであろう。
この歴史ある街並は、その石畳だけですら圧巻である。お洒落な人々がそこを闊歩する。その歩く速度は、バンコクの人々よりかなり速く、リズミカルな気がする。ほとんどのショッピングウィンドウには、「SALDI」や、「SCONTO 50%」といった表示がかけられている。普段より賑やかに感じるのはセールの時期のせいであろうか。
その日の遅い午後、一人旅をしてきた我がスーツケースとようやく再会した。部屋の冷蔵庫よりビールを抜いて、スーツケースより何故か恐ろしく冷たくなっている「柿の種」を取り出して祝福の乾杯をする。このスーツケースはずっと寒い場所に置かれていたようである。よしよし、この部屋で温まりなさい。
取引先のコンピューターを借りてバンコクのサミーへ文句メールを打った。
「お前が取ってくれたフライトは、俺が心配した通りトランジットの時間が充分でなかったために、スーツケースが勝手に一人旅をした。こんな調子では、帰りのフライトも心配だ」
しばらくすると、サミーから返信が届いた。
「そいつは悪い事をしたね。ただ、帰りは例えスーツケースをまた失っても大丈夫だよ。バンコクは暑いから重い荷物はいらないよ。気にしないで」
ふざけた野郎である。
ナオミ・キャンベルが愛用する我が仕入元の世界限定40本のダイヤモンドネックレスを購入した。うちには生憎、ナオミ・キャンベルのようなスタイルの顧客はいそうにないが、これはこれできっと良いプロパガンダになるはずであろう。
その夜は、アントニオに連れられ、モンテ・ナポレオーネ通りにあるピッツァリア「ペパームーン」へ食事に出かけた。ここは日本人にも勿論そうだが、現地のイタリア人にもとても人気があるのだ。
この店での僕の定番は、「スパゲティ・ボンゴレ」と「ローストビーフのスピナッチ和え」である。
やっぱり旨い。この上なく本場イタリアンなのである。
アントニオとの食事中、イラクへの日本の自衛隊派遣の話題となった。
「日本もどうやらイラクへの自衛隊派遣する事を決めたようだな。驚いたよ」
「そういうイタリアは先導を切って派遣したよね。確か年末に爆撃テロで結構のイタリア人が亡くなったんだよね。それでも未だに国民は派遣継続を支持してるのか?」
僕は、同じ事が起これば、間違いなくパニックを起こすであろう日本を思いながら聞いてみた。
「みんな賛成してるよ。これまでイタリアはこの手の事態には、常に他の国の後ろに隠れて意見せずだったからね。このような形で国際的貢献が出来る事は、我らとしてのプライドの一つだよ」
僕は返す言葉がみつからなかった。
夜道、気温が氷点下になったであろう事を肌でひしひしと感じた。
部屋に戻り、ミラノに住む友人、ニコラへ電話するが繋がらなかった。
翌朝、まだ充分に夜と呼ぶに相応しい午前六時半、僕はミラノ中央駅のバーで人々に混じりカプチーノを飲んでいた。これからユーロスターでフィレンツェに向かうのだ。フィレンツェへはいつも日帰りなのである。
フィレンツェでは、彫金師として非常に名高いジョバンニに日本から持参したエメラルドやオパール、トルマリンといった裸石を預けて、次回の訪問までにアンティーク調のハンドメイドジュエリーを製作依頼する。そして、裏通りだが、密かに素晴らしいアンティーク物を所有する内緒のカメオ屋にて、象牙やトルコ石、珊瑚、宝石のアンティークカメオを探求するというのが、今回の主目的なのである。
これらのカメオの一部は、帰路、バンコクの仕入元に預け、その枠(フレーム)を作らせる。また一部は、改め来月、スリランカへ持ち込み、様々な宝石取り巻くデコラティブなブローチを作ろうという魂胆なのである。
話は変わるが、僕はミラノとフィレンツェ間の車窓からの風景がとても好きだ。
ただただ広い平原や畑に、ポツポツと立ち並ぶレンガ作りの家々をすり抜けて、ひたすら真っ直ぐ列車は走るのである。冬の葉のない背の高い木々は、きちんと等間隔で灰色の空に向かって突っ立っている。白樺の木のようだ。全てはモノクロの世界に近い。ぼんやりと靄がかかっている。
車内にてサービスされた熱い紅茶をストレートで飲みながら、暫くは変わる事無きこの風景を見つづける。
「これは海岸に打ちつける波をボンヤリ見ている感覚に近いな」ふと、そう思った。
もうすぐ列車はボローニャに着くであろう。セリエA・中田選手の今年のホームグランドである。
フィレンツェの仕事を、うまくこなす事が出来て肩の荷が下りた僕は、帰りの列車までの間、アルノ川に沿ってしばらく歩いた。
ポンテ・ベッキオ下の川面を、赤いカヤックを漕ぐ白髪の老人が、その静かな水面をアメンボウの様に、とても静かに過ぎて行った。
やはりとても良い街である。出来れば家族で来たいと思いつつ、今年もこの出張中に誕生日を迎える嫁さんへのわずかながらのトリビュートをと思い、革のシステム手帳を購入した。僕は同じブランドの青い革のコインケースが気に入り、それを求めた。
これで予定していたほとんどのイタリアでの仕事を終わらせた事になる。
帰路、向かいの座席に座る女性の顔が、昔、図鑑で見たネアンデルタール人にそっくりで気になって仕方がない。花粉症なのであろうか、ブーブーとよく鼻を噛み、その鼻の下が痛いのか、塗り薬をべっとりと塗りつけているので、夕陽が当たるその辺りはテカテカに輝いているのだ。気にしないでおこうと思うが、取り立ててする事がなく退屈な僕は、そこばかり目がいってしまう。
この女性、うつむき加減で雑誌に目を通していると思っていたが、あまりに動かないのでよくよく見ると、寝ていやがる。
「この手の人は。きっと心優しいタイプがおおい」そう思う事にした。
「はやくミラノに着かないかなぁ」
今、僕はチューリッヒ発バンコク行きの飛行機の中にいる。
帰路、ミラノ・マルペンサ空港よりチューリッヒへ向かう飛行機が遅れ、またスーツケースを失うのではと、内心ひやひやしていたのであるが、ヨーロッパ圏内のコネクションはしっかりしている。僕が二十分遅れた分、チューリッヒからの出発便も連結して遅れてくれたのであった。
ミラノ出発の今日は日曜日という事もあり、全くフリーの一日であった。
頻繁に訪れているこの街故、取り立てて何処に行く、何をするという訳でもなく、朝はホテルのベッドに潜り込んだままゴロゴロと本を読み、日本から持参した「どんべえのきつねうどん」を食べて過ごした。
その後、ウィンドウ・ショッピングをしながら、ぶらぶらと街を散策した。
銀行街の裏手にアンティーク・インテリアで有名なサンタマルタ通りという小道がある。この通りは、かつて僕の親父の大親友であった今は亡きイグナチオ氏が、店を構えていた通りでもある。今でも数件、顔なじみの店があるので訪ねてみたのだが、生憎、日曜日はどの店も閉まっていた。
セール期間中だからか、街を歩く人の多さには驚いた。日曜日ということもあり、家族連れや、若いカップル達、友人グループと道に溢れんばかりである。とても真っ直ぐ歩けない。
今日は家のリビングにとてもよく合いそうな薄い青色のテーブルクロスを発見し、40%引きで購入した。(ところが日本に持ち帰って見ると、それはベッドカバーであった。大失敗!)
今年も我がチビ達にお年玉をくれた兄と弟に、ドゥオモ横のガレリアにてネクタイを買った。
そして、人のネクタイを選ぶという事が如何に難しい事かとつくづく思ったのであった。
今日は珍しく、空が高く、青く澄んでいる。何もなくぶらぶらと行く宛てもなく異国の地を歩くのもたまにはいい。行き先、目的をもって歩くよりも当然歩調は遅くなり、自ずと周囲を観察できるようになる。人間ウォッチングもできる。
さて、あと三時間でバンコク到着だ。最後の仕事が待っている。飛行機は今、デカン高原にあるインド随一の宝石発掘の街・ジャイプールの上空を飛んでいる。いつかここへも来る事があろう。
今回の旅の最終日、最終地・バンコクはこの時期、ありえない大雨であった。それも普通の雨ではなく、通りが洪水状態で、走る車のタイヤの半分ほどは水に浸かってしまうほどなのだ。一般的に熱帯地域のスコールはざっと降り、パッと止むのであるが、まったく降りつづけるばかりなのである。
午後八時にサミーと落ち合い、俺の強い希望で、また辛い辛いタイ料理の最後の晩餐を楽しんだ。そして最後の晩は、この旅で一番沢山酒を飲み、ライブハウスのような所で泥酔した。
何回乾杯したであろうか。
「異国の地で、こんなに我を失うまで酔っていいのか」というぐらい飲んだのであった。
翌朝九時半に空港にいなければいけない僕が、誰かの間違い電話(大感謝!)により目を覚ましたのは午前十時。
一瞬、目の前が真っ白になり、全ての思考回路が止まった。
こんなに焦ったのは久し振りである。その五分後にはチェックアウトを済ませ、タクシードライバーに酒臭い息で叫んでいた。
「頼むから飛ばしてくれ!その分、倍払うから!」
オンボロタクシーは唸りながら、時速150キロ程の速さ(メーターが壊れていたので定かでないが・・・)で、高速を走ったのであった。
そして今、僕は香港から関空へ向かう最後の機内にいる。
ほぼ一週間の旅であったが、なかなか色々と心に残る旅であった。
辛い辛いと思っていた海外出張も本人の捕らえ方でそれは素晴らしく愉快なものに変わることがわかった。
明日からの日本でも目一杯頑張ろうと思う。辛いときは捕らえ方を変えてみようと思う。
香港の空港で、可愛いピンクの腕時計を二つ買った。
今夜、僕が帰宅する頃、奴らは既に寝ているはずだ。そっと枕元に置いておこう。明朝の喜ぶ顔が楽しみである。
最後に、今回の旅で接した全ての人々へ、その屈託なき笑顔に、
「 乾杯! 」
完
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