【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

大学の頃の懐かしい記憶(ディスコ編)

2009年05月07日 | 徒然日記
GWの間に、いつも使っておらず物置状態になっているオレの書斎にある、いつも使っておらず荷物棚のようになっているオレの机より、80年代のディスコ曲を集めたCDを見つけたので、早速、愛車に積み込んで、今日それを聴きながら営業に出た。

しかし音楽とはすごい。忘れていたたくさんの物事を思い出させてくれたのであった。

まずは懐かしいこの曲を! 『THE BEACH』

オレが大学2、3回生だった80年代後半、それはそれは、とてもバブリーな頃であった。巷ではイタカジ(イタリアンカジュアル)と呼ばれるファッションが流行り、オレもミッソーニとしては珍しい真っ白のGジャンに、アルマーニのジーパンなんかを着ていた。

1本2万円以上するジーンズを普通に履いていた時代だった。Gジャンは8万円ぐらいだったかなぁ。

バッグは、ヴィトンのショルダー、ハンティングワールド、フォンタナとかが流行っていた。

その頃は週に3回はミナミに出ていた。いつも江坂で家庭教師か塾講師が終わる夜9時がミナミへの出発時間だった。車はミナミより少し離れた四ツ橋筋を渡った辺りにいつも路駐していた。ミナミに出れば、必ず知ってる誰かに会えた。今考えても気持ちよくなるくらいよく遊び、よく飲んだ時期であった。

家庭教師や塾講師のバイトの時給は2500円ぐらいだった。1日2時間、週に4,5回、中学生に英語と数学を教えるという、当時は実に簡単で、なんの予習も準備も不必要なバイトで、毎月10万円ほどの小遣いはできた。そして、そっくりそのままそのお金を使っていた。

あの頃全盛だったディスコ事情・・・(ぼんやりした記憶より)。

ミナミには、道頓堀橋の北端を右にそれたところ、宗右衛門町にダイヤモンドビルという建物があり、そこに『マハラジャ本店』、その上に『KING&QUEEN』、その下に『ジジック』というディスコがあった。ジジックはしばらくして『DYNASTY』というディスコに変わった。また心斎橋の方にしばらく行くと、周防町に『マハラジャウエスト』、『ライムライト』があった。後半、御堂筋沿いに『ゲネシス』という異色な空間のディスコも出来た。鰻谷の方にはお洒落な『クラブ・パトーナ』というディスコがあった。また吉本会館が出来、そこに集客800名可能という巨大ディスコ『デッセジェニー』が出来た。

梅田には、DDハウスに『マハラジャDDハウス』があった。

京都には、『マハラジャ四条』があり、その後『マハラジャ祇園』が出来た。ここも大きなディスコでフロアーの真ん中が円状に1メートルほど持ち上がるようになっていた記憶がある。

新神戸には、オリエンタルホテルが出来た際、『KING&QUEEN』がオープンした。

当時、それらのディスコを貸切り、よくパーティをしていたので、どこかでレセプションパーティとかがあるとお声がかかり、いつも出向いたもんだった。大概のディスコの支配人や副支配人たちとは顔なじみだった。まともにお金を払って入った記憶は無い。

そう、あの頃、オレは会員数200名を超す学生サークル、『BIJIN PROJECT』の会長だった。

その頃、東京では六本木のディスコ『エリア』や『シパンゴ』、プールバーがかぶった『PRESTIGE』などが流行っていたと記憶している。

そんなオレも4回生になると、そんなミナミでの遊びも飽きてしまい、江坂のバー『ルースティッククラブ』で飲むか、かつて少しだけバイトしていた箕面のピレーネの人たちが始め、当時、江坂にて大ブレイクしたクラブ『フィラデルフィア』に顔を出すようになった。『ルースティッククラブ』では、特別に『ジャックダニエル』の緑のボトルを取り寄せてもらいキープしていた。今は無きこのウィスキーはハッカ味がきつくて、どの酒よりも旨かった。これにテングのビーフジャーキーがあれば、それで満足だった。これからはミナミではなく、江坂の時代がやってくるなどと飲み飲み、自説を説いていた。(大きく外れたけど・・・)


しかし懐かしい。振り返れば、鼻の先がジンジンとするような思い出である。


音楽は忘れていた記憶を思い起こさせてくれる。いいもんだなぁ。

最後に、今尚、心にビンビンくるこの曲を! 『 Have Some Fun 』 by BT EXPRESS






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