
大神ヶ岳への道中に「お関さんの墓」があります。大神ヶ岳登山からの帰りに車を停めました。今でも何方かが管理されているのでしょうか、墓のまわりはキレイに草刈りされていました。

と言っても、この石柱が墓ではありません。この石柱の後ろには、林道の拡幅工事のため墓を3メートルばかり奥側に移設したようなことが書かれています。

かなり前から見ている墓ですが、その墓が自然石を置いただけのものだったのか、そのような細かい記憶はありません。

この墓について「西中国山地」(桑原良敏著)には、地元吉和村の三浦一之介氏から聞いた話として、下記のように記録されています。
津和野藩に若い武士がいた。殿の命によって山陽(広島)へ出向した。若者の特権とばかり女郎屋に遊んだが、その折、気立てのやさしい気品のある美しい女郎が気にいり色々と奔走してやっと身請けすることができた。夫婦の縁を結び、石州へ連れて帰る旅のつれづれに幼少の頃の話をしているうちに、その娘が子供の頃せんかたない事情で別れ別れになっていた<お関>という実の妹であることがわかり、罪の恐ろしさと世の無情をはかなんで、兄妹は共にこの地で自害した。
「匹見町史」にも石州街道の悲恋哀話として、これに似たようなことが記されているようです。

このようなことを知っているのは古い登山者なのかも分かりません。出雲の守様も美耶様もご存知ないようでした。

この近くには角兵衛の墓がありますが、その詳細についてタカ長は知りません。
その二つの墓の北方向に沼長トロ山という1014メートルのピークがあります。その山をめぐる山歩きをしたことがありますが、詳細なことは忘れてしまいました。秋から晩秋の頃歩くと良い山ですが、むかしスイスイと歩いた山が今はキツイ山になっているので、もう行かないほうが良さそうですね。