午後からの法話。
macコンピュータも資料として用意されていた。
真宗の先駆けとなった浄土宗の法然について、
出家の縁とはどんなものだったか。
当時の警察官だった父。その父が殺された。
仇討はするなといわれていた。(殺人が
殺人を呼びような負の連鎖を断ち切る)
父の死がきっかけで、40才を越えて仏門に。
一方、ぜんどうだいしという僧侶。
当時、比叡山の仏教からは批判を受けていた。
徳島へ流罪。
こんちくしょうとは思わず、
いいご縁だと思った。
その思想は、親鸞にも引き継がれた。
親鸞も越後に流罪。
流罪先で念仏を唱えたが、
農民に受け入れられなかった。
見た目も色白だし、手も細い。
しかたなく、ほそぼそと農作業をして過ごす
時間が多くなった。
すると、日にやけ、手もごつごつ。
そんな親鸞を見て、農民たちは親近感を
感じたのか、親鸞を信頼するようになった。
被害者意識を持ちすぎている人。
第三者の私たちは、被害者の気持ちはわかる。
加害者の気持ちはわからないという傾向になりがち。
とある人物。父を殺されながら、死刑の廃止運動に
かかわっている。
殺された被害者の気持ちはわかるというのも傲慢。
加害者の気持ちがわからないというのも傲慢。
私たちは、被害者になることもさることながら、
加害者になることも、
その可能性をわかっていないといけない。
数年前、友人から電話があった。
ある事件についてのことだった。
京王線新宿駅で、夜8時ころ、
酒を飲んでいた40代の男性アルバイトが
70才の男性と接触したはずみで、
70才の老人が転落して、電車とホームの間に
体が挟まれ死亡したという事件。
その友人は、(被害者にならないように)
気をつけないといけないねという話をした。
しかし、被害者になることと同様に
加害者になることも可能性として
意識する必要がある。
時として、加害者になるか被害者になるか
そんなに違いがない場合がある。
この事件、表面だけ見ると、40代にもなって
定職についていないし、
まだ夜の8時なのに酒を飲んで・・・
とネガティブな印象をこの40代の男性に
持ってしまうような当初の新聞の記事だった。
しかし、この男性、実は高血圧の病気を持っていた。
酒を飲んでいたといっても、酒は飲んだばかりで
酔ったことが原因で接触したものではなかったという。
この男性は、不起訴になった。
被害者になる可能性と同時に、加害者になるかもしれない
という例だった。
とある学校でいじめの問題発生。
親たちに説明会。
学校側は、加害者、被害者という表現はしないで、
関係者と表現した。
それについて、親たちは不信感をもった。
しかし、学校側の表現の仕方は、結果的に正しかった。
例えば、交通事故。
7対3でぶつけた方が悪いというケースがある。
片方は、加害者でもあり被害者でもある。
刑事事件も、10対0で処理できないケースもあるだろう。
法然、親鸞は、被害者意識を持たなかった。
加害者、被害者意識がないほうが、
世の中うまくいくのかもしれない。
岡本・・・という犯罪者を更生させる人が
書いた本について。
その中に、万引きをした高校生の反省文について。
その反省文を、受刑者に読ませると、
以下のような意見が多かった。
早く謹慎をといてもらうための
うわべだけの反省。
この本は、真宗の教本よりも、真宗的かもと言った。
おおげさかもと補足。
反省はさせないほうがよい。
反省は、問題の理由に向き合うチャンスを奪っている。
問題の理由について考えさせ、内面を考えさせたほうがよい。
犯罪者の心理。
自分をわかってもらえないという積み重ねが
犯罪に走らせる。
ありのままの自分を出せる場があれば、犯罪は減る。
経典に、悪い心をかえりみるなという一文がある。
これを読んで「私はひっくり返りました」。
(このひっくり返りましたは、
驚きを表現するのにおもしろい言葉だなと思う。
流行語になってもいいくらい。
この僧侶、ひっくり返りました。を常套句のように
よく使う。)
縁がなかったから、
人を殺さずに済んでいるのかもしれない。
ある新聞のデスク担当の人。
新聞に書く記事がなく困っていた。
そこへ、交通事故、6名死亡。このデスクの人、
思わず「やった!」と思ってしまった。
被害者の代表だと思っていたこの人、
矛盾を感じ、デスクはやめ記者にもどったという。
風見しんごの娘さん。左折したトラックにひかれ
なくなった。
そのお通夜にワイドショーが出向き、
風見しんごにインタビュー。
「加害者を恨むことはしたくない。
エミルがそういうのをきらっていたので。」
49日のとき、ワイドシューが再びインタビュー。
「49日を過ぎてもまだ悲しみのどんぞこです。
どんぞこな状況でも、エミルが自分たちを
支えている。」
その後の、インタビューで、
加害者に対して、
「これから一人でも人の命を助けることが
あるように願います。」
夏ころ、風見しんごの「エミルのランドセル」
という題の文化講座があったが用事があったので
聞けなかった。あらためて、残念だったと思う。
この回も期待通りの法話の内容だった。
macコンピュータも資料として用意されていた。
真宗の先駆けとなった浄土宗の法然について、
出家の縁とはどんなものだったか。
当時の警察官だった父。その父が殺された。
仇討はするなといわれていた。(殺人が
殺人を呼びような負の連鎖を断ち切る)
父の死がきっかけで、40才を越えて仏門に。
一方、ぜんどうだいしという僧侶。
当時、比叡山の仏教からは批判を受けていた。
徳島へ流罪。
こんちくしょうとは思わず、
いいご縁だと思った。
その思想は、親鸞にも引き継がれた。
親鸞も越後に流罪。
流罪先で念仏を唱えたが、
農民に受け入れられなかった。
見た目も色白だし、手も細い。
しかたなく、ほそぼそと農作業をして過ごす
時間が多くなった。
すると、日にやけ、手もごつごつ。
そんな親鸞を見て、農民たちは親近感を
感じたのか、親鸞を信頼するようになった。
被害者意識を持ちすぎている人。
第三者の私たちは、被害者の気持ちはわかる。
加害者の気持ちはわからないという傾向になりがち。
とある人物。父を殺されながら、死刑の廃止運動に
かかわっている。
殺された被害者の気持ちはわかるというのも傲慢。
加害者の気持ちがわからないというのも傲慢。
私たちは、被害者になることもさることながら、
加害者になることも、
その可能性をわかっていないといけない。
数年前、友人から電話があった。
ある事件についてのことだった。
京王線新宿駅で、夜8時ころ、
酒を飲んでいた40代の男性アルバイトが
70才の男性と接触したはずみで、
70才の老人が転落して、電車とホームの間に
体が挟まれ死亡したという事件。
その友人は、(被害者にならないように)
気をつけないといけないねという話をした。
しかし、被害者になることと同様に
加害者になることも可能性として
意識する必要がある。
時として、加害者になるか被害者になるか
そんなに違いがない場合がある。
この事件、表面だけ見ると、40代にもなって
定職についていないし、
まだ夜の8時なのに酒を飲んで・・・
とネガティブな印象をこの40代の男性に
持ってしまうような当初の新聞の記事だった。
しかし、この男性、実は高血圧の病気を持っていた。
酒を飲んでいたといっても、酒は飲んだばかりで
酔ったことが原因で接触したものではなかったという。
この男性は、不起訴になった。
被害者になる可能性と同時に、加害者になるかもしれない
という例だった。
とある学校でいじめの問題発生。
親たちに説明会。
学校側は、加害者、被害者という表現はしないで、
関係者と表現した。
それについて、親たちは不信感をもった。
しかし、学校側の表現の仕方は、結果的に正しかった。
例えば、交通事故。
7対3でぶつけた方が悪いというケースがある。
片方は、加害者でもあり被害者でもある。
刑事事件も、10対0で処理できないケースもあるだろう。
法然、親鸞は、被害者意識を持たなかった。
加害者、被害者意識がないほうが、
世の中うまくいくのかもしれない。
岡本・・・という犯罪者を更生させる人が
書いた本について。
その中に、万引きをした高校生の反省文について。
その反省文を、受刑者に読ませると、
以下のような意見が多かった。
早く謹慎をといてもらうための
うわべだけの反省。
この本は、真宗の教本よりも、真宗的かもと言った。
おおげさかもと補足。
反省はさせないほうがよい。
反省は、問題の理由に向き合うチャンスを奪っている。
問題の理由について考えさせ、内面を考えさせたほうがよい。
犯罪者の心理。
自分をわかってもらえないという積み重ねが
犯罪に走らせる。
ありのままの自分を出せる場があれば、犯罪は減る。
経典に、悪い心をかえりみるなという一文がある。
これを読んで「私はひっくり返りました」。
(このひっくり返りましたは、
驚きを表現するのにおもしろい言葉だなと思う。
流行語になってもいいくらい。
この僧侶、ひっくり返りました。を常套句のように
よく使う。)
縁がなかったから、
人を殺さずに済んでいるのかもしれない。
ある新聞のデスク担当の人。
新聞に書く記事がなく困っていた。
そこへ、交通事故、6名死亡。このデスクの人、
思わず「やった!」と思ってしまった。
被害者の代表だと思っていたこの人、
矛盾を感じ、デスクはやめ記者にもどったという。
風見しんごの娘さん。左折したトラックにひかれ
なくなった。
そのお通夜にワイドショーが出向き、
風見しんごにインタビュー。
「加害者を恨むことはしたくない。
エミルがそういうのをきらっていたので。」
49日のとき、ワイドシューが再びインタビュー。
「49日を過ぎてもまだ悲しみのどんぞこです。
どんぞこな状況でも、エミルが自分たちを
支えている。」
その後の、インタビューで、
加害者に対して、
「これから一人でも人の命を助けることが
あるように願います。」
夏ころ、風見しんごの「エミルのランドセル」
という題の文化講座があったが用事があったので
聞けなかった。あらためて、残念だったと思う。
この回も期待通りの法話の内容だった。
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