歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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「月鞠」12号のお詫びと訂正

2012-07-19 23:44:43 | 日常
本日、午後10時30分、窪田さんからご連絡をいただいて、「月鞠」12号の「歌論」に、大きな誤りがあるとわかりました。

2ページ目に該当すべき内容が飛び、おなじ本文が2ページ続いています。
落丁ではなく、面付のとき、自分の手元で発生したミスです。

謹んでお詫び申し上げます。

こちらをもちまして、活字の内容を訂正および代替させていただきますこと、お許しください。

辰巳泰子拝


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●歌論五   命令形の優しさ

紫陽花が、濃く色づいています。今年は、梅雨も台風も同時にきて、「野分」という言葉の季節感も、失われつつあるようです。
さて、短歌作品はずっと、歴史的かな遣い(旧かな)を用い、書いてきましたが、この夏、六冊目の歌集「いっしょにお茶を」を、沖積舎から上梓するにあたり、自作における表記のあり方を、改めることとしました。 他誌への寄稿含め、媒体の手をとおるものについては、今後、一般に使用されている現代かな遣い(新かな)を用いることにします。制作から発表へ至る手数の多さや、「古めかしい」といった印象からなる読者の敬遠を、防ぐためです。ただし、本誌や制作の場(ウェブ上)では、従来どおり、旧かなを使っていくことにします。そして、アンソロジーに収める場合に、前歌集「セイレーン」(邑書林)以前の作品を、新かなに改めることはしません。「セイレーン」以前の作品は、どれも、旧かなの使用を前提として制作されたものですから。

 細りゆく乳房をそつとわしづかみ 眠つてしまふ 眠つてしまへ
   (「セイレーン」)

「セイレーン」を上梓する頃には、作品中に口語を使うことが増え、旧かな表記では、違和感を覚えることが多くなってきました。ただ、巻頭に置きたかったこの歌を、そのままにしておくために、新かなの使用を見送ったのでした。旧かなは、命令形にしたとき、優しいのです。「眠ってしまえ」では、この歌は、台無しです。
まず、わたしは、実作者が手をこまねいて、語彙を減らすべきでないと考えています。みやびでない言葉を歌のなかに登場させ、詩形を揺さぶるのは、試みられるべきことですし、新しさを求めるあまり、古典語を敬遠してしまうのも、また、どうかと思うのです。
現状、若い作者のほとんどが、新かなを使用し、旧かなの使用者は、ほぼ、中高年に限られるでしょう。こうした世代差が、どこからくるかといえば、作者本人が、短歌に接するようになった時点で、かな遣いの新旧、どちらが主流であったかにより、媒体で活躍する表現者のほとんどが、新かな使用の昨今、初心の人は、ごく自然に、新かなでの表記を選ぶのでしょう。
わたしは、旧かなの魅力にひかれて、旧かなを選んだ一人でした。
戦後、新かな表記こそが、民主主義に生まれ変わった国家の文学にふさわしいと考える人が、多かったと聞きます。アメリカの主導による戦後改革を必ずしもよしとせず、使い分けはいっさいしないで、韻文も散文も、旧かなでとおすべきとする考えも聞きました。いずれにせよ、年号が昭和から平成に移ろう九〇年頃まで、こうした歴史的背景を、歌人であれば踏まえるべきと考える人が、多くありました。
しかし、もとから、かな遣い自体、制度の象徴として、存在したのでしょうか。漢字から万葉仮名が生まれ、平安時代には、宮廷の女性たちを中心に、広く使われるようになり、当時、公文書の表記は、かな(仮名)ではなく、漢字(真名)でした。かな文字は、規範をむしろ、意識せずにいられるものでした。中世では、促音の表記に、小さなカタカナも交じって、明治に入り、藤原定家の時代のかな遣いが、規範として示されるまで、むしろ、自由なものだったのではないでしょうか。
一方、新かな表記のルールは、初めから、規範を示す目的、「正しい使い方」を広める目的で、作られています。漢字の字体統一も、同様でした。戦後、七十年近く経ったいまは、どうでしょうか。教育の現場では、いわゆる「検定」を受けるようしきりに奨めますし、戦後教育は、戦後教育として、規範に則るよう求めてきたといえます。そのようにして、広くゆきわたらせ、万人に共有されるメリットを持った新かなですが、全体主義的な不自由さもまた、潜ませています。
とはいえ、短歌を作り始めた頃のわたしは、まだ中学生で、このような歴史的背景など、知るよしもなく、ただ、旧かなを美しいと思ったから、旧かなで、短歌を書き始めたのでした。こうした動機を持つ者にとり、基準からの距離感……つまり、適切か、不適切かといった話は、ばかげて聞こえました。いかに基準を定めようと、正しく、便利で、適切で、しかし魅力のない表現のほうが、多いのですから。
しかし、歌作が、手すさびでなく、表現者の自覚のもとになされる場面にきて、先人を知らずにいられるものではありません。ことは、表記に限りません。たとえば、与謝野晶子。昭和世代の人は、晶子について、愛と激情の生々しい歌を書いた歌人として周知していますが、二〇一〇年までのゆとり教育下、小学校高学年の子供たちは、日露の反戦詩を書いた歌人として、国語の時間に、まず習っています。しかし晶子は、太平洋戦争のときには、大政翼賛歌を書いています。どうしてでしょう。わたし自身の関心は、晶子の真の考えがどちらであったか、また、矛盾した両極をもって、人柄まで推し量ろうとするところにはありません。晶子とて、すべては、自分と、自分の作品を生き残らせるために、あっただろうと思うのです。世の中が移ろうなかで、どうすれば発言しつづけてゆけるか、作品を遺してゆけるか。いまのわたしたちが、直面しているのも、まさにそこで、やはり、実作者の誰もが、歴史ということに、無関心ではいられないでしょう。
実作に、話題を戻します。
現代語を使用し、旧かなで書くと、いろいろとややこしい場面に遭遇します。以下は、本誌からの引用です。

 喧噪の静まりたればいさかひはニュースとなりて人ひとり逝く
   窪田政男(第八号)

 おばちやんがスパツツ履くと芸人の長州小力に似てる…ゴメンネ
   吉崎あかり(第十二号)

窪田さんは、「ニュース」を、新かなと同様に表記しています。しかし、吉崎さんは、「スパッツ」を「スパツツ」と、旧かなのルールにのっとります。外来語は新かなルールでいくか、外来語も旧かなルールに沿うか。外来語については、作者が自分で決めてよく、どちらも通用した表し方です。他にも、旧かな表記にそぐわない言葉があるとき、「」などの符号で括り、そこだけ新かなを使ったり、悩みそうなら、漢字表記にしたり。かな遣いとは離れますが、「蛍」という漢字があります。拙著「紅い花」(砂子屋書房)では「螢」と旧字。まだ、原稿を、誰もが手書きにしていた時代。手書きの時代には、特に意識されない、その人なりの書き癖が、用字、送りがなにも表れていましたが、以来、二十数年。ワープロで変換しやすい文字や言葉に、押し流されていった表記、表現があるかと思います。
次に、旧かなの魅力について、見ていきましょう。

 来年の夏のふたりの不確実 黄色のあはきチュニックを買ふ
   真狩浪子(第九号)

わたしたちは、まず、文字を、目で見ます。それから音を、実際に声に出したり、黙読でも、味わうときには再生したりして読みます。味わった場合、「ふたり」「ふかくじつ」「あはき」「かふ」と、ハ行音が響き合い、「あわき」「買う」とした場合より、その効果は高まるでしょう。見ために期待するのは内容がない、本質的でないという人があります。そういう意見の人は、食事を召し上がるとき、栄養価だけをお考えでしょうか。たしかに、表記に、質実はありません。味というほどの味ですらなく、香りのようなものですが、栄養を、サプリメントで摂る時代だからこそ、香りを味わう食事を、覚えておきたいものです。 また、わたしたちは、便利であれば、それを使います。不便になっても、愛着があれば、折り合いをつけて付き合おうとします。そして、愛着する人がなくなれば、捨てられるのが道具というもの。旧かなは、古道具のようなものかもしれませんが、この古道具でなければ表せない、言葉や思いもまた、あるのです。

 しやぼん玉のなかにゐしやう綴ぢられて夢にまた逢ふしぐさ細かし
   (第十二号)

本誌の百首歌から、自作を引用しました。「ゐしやう」を新かなにした場合、「いしよう」となります。「ゐし」は、動詞「ゐる」に、過去の助動詞「き」が連用形となって続いたものですが、「ゐし」だとその意味がすぐ分かります。しかし、「いし」ですと、「石」「意志」など、無関係なものを想起させ、読後に、違和感が残ります。無関係なものの想起、映像でいうサブリミナルの効果として、おもしろい場合がありますが、ここでは、邪魔でしかありません。この部分を、どうしても新かなで表記するなら、そっくり、現代語に変えなければなりません。すると、自然、古典語を使用する機会は減ります。使わなければ、どうなるでしょう。わたしたちは、その言葉を忘れていくでしょう。現代語の文脈でしか、制作できなくなった作者は、「心ばへ」をを、いかに表現していくのでしょう。
広く共有される道具の強みは、もちろん、無視できないものですが、使う側が感性を貧しくしてはいないか、神経を、研ぎ澄ましておきたいもの。
この稿を書くにあたり、そもそも、旧かなで書かれたものに触れた、いちばん初めは何であったか、思い出していました。それは、「太陽」(平凡社)という、七〇年代当時、月刊の雑誌でした。「太陽」に組まれた、近代詩歌の特集に、わたしは、夢中になったのでした。小学校の四、五年生でした。「太陽」は、母が営む喫茶店に置かれてあり、十三の自宅から、喫茶店のある三国まで、踏切を越え、工場地帯を過ぎ、徒歩三、四キロも歩いて、日参したのでした。デルモンテのトマトジュースを片手に、「太陽」をひらくために。表記がどう、修辞がどうといった、書き手の意識を持ったのは、もっと理知がはたらくようになってからで、その頃、つまり、説明する言葉を獲得する以前、魅入られてしまっていては、その以後に、何をどう語ろうとも、後付です。歴史を意識するようになったのは、さらにその後。あげつらうのは、気おくれがします。
ですから、なるべくなら多くは語らず、心を奪われた一つ一つのものごと、子供の足で、あの道のりを、おのずから歩かされた事実を示しおくだけにするのが、誠実ではないかと、内心、思ったり。
最後に、新かな表記の歌集、「いっしょにお茶を」から、かな遣いを改めてよかったといえる作品を挙げておきます。

 「紙をこう、あ、でもそこまでしはらへんわなぁ」うまく光れぬ蛍に言いぬ
 嫌われた赤みのつよきひともとをわたしは好きでいよう紫陽花
                                        (辰巳泰子)

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