歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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「北野文学」第41号から43号

2012-10-23 17:30:21 | 日常
昭和56(1981)年4月から、59(1983)年3月に卒業するまで在籍しました。
大阪府立北野高校文芸部編集の、「北野文学」。





文芸部は、長年休眠状態だったのを、一つ上の学年の第の先輩諸氏が、文芸復興し、よみがえったのでした。

自分はその、復刊号からの参加です。
新入生だった41号のみ、「綴」というペンネームで書いています。
理由は、先輩諸氏、全員ペンネームだったので、倣ったのですが、42号から実名にて参加。
関係あったかどうか、42号から、実名での参加が増えました。

特筆すべきは、「北野文学」は、他の部活動、サークル活動とは別に、予算が組まれるか、経費分の頒布が許されるかしていた点。
長年、休眠活動にあったにもかかわらず、従来どおり特例扱い、いかがなものかと、批判もあったと聞きました。

第2学年のときにはみずから部長となりました。
特例の予算措置が続くよう、自分がいるあいだに、活動を、盤石なものにしたいと考え、とことん目立つつもりでいました。
生徒会活動もしました。

42号、目次。
赤い表紙。
辰巳が第2学年、部長となったときの「北野文学」です。




43号、作品。
薄い緑の表紙。
発行は、第3学年6月ですが、制作は、第2学年のときの作品。
印や書き込みは、「現代短歌最前線」(2001年、北溟社)に収録する際のメモ。



「午後。唇といふうすき粘膜にてやはく他人の顔とつながる」
「陶然とあくびしをれば春風にヌードポスターゆらりと揺れる」などの作品が、すでに見えます。

この2つは、第一歌集「紅い花」(1989年、砂子屋書房)でも、人口に膾炙したものとなりました。
ほんとは、高校生のときの作品だったのですけど、若さをアピールするのは美意識にそぐわなかったので、このぶんの制作年次については、伏せていました。

いまも、発行され続けているでしょうか。
「北野文学」。
おもねらず、威風堂々と、六稜魂を発揮し続けてほしいと思っています。
うら若き後輩諸氏の、健闘を祈りあげております。

辰巳泰子より

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