歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

俊成、白を切る!

2022-12-13 17:53:12 | 月鞠の会
古典和歌でも現代短歌でも、事実はどうだったかにのみ焦点を定めると、鑑賞は、成立しなくなる。鑑賞の作法は、事実とは切り離して、作者の構築した言葉の世界に遊ぶことにある。対して研究は、背景となった事実関係のほうに向かっていきやすい。

そうなると、水に油ですね。

虚構の世界を拡げてくれた新古今の功績は、やはり大きい。
背景や事実関係の研究は、鑑賞を深めるためにこそ欲しい。
それが鑑賞を侵食するのではなく、作者の飛躍を功績として認める方向に向いてほしい。

私は、「恋の正体」の第3部を鑑賞として他の部から切り離して、よかったと思っています。第3部に限らず、鑑賞については、全体として事実関係を希求する書き方になっていません。
固有の事実関係ではなく、時代史のみを踏まえました。
そうせざるを得なかったのは、私の、物心両面の研究力の限界によります。
しかし、限界ほど、世界を決めてくれるものはない。

失笑物かもしれないと思いながら、「恋の正体」冒頭部に取り上げた「六百番歌合」の「女房」の歌は、自分が執筆した時点では、開催者の良経の作だというところまで、調べをつけきれなかったんです。
研究者の間では、自明のことだと、後で知りました。

ただ、それが字面のとおり、女房の作であるはずがないのは、わかっていました。
なぜなら、参加者を見たときに不自然であり、つまり、事実として「女房」の作なのではなく、これは虚構。
なんらかの事情で、作者が伏せてあるのだと……。

その察しをつけられるのは、同様の配慮を、現代歌人の歌会でもいたすからです。
参加者が多くないとき、自作なのに批評するよう指名されることが、ままあるのです。
そしたら、白を切って批評します。
誰の作か、わかっていても、批評者は全員、なかでも判詞を述べる役割の人は、白を切る。
これが、現代でも作法なのです。
批評の中立と鑑賞を守るための、作法なのです。

俊成が白を切って、女房(作者が伏せてあるということ)の作として判詞を述べたのは、鑑賞のために他なりません。
しかもそれが、優れた鑑賞であれば、その判詞を、千年の後の世に受け取る私たちも、白を切るほうに乗らないと、つまらないことになります。

だってね、研究者は、これ何ていってますか?
良経は九条家の実力者だから、歌壇政治に俊成が権勢を保つには、良経の作品を褒めないわけにいかないって、いうんですよ?
事情に通じていようと、それもまた、想像の域を出ないことですよね。

このような態度の研究者は、初めから、鑑賞を投げ出しているではありませんか。
だけれど、多いでしょう……。
鑑賞ではなく、政談にもっていってしまう、研究者。

と、このように、それが誰であるか、あくまでも調べをつけるほうにいったら、その時点での自分の器量では、事実関係にひっぱられて、あるべき鑑賞の作法を損なう気がしました。
であるならば、ここは、調べをつけきれなくても、俊成が、白を切るほうに乗ればいい。

研究者……つまり、事実関係がすでに分かっている人の失笑を買うとしても、自分に無理に同じ土俵に立つことはないんです。
実作者としての鑑賞力を、最大限に発揮すればよい。

だって、私は、俊成とおなじ、歌人なのだもの。
実作者なのだもの。
創作において、虚構性が担保するものを投げうって、当代の公序良俗において断罪される読まれ方、事実関係をのみ追及される読まれ方と闘ってきたんです。

それにね、私たち……。

千年も昔の、歌壇政治に首を突っ込むぐらいなら、いまの、この世の中を、しっかり受け止めたほうがいいと私は思います。

補足しますが、事実関係は、鑑賞のためにあったほうがいいものです。
研究を否定しているのではなく、事実関係がわかって、たとえば西行に妻子があったとわかって、より深められるということです。
そして、もし、和歌を味わうのに必ず事実関係が必要であれば、西行の独身論によって樹立された鑑賞が、すべて棄却されることになってしまいますね。
でも、そうではありませんよね。
西行の独身論は、そうであってほしいと願った、和歌を愛するひとの情熱の一部でもあります。
研究史は、日々更新されて、研究者にも周知のなかった新事実が、後で発掘されたりもします。

鑑賞を、第一義に置くことは、研究が後世において止揚される、その可能性をひらくのではないでしょうか。





.




.








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする