クィア批評という、批評文芸の一ジャンルがあります。古典の研究者が、その時代なりの偏見……時代が進み、いまとなっては偏見を、当時の常識として受け入れて、たとえば貞操についての価値観がまんま、対象作品への評価に結びついているようなときに、私たちは、それを、取り払って読まねばならない。
古典の鬼は、概ねヒトに重ねてある。しかし私は、現代へつながるところの「鬼」と呼ばれたものを、世間、戦争や偏見や差別を生みだすデバイスと見立てたい。
鬼とヒトを重ね合わせて偏見や差別のない世の中を構想するなら、そこには、エンパシーが必要だ。エンパシーとは、たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見てみることである。
エンパシーとは、身内との一体感、共感を表すシンパシーとは別物だ。このことを私は英検の教材(私の現代社会の知識の新しいところは、概ね英語教材で学んだ)で知った。それから、いくつかの現代評論を読み、若い世代には、この言葉が浸透していくかもしれない、そうであってほしいと思った。
身内になら、それは、たやすく共感として発動しうる、ある種の情動は、たいていの場合、利害関係を客観的にとらえようとはしない。身内びいきとなって、二極対立を生みだし、止揚する契機を逃してしまう。
それはたとえば、ウクライナかロシアか、そのどちらに共感するかを争って、無関係の国に着弾してしまったミサイルが、無関係の国の無関係の人々を殺めてしまっても、いっこうにピンと来ないことに似ている。
無関心なのです。その無関心が、誰かを鬼に仕立てつづけなければ成り立たない構図のもとではないですか。
山上容疑者は、テロという行為を、誰かから頼まれたわけではない。テロを手段に使ったので、その意味でのテロリストだが、殺害に及んだ銃撃の一瞬は、彼にとり、人生の特殊な一瞬だったはずだ。決して繰り返すとは思われない。
特定の政治思想によって、その行為を称賛する人々がある。テロを、普遍的な手段として認めているのは、そうした人々の共有する世間である。そしてまた、右であろうと左であろうと、それぞれの世間に帰属する一人一人には、親もあれば子もあって、慈愛に満ちた家庭を築いてもいるだろう。このどこに、鬼なるものが存在するだろう。それなのに、右も左も、相手を滅ぼすための暴力を、それぞれの立場から肯定している。そして、相手の唱える暴力に至っては、許せないという。そのような世間は、それぞれに、共通の仮想敵を持つことで成り立っている。
山上容疑者に「でかした」という声は、戦争で親を殺された少年にゲリラ兵として訓練し人殺しをさせるのと同じ感性だ。テロリストになりたくて誰がなろうか。
容疑者の動機は、「平穏な家庭を破壊された恨み」であった。テロをおこなって、彼の家庭を取り戻せてはいない。にもかかわらず、テロという行為を称賛する人々は、山上容疑者への共感を装って、山上容疑者への無関心を、じつは、表現してしまっている。
「でかした」と言っていいのは、彼が、悔悛の情を催して、自身が、平穏な家庭を取り戻す、本来の一歩を踏み出したときのはずである。また、そのときでしかないのである。
鬼になりたくて、誰がなろうか。私たちは、まず、ここに立たなければならない。
カオス、混沌に商機をみる人がいる。戦争の構図で金儲けをする人々だ。新機軸を打ちだしているかに見えて、これがうまくいくと、商機を作り出すためにカオスをも作り出そうとするようになる。第一次世界大戦で日本は儲けた。これに味をしめて、太平洋戦争の土台ができた。戦争に乗じれば儲かると見込んだ資本家たちが、戦争を肯定するようになったからだ。
生物兵器や毒や武器を、作りたくて売りたくて、儲けたくてたまらない人々がいる。
私たちは、いま、ここにいる。
この、現在地点の「今ここ」が、人間性を回復するために立つべき場所と、エンパシーのあるべき場所と、どれほどかけ離れていることだろう。
私は、古典に回帰する。
「夢十夜」に、漱石は書いた。運慶は、木を削って仏を作ったのではない。木のなかから、仏を取り出したのだと。
たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見ることのできる、思考のあり方を、哲学を、必ず古典の世界から、取り出してみせる。
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古典の鬼は、概ねヒトに重ねてある。しかし私は、現代へつながるところの「鬼」と呼ばれたものを、世間、戦争や偏見や差別を生みだすデバイスと見立てたい。
鬼とヒトを重ね合わせて偏見や差別のない世の中を構想するなら、そこには、エンパシーが必要だ。エンパシーとは、たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見てみることである。
エンパシーとは、身内との一体感、共感を表すシンパシーとは別物だ。このことを私は英検の教材(私の現代社会の知識の新しいところは、概ね英語教材で学んだ)で知った。それから、いくつかの現代評論を読み、若い世代には、この言葉が浸透していくかもしれない、そうであってほしいと思った。
身内になら、それは、たやすく共感として発動しうる、ある種の情動は、たいていの場合、利害関係を客観的にとらえようとはしない。身内びいきとなって、二極対立を生みだし、止揚する契機を逃してしまう。
それはたとえば、ウクライナかロシアか、そのどちらに共感するかを争って、無関係の国に着弾してしまったミサイルが、無関係の国の無関係の人々を殺めてしまっても、いっこうにピンと来ないことに似ている。
無関心なのです。その無関心が、誰かを鬼に仕立てつづけなければ成り立たない構図のもとではないですか。
山上容疑者は、テロという行為を、誰かから頼まれたわけではない。テロを手段に使ったので、その意味でのテロリストだが、殺害に及んだ銃撃の一瞬は、彼にとり、人生の特殊な一瞬だったはずだ。決して繰り返すとは思われない。
特定の政治思想によって、その行為を称賛する人々がある。テロを、普遍的な手段として認めているのは、そうした人々の共有する世間である。そしてまた、右であろうと左であろうと、それぞれの世間に帰属する一人一人には、親もあれば子もあって、慈愛に満ちた家庭を築いてもいるだろう。このどこに、鬼なるものが存在するだろう。それなのに、右も左も、相手を滅ぼすための暴力を、それぞれの立場から肯定している。そして、相手の唱える暴力に至っては、許せないという。そのような世間は、それぞれに、共通の仮想敵を持つことで成り立っている。
山上容疑者に「でかした」という声は、戦争で親を殺された少年にゲリラ兵として訓練し人殺しをさせるのと同じ感性だ。テロリストになりたくて誰がなろうか。
容疑者の動機は、「平穏な家庭を破壊された恨み」であった。テロをおこなって、彼の家庭を取り戻せてはいない。にもかかわらず、テロという行為を称賛する人々は、山上容疑者への共感を装って、山上容疑者への無関心を、じつは、表現してしまっている。
「でかした」と言っていいのは、彼が、悔悛の情を催して、自身が、平穏な家庭を取り戻す、本来の一歩を踏み出したときのはずである。また、そのときでしかないのである。
鬼になりたくて、誰がなろうか。私たちは、まず、ここに立たなければならない。
カオス、混沌に商機をみる人がいる。戦争の構図で金儲けをする人々だ。新機軸を打ちだしているかに見えて、これがうまくいくと、商機を作り出すためにカオスをも作り出そうとするようになる。第一次世界大戦で日本は儲けた。これに味をしめて、太平洋戦争の土台ができた。戦争に乗じれば儲かると見込んだ資本家たちが、戦争を肯定するようになったからだ。
生物兵器や毒や武器を、作りたくて売りたくて、儲けたくてたまらない人々がいる。
私たちは、いま、ここにいる。
この、現在地点の「今ここ」が、人間性を回復するために立つべき場所と、エンパシーのあるべき場所と、どれほどかけ離れていることだろう。
私は、古典に回帰する。
「夢十夜」に、漱石は書いた。運慶は、木を削って仏を作ったのではない。木のなかから、仏を取り出したのだと。
たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見ることのできる、思考のあり方を、哲学を、必ず古典の世界から、取り出してみせる。
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