歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

鬼さんノートその16

2023-12-20 08:27:17 | 月鞠の会
「鬼」とは逸脱者である……と、わかりやすくしても、その逸脱が流動的な社会規範に対してのものである以上、命題とはなり得ないと前々回に書きました。なぜなら、その逸脱が、流動的な社会規範に対してのものである以上、この謂のなかでの「鬼」とは、いわば世間からの逸脱者であり、それはあくまでもヒトであることを前提しており、であれば、超常的な意味合いを捨象してしまうからです。

そもそも、逸脱という言葉が、規範を敷いた立場から発せられます。自分は逸脱しないことを絶対視している者から見るからこそ、逸脱者を逸脱者として指差せるわけなのです。では、規範を逸脱する立場から、逸脱という行為をみた場合、それが当人にも望まないことであった場合、つまりイレギュラーの認識があった場合に「逸脱」ですが、そうではなくて、その者が、その規範を必要としていない場合、規範の意識を持たない非生命であった場合には、どうでしょう。それは「逸脱」ではなく、「超越」であると、私は思いました。逸脱者は、あるいは、超越者たり得るのです。

折口信夫の〈かみ〉〈おに〉同義説を支持しつつ、「鬼」の字が、古代において『「もの」「かみ」「しこ」「おに」などと場合に応じてよみ分けられていた』ことを、『鬼の研究』(馬場あき子著)は詳述します。同書は、折口信夫が「国訓の上には、鬼をかみとした例はない」としたことを引きつつも、(蓑笠による)「身体の隠蔽が鬼にも神にも共通の条件であった」としていることを述べます。馬場さんは、「おに」の、「もの」「かみ」からの分離を特に見て、人間的な「鬼」に主眼をおいて研究しておられます。

馬場さんが詳述し、かつ、まとめられた、権力が排撃するところの人間的な「鬼」の成立に深く肯いつつ、私は、ここでは超常的存在として、「カミ」「オニ」「ホトケ」を考えようとしています。自分がそうする理由は、概ね次のようになります。

一つは、定家に、古今伝授の神事化があったこと。つまり、神への誓願というアクションがあったこと。もう一つは、『定家十体』に「拉鬼様」(『毎月抄』に「鬼拉の体」)として「鬼」の字義が見えること。このような体は、『定家十体』に先立つ壬生忠岑の『和歌体十種』に見られない体です。定家のアクションの背景であった時代は、戦乱をきわめ、仏教的無常観がすでに浸透していました。私は定家が、「カミ」と「ホトケ」の溶け合いつつもせめぎ合う時代に、あえて「カミ」と「オニ」をこそ取り出そうとしたところに、興味を持ちました。


では、ここから、定家の「鬼拉の体」の構想に、お話を戻します。
定家は、いったい何を考えて、「鬼」なる不穏の言葉を和歌の美学に持ちこもうとしたのでしょうか。

※いまは正月二日です。元日の夕方、石川県に大地震が発生しました。
心よりお見舞い申し上げます。
自分は阪神大震災の折に帰省しており、実家の屋根瓦が崩落しました。(でもそれだけで済みました。)
交通がとおったら、神戸からの買い出しのひとで十三の街に人があふれました。
先生に資料をご提供いただいております。
阪倉語源説、早速、拝読しております。
正月休みのあいだに、『定家十体』についての本論に入っておきたく思います。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする