歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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(未定稿)鬼さん考 序

2024-03-16 11:08:07 | 月鞠の会
鬼さん考 序


現代を生きる私たちが、慣れ親しんで使う言葉に「おに」があります。
「鬼」と書いて、「おに」と読む。とても恐ろしい、程度が人知を超えているといった意味や存在を表します。
ツノを生やし牙をむいた姿態で童話に登場したり、「鬼ばば」のようにさまざまなニュアンスの接頭語になったり、その分野への情熱の傾け方が尋常でない人を「◯◯の鬼」と身近に呼んだりもし、その一方で、非常に残虐な事件があったようなときに、「鬼の所業」のように、穏やかでない使い方をされる言葉です。
いずれにせよ、超自然的で、恐ろしいイメージがあります。
お茶目に呼ぶときにも、恐ろしいイメージが持たれることを前提に、その前提を裏切るお茶目さ、という意味合いになってきます。

そもそも、「鬼」の語は、いつ頃からある言葉でしょうか。
ずっと同じ意味に使われていたのでしょうか。
そうでないとしたら、現代の意味に近づいてきたのは、どの時代からでしょうか。
そして、この言葉が大昔からあるとしたら、古代の人々は、「おに」という言葉で、どのようなものを表そうとしたのでしょうか。

私がそんな疑問を抱いたのは、『新古今和歌集』(1205年)の撰者の一人であり、『小倉百人一首』(1235年)の編者である藤原定家が、その構想した和歌十体において、「鬼拉の体」なる異様の体を、打ち出していたからでした。
「拉ぐ」とは、「かっさらう」「ぶっつぶす」ぐらいの強烈な意味なのです。
弱い、あえかな存在に対して、そのような物騒な行為をはたらくことが、和歌の美意識であるはずもない。「鬼拉の体」は、和歌の体として提唱されたものの一つなのですから、美意識の現れ方でなければなりません。そうすると、おのずから、「鬼を拉ぐ」の「おに」とは、拉がれるべき凶悪な、恐ろしい存在でなければなりません。
逆にいえば、「定家十体」の頃には、「おに」という語に、恐ろしいイメージがすでにあったということです。

もっと昔は、どうだったのでしょう。
そこで、私は、『古今和歌集』(905年)の仮名序に、「鬼神」の語があったことを思い出しました。


  やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。
(『古今和歌集』新潮日本古典集成)(傍線筆者)


校注者の奥村恆哉氏は、傍線部を「おにがみ」と読ませ「もろもろの精霊たち」と注を付し、解説ではこのように述べています。

  「漢語『鬼神』と、大和言葉『おにがみ』とが、中身まで同じだと考えては性急に過ぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかったもろもろの『かみ』である。」

他方、「新 日本古典文学大系」(小島憲之、新井栄蔵校注)による『古今和歌集』では、傍線部を「おにかみ」と読ませ、その意味を「霊魂・神霊の意の漢語『鬼神』の訓読語。」であるとしています。

互いに異説にみえますが、そのいずれであったとしても、現代の「鬼」に通じる、恐ろしい凶悪なイメージは、少なくとも905年、『古今和歌集』仮名序における「鬼」もしくは「鬼神」には、持たれていなかったとみえます。
そして、定家の用いた「鬼拉」の「おに」を『古今和歌集』仮名序における、精霊、自然霊、もしくは死者の霊、もしくは神霊、そのいずれに置き換えても、訳語として意味が通じないことも、わかります。
つまり、『古今和歌集』の時代には、「精霊」「自然霊」「霊魂」といった、かすかな存在の意味を担っていた「鬼」の語は、『新古今和歌集』の時代に至るまでのあいだに、凶悪さ、恐ろしさが、その意味の中心として持たれるようになったということです。

仮名序は、勅撰和歌集という公文書の仮名序です。
真名序よりは自由に書かれているとはいっても、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とは、少なくとも現代の公文書には登場しないファンタジーでしょう。
おそらく、『古今和歌集』の時代には、今となっては迷信であるとしか考えられないファンタジーに、リアリティがあったのでしょう。「鬼神」たちは、人々の営みから生まれる和歌のしらべに耳を澄まして、しみじみと味わっていたのであり、また、それのできる距離感に、人々と「鬼神」が共存していたはずです。

それにまた、『古今和歌集』の時代の「鬼」と「神」は、「鬼神」として一括りにできた、意味においての近さがあったということ。それがいつ、対極的な存在としての「鬼」と「神」に、分かれたのでありましょうか……?

そこで、時代はくだるのですが、こんどは能楽者、世阿弥が『風姿花伝』(1400~1418年)のなかで唱えた「物まね条々」を見ていきましょう。
「物まね条々」とは、世阿弥が演劇論に挙げている「物」、演じるべき対象です。
講談社学術文庫『風姿花伝』(市村宏全訳注)によると、次のような項目が設けられています。

・女
・老人
・ひためん
・物ぐるい
・法師
・修羅
・神
・鬼
・唐事

世阿弥には、「神」と「鬼」が、線引きされています。
さらに、「神」と「鬼」の項目をそれぞれ見ていくと、「通釈」や「余説」(訳者私見)において、次のように述べられています。


●神
  「およそ、此の物まねは鬼がかり也。なにとなくいかれるよそほひあれば、神体によりて、神がかりにならんもくるしかるまじ。但、はたとかはれるほんゐあり。神はまひかかりの風ぜいによろし。鬼は更にまひかかりのたよりあるまじ。」
  (通釈)「およそ神の物真似は鬼物の風情である。何となく強烈な容子がみえ、扮する神体によっては、鬼の風情になっても差支えあるまい。但し、神と鬼とは本質を異にする。神は舞がかりの風情を見せてよいが、鬼は全く舞がかりでゆけるよりどころはない。」

●鬼
  「凡怨霊つき物などのおには、おもしろきたよりあればやすし。」「まことのめいどの鬼よくまなべば、おそろしきあひだ、おもしろき所更なし。」
  (通釈)「凡そ怨霊や憑き物などの鬼は、面白くやれる手懸りがあるから演じやすい。」「本当の冥途の鬼をうまく真似すぎると、恐ろしいために少しも面白くないことがある。」(余説)「畏怖すべき共通点はありながら、鬼には幽玄に傾く風情はなく、従って舞がかりではゆけない。」

また、「鬼」と演じ分けなければならない条に「修羅」がありました。

●修羅
  「これていなる修羅のくるひ、ややもすれば鬼のふるまひになる也。又は、まひの手にもなる也。」
  (通釈)「このような修羅能の狂は、ややもすると鬼の仕草になりがちである。またときには舞の手になる場合もある。」


世阿弥が、「神」「鬼」「修羅」を演じ分けなければならないとしたのは、なぜでしょう。
私がこの序文に挙げた『古今和歌集』『新古今和歌集』『風姿花伝』の三つの書には、共通点があります。
それは、言語表現として、あるいは身体表現として、それぞれに美意識を現すことを目的としている点です。
世阿弥は、「神」「鬼」「修羅」といった対象物どうしの輪郭を明確にすることで、より美しい表現に仕上がると考えたのでしょう。
このことは、もしこれらが明確に分かれていないとしたら、鑑賞者の抵抗にあうということですから、これもまた、一般の感覚としても、「鬼」と「神」とが明確に分かれているべきものであったわけです。

『古今和歌集』『新古今和歌集』についても、次のようにもいえます。
『古今和歌集』仮名序(905年)のように「鬼」と「神」とをないまぜにできるのは、それを美意識として、鑑賞者である人々と共有できるだけの土台が、その時代に存在していたからであると。
そして、『新古今和歌集』(1205年)の時代においては、「鬼」の一語を特定のイメージにおいて象徴化して打ち出すことができるようになっていたと。つまり、それをして、鑑賞者である人々にも、共有しうる認識、一致しうる認識が存在していたと。
すなわち、何を真善美とするかを探っていくことで、そのときどきの、社会的な状況や背景をうかがい知ることができるわけです。

そしてここまでの、ささやかな問いと答えの繰り返しによって得られたことからも、さらに次々と問いが湧き起こってきます。

第一に、『古今和歌集』が構想した古代社会においては、「おにかみ」であれ「おにがみ」であれ、「かみ」と「おに」は、かつて、私たちの日々と隣り合う異界の存在でありました。では、私たちの祖先は、実際にはいかなる感性をもって、そのものを「おに」や「かみ」と呼んでいたのでしょうか? 和歌文学の伝統的な構想と、古代社会における実態との、重なるところやすれ違うところを見ていきます。

第二に、「鬼」や「神」を、超自然の存在としてとらえおく、その宗教性についてです。604年、聖徳太子が仏教のおしえを政治に採り入れてから、中国の民間信仰を含めた仏教の導入が、「おに」と「かみ」に、どう影響したのかということ。中古、中世の文学的表現に見られる死後の世界観の形成から、死生観の変遷についても、辿っていきたく思います。

第三に、『古今和歌集』の時代には、精霊や霊魂の意味を含んでいた「鬼」の語が、『新古今和歌集』の時代には、強く恐ろしいイメージ、凶悪なイメージを広く持たれるようになり、世阿弥の能楽論の頃には、「鬼」と「神」は、明確に線引きされるようになりました。その線引きは、文学的表現の背景が中古から中世へ移ろったこと、さらに戦国時代へ進展したことと関係がありはしないか。そのなかで、「鬼」のイメージに、どのような変化があったのかということを、とらえていきたく思います。



次の章では、第一のとりかかりとして、「おに」と「かみ」がどのように形づくられたのかを、語源説を中心に、辿っていきます。

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