一 日本にもとからいた「おに」を探る
⑴ 特記すべきこと
日本にもとからいた「おに」とは、きっと、精霊のたぐいだろう。――この論考を始めたとき、私は、そのように心づもりをしていました。
見通しのよくない道を歩いていて、袋小路に入り込んでしまう。山茶花の咲くのを目印にして出られたけれど、その次に通ったときには散っていて、また迷う。道を抜けてから、何かに遭ってしまった気分が残る。何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまったという、「体験」に類するできごと。――自然にまつわる、そのような感覚を、古代の人は、どのように表現したのだろうか、と。そして、それを、「おに」や「おに」に類する言葉によって、表現していたのではないかと。
折口信夫博士が、次のように書いています。(傍線筆者、以下同)
〈一体おにと言ふ語は、いろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈(カミクマ)とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。〉
「青空文庫」『信太妻の話』(折口信夫)から、表記を若干改めて引用しました。「青空文庫」の底本は「折口信夫全集 2」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第一」〈大岡山書店〉、1929(昭和4)年4月10日発行。
〈「おに」と言ふ語(ことば)にも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。〉
〈鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。〉
〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。〉
こちらも、「青空文庫」に公開されている『鬼の話』(折口信夫)から、表記を若干改めての引用。底本は「折口信夫全集 3」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第二」〈大岡山書店〉、1930(昭和5)年6月20日発行。
つまり、昭和の初め頃、折口信夫博士によって、だいたいこのように考えられていたのを、私は、自身の感覚に近いこととしてとらえていました。馬場あき子氏は、『鬼の研究』(三一書房)において、博士の言説について、以下のように考察しています。『鬼の研究』は、一九七一年です。
〈聖徳太子の母は、書紀その他に拠れば、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、穴穂部は安康天皇の名代(なしろ)として雄略天皇十九年におかれたものである。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。これにたいして、異母妹の磐隈皇女(いわくまのひめみこ)は伊勢の大神祠であり、夢皇女(ゆめのひめみこ)の別称をもっていた。いかにも夢占や巫言に長じていたことを推測させる名で、もし「神隈」という字を当てるとすればこの方の名としてふさわしい。しかし、「穴穂」という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったことも考えられる。折口氏もまた、「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通ひ路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などという名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(『鬼と山人と』)と述べて、穴と鬼の連想を明らかにしている。
いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉(『鬼の研究』)
馬場氏のいう「中国産の鬼」とは、漢字として「鬼(キ)」の、もともとの字義である「死者の霊」。折口氏が昭和の初めに「もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」として示唆する「もと」の鬼――日本古来の「おに」の存在が、馬場氏によって、「独自の土俗的信仰や生活実感」との限定を加えつつも、このように積極的に肯定されています。
馬場氏は、さらに同著のなかで、『日本書紀』から、「鬼」が「もの」とも訓を当てられた例を挙げ、補足します。
〈「彼(そ)の国に、多(さは)に螢火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」〉(『日本書紀』「神代紀」……『鬼の研究』中の引用部分)
〈ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「螢火の光(かかや)く神」や「蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神」あるいは、「ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)」がある草木などの総称である。つまり、これらの例によって知られる、よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすものが、〈鬼〉の概念に近いものとして認識されていたのである。それは、はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。〉(『鬼の研究』)
ここから、馬場氏がイメージしている、日本にもとからいた「おに」は、折口氏と同様、具体的には精霊や自然霊であることが伺えます。「目にも手にも触れ得ない」けれども、「感覚的に感受されている実体」という表現は、私が冒頭に述べた、「何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまった」という感覚と一致するでしょう。
しかしながら、これらを引用しつつ思うことが一つ。それは、私が、折口信夫博士の言説や、馬場あき子氏の解釈を受け入れているのは、そのものが正しいかどうかとは関係がなく、なおかつ、当然だということ。なぜなら、歌人である私は、一九六六年生まれ、お二人から見て、後の世代の実作者です。歌人として偉大な先達であられる人々の言説を、つづく世代の自分自身が、先達と共有すべき文化として、疑うことなく取り込んでいるのは、むしろ自然でありました。
ですので、この二人の識者の手柄において、すなわち、大陸の文化が入ってくる以前から、自然物の気配を精霊によるものとして感受し、「おに」と呼ぶことがあったと、日本にもとから「おに」と呼ばれる精霊の一身があったと、このように言葉にされていたことで、この章の冒頭に掲げた趣の気配を、私は、「そのように感じるようになった」のかもしれない、ということを、まず、特記しておきます。
⑴ 特記すべきこと
日本にもとからいた「おに」とは、きっと、精霊のたぐいだろう。――この論考を始めたとき、私は、そのように心づもりをしていました。
見通しのよくない道を歩いていて、袋小路に入り込んでしまう。山茶花の咲くのを目印にして出られたけれど、その次に通ったときには散っていて、また迷う。道を抜けてから、何かに遭ってしまった気分が残る。何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまったという、「体験」に類するできごと。――自然にまつわる、そのような感覚を、古代の人は、どのように表現したのだろうか、と。そして、それを、「おに」や「おに」に類する言葉によって、表現していたのではないかと。
折口信夫博士が、次のように書いています。(傍線筆者、以下同)
〈一体おにと言ふ語は、いろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈(カミクマ)とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。〉
「青空文庫」『信太妻の話』(折口信夫)から、表記を若干改めて引用しました。「青空文庫」の底本は「折口信夫全集 2」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第一」〈大岡山書店〉、1929(昭和4)年4月10日発行。
〈「おに」と言ふ語(ことば)にも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。〉
〈鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。〉
〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。〉
こちらも、「青空文庫」に公開されている『鬼の話』(折口信夫)から、表記を若干改めての引用。底本は「折口信夫全集 3」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第二」〈大岡山書店〉、1930(昭和5)年6月20日発行。
つまり、昭和の初め頃、折口信夫博士によって、だいたいこのように考えられていたのを、私は、自身の感覚に近いこととしてとらえていました。馬場あき子氏は、『鬼の研究』(三一書房)において、博士の言説について、以下のように考察しています。『鬼の研究』は、一九七一年です。
〈聖徳太子の母は、書紀その他に拠れば、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、穴穂部は安康天皇の名代(なしろ)として雄略天皇十九年におかれたものである。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。これにたいして、異母妹の磐隈皇女(いわくまのひめみこ)は伊勢の大神祠であり、夢皇女(ゆめのひめみこ)の別称をもっていた。いかにも夢占や巫言に長じていたことを推測させる名で、もし「神隈」という字を当てるとすればこの方の名としてふさわしい。しかし、「穴穂」という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったことも考えられる。折口氏もまた、「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通ひ路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などという名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(『鬼と山人と』)と述べて、穴と鬼の連想を明らかにしている。
いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉(『鬼の研究』)
馬場氏のいう「中国産の鬼」とは、漢字として「鬼(キ)」の、もともとの字義である「死者の霊」。折口氏が昭和の初めに「もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」として示唆する「もと」の鬼――日本古来の「おに」の存在が、馬場氏によって、「独自の土俗的信仰や生活実感」との限定を加えつつも、このように積極的に肯定されています。
馬場氏は、さらに同著のなかで、『日本書紀』から、「鬼」が「もの」とも訓を当てられた例を挙げ、補足します。
〈「彼(そ)の国に、多(さは)に螢火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」〉(『日本書紀』「神代紀」……『鬼の研究』中の引用部分)
〈ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「螢火の光(かかや)く神」や「蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神」あるいは、「ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)」がある草木などの総称である。つまり、これらの例によって知られる、よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすものが、〈鬼〉の概念に近いものとして認識されていたのである。それは、はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。〉(『鬼の研究』)
ここから、馬場氏がイメージしている、日本にもとからいた「おに」は、折口氏と同様、具体的には精霊や自然霊であることが伺えます。「目にも手にも触れ得ない」けれども、「感覚的に感受されている実体」という表現は、私が冒頭に述べた、「何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまった」という感覚と一致するでしょう。
しかしながら、これらを引用しつつ思うことが一つ。それは、私が、折口信夫博士の言説や、馬場あき子氏の解釈を受け入れているのは、そのものが正しいかどうかとは関係がなく、なおかつ、当然だということ。なぜなら、歌人である私は、一九六六年生まれ、お二人から見て、後の世代の実作者です。歌人として偉大な先達であられる人々の言説を、つづく世代の自分自身が、先達と共有すべき文化として、疑うことなく取り込んでいるのは、むしろ自然でありました。
ですので、この二人の識者の手柄において、すなわち、大陸の文化が入ってくる以前から、自然物の気配を精霊によるものとして感受し、「おに」と呼ぶことがあったと、日本にもとから「おに」と呼ばれる精霊の一身があったと、このように言葉にされていたことで、この章の冒頭に掲げた趣の気配を、私は、「そのように感じるようになった」のかもしれない、ということを、まず、特記しておきます。