「二二八八れ十二八れ」一二三神示上つ巻は、相反する二つを結び末広がれと初まります。
一二三神示地震の巻は、二日ンの巻と書かれ二の日になれと言っているように感じます。
地震の巻では、日月、太陽太陰、善悪、真偽、愛憎、美醜と存在を二極で現しています。
善悪・真偽や愛憎・美醜を結んで全ての存在が末広がれと受け取れると思うのです。
天津神と国津神の調和という視点からみるとこの世はその光をあまねく映すフイルムのように感じます。
命の親からわけみたまをいただき、生かされて育まれていることに気づいて欲しい。
赤は熱き想いを大地をはぐくむ魂が地震で知らせているように感じます。
一の世界は自分のつきをよくすることを願い。
二の世界では与えることが良くなるコツと気づく。
三の世界は育てはぐくむことが喜びとなる。
一の世界は自分がよくなること
二の世界では周りによくなること
三の世界では悪いことをよくなることに磨くこと
が至るために求められるように感じます。
二の世界までは、色々な方が目に見えぬ法則としてツキをよくするコツとして言われています。
三の世界は、
磨かずば玉の光は出でざらむ 人の心もかくこそあるらし
と明治天皇が詩に現しております。
苦労を経験しなければ磨かれ輝かないという。
絵画に光り輝きを描くには、汚れた部分を描き込むことで白が輝きを生み出します。
艱難辛苦が魂を磨くとはなかなか受け取りづらいことです。
心の中に神を生み出すことを願う一二三神示は上つ巻に
「苦労して神の結びを得た御霊しか掃除は終わらず」とあります。
論語八イツ編 12では、
祭如在、祭神如神在、子曰、吾不与祭、如不祭。
先祖の祭礼には先祖が正にそこに居られるようにし、神々の祭儀には神々が正にそこに居られるようにする。子は言われた。『私は祭礼に実際に臨席していないと、祭礼をしなかったような感じがする
論語には古代での祭りの意味を今につたえているように思います。
「 天の神 大地の神 内なる神が正にそこにおられるように祭られるといいな 」
そう想っています。