アサギマダラは日本から南西諸島を渡り台湾まで2000kmも移動する蝶
よく散策する函館山で9月末3頭もアサギマダラが、天女のように優雅に舞っていました。
例年ですと夏に1頭見かけるかどうかの珍しい蝶です。
時間を忘れるような優雅な舞から天女の時を運んでいるように感じました。
天女の時間から劫を連想します。
「3年に1度天女が舞い降りて羽衣でなで、岩山の岩を岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話です。
永い時間を示すたとえですが
岩の硬さが変わるとその時間が変わるように
時間とは相対的なもので、感じ方により変わるもの。
劫(こう)はインド哲学の用語では、
極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語のカルパ の音写文字「劫波(劫簸)」を省略したもの。
循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間とされています。
前回のブログの更新するときにそんなことも掲載しようと想っていましたが
何となく先送りしました。
ブログを更新した後にこんな記事もみてますに閑話が掲載されていたので
見てみますと、宮古島から色や形のイメージが涌いてくる
幾何学が宮古島の神のイメージを解く鍵など
非常に興味のある言葉が書かれています。
なんとなく、琉球には同じ古への先祖崇拝が形を変えて伝わっているように感じていたのですが
宮古島には先祖崇拝の波動が息づいていると驚きました。
ふだん使っている言葉に含まれない古への思考があまねくひろがるように感じます。
その波動が図形や幾何学をとおして閃きを産むように感じます。
そのためには
祀られる代々の先祖の魂を敬い崇める心がなければならないのでしょう。
その奥に命の親神様が結ばれている。
古へには、太平洋沿岸に広がる先祖を祀り、楽を奏で舞う文化があった。
そんなことを思っていたら
権力に捕らわれずに、先祖崇拝を伝える宮古島に巡り合えた。
そんな思いがします。
宮古島には古への祈りの心が伝えられていて
それは、日本の神道にも形を変えて伝わっているように感じます。
御嶽
沖縄ではうたきと読み先祖を祀る聖域として島にいくつもあります。
御嶽の名は日本でも御嶽山として
岐阜と長野の県境、兵庫県、長崎県、屋久島の山の各所にあります。
一番大きい岐阜と長野県境にある御嶽山は山岳信仰の山であり、通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山とされています。
宮古島と同じように先祖を祀っていた聖地が霊山として形式を変えて残ったのではと思ったりします。
御嶽神社は御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神としています。
国常立尊は一つの世界が消滅したときに鬼門に隠れられた神。
少彦名命は大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した。医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神などを産み出した神。
失われた世界の文明を連想させる神が祀られています。
宮古島を紹介する美らごはんのブログに
「空から振ってくる大きな爆弾はバカな人間が隕石を真似しただけ、機関銃による爆撃は
流星群を真似しただけ」天の働きを人殺しに使っていると聞かされたそうです。
個人的にこれは曾祖母が感じた事だと思っていたのですが、祖母の話では黄金の人が住んでいたといわれる先島諸島伝説と同じ頃からあるらしいと聞いたそうです。
日月神示にこの世は7度の建て替えがあったと示されていますが
失われたものにたどりつくのは難しいもの
ただ、インドの口伝であるマハーバーラタにも
誘導ミサイルの動きをする弓
火を噴くミサイル
空中に浮かぶ円盤
高速移動
色々な武器を用いて古代の戦争を伝えています。
現代の文明では難しい武器もあったりします。
でも視点を変えて
エジプトのピラミッドと同じように何千年も壊れない建造物を現代に作れるのだろうか?
視点を変えるともっと違った世界が広がるのかもしれません。
ひふみ神示では、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。
と書かれています。
難解な文章ですが何を想うかが命を授かる意味と伝えているように思います。
地震の巻 / (二曰んの○キ)
第八帖 (三八五)
生前の世界に、山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす・が歓喜していた、その・が生後、地上世界にうつされて、地上的束縛の下に生長し、秩序され、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相は・の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄する。
蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外 に遠く去ってしまう。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田 畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と 映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのであ る。しかし、地上世界は、物質的束縛によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から 永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を 有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない