図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

南風に舞う天女

2013-10-19 19:24:26 | 日記



アサギマダラは日本から南西諸島を渡り台湾まで2000kmも移動する蝶





よく散策する函館山で9月末3頭もアサギマダラが、天女のように優雅に舞っていました。
例年ですと夏に1頭見かけるかどうかの珍しい蝶です。
時間を忘れるような優雅な舞から天女の時を運んでいるように感じました。
天女の時間から劫を連想します。
「3年に1度天女が舞い降りて羽衣でなで、岩山の岩を岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話です。
永い時間を示すたとえですが
岩の硬さが変わるとその時間が変わるように
時間とは相対的なもので、感じ方により変わるもの。

劫(こう)はインド哲学の用語では、
極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語のカルパ の音写文字「劫波(劫簸)」を省略したもの。
循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間とされています。


前回のブログの更新するときにそんなことも掲載しようと想っていましたが
何となく先送りしました。

ブログを更新した後にこんな記事もみてますに閑話が掲載されていたので
見てみますと、宮古島から色や形のイメージが涌いてくる
幾何学が宮古島の神のイメージを解く鍵など
非常に興味のある言葉が書かれています。

なんとなく、琉球には同じ古への先祖崇拝が形を変えて伝わっているように感じていたのですが
宮古島には先祖崇拝の波動が息づいていると驚きました。

ふだん使っている言葉に含まれない古への思考があまねくひろがるように感じます。
その波動が図形や幾何学をとおして閃きを産むように感じます。
そのためには
祀られる代々の先祖の魂を敬い崇める心がなければならないのでしょう。
その奥に命の親神様が結ばれている。

古へには、太平洋沿岸に広がる先祖を祀り、楽を奏で舞う文化があった。
そんなことを思っていたら
権力に捕らわれずに、先祖崇拝を伝える宮古島に巡り合えた。
そんな思いがします。
宮古島には古への祈りの心が伝えられていて
それは、日本の神道にも形を変えて伝わっているように感じます。



御嶽


沖縄ではうたきと読み先祖を祀る聖域として島にいくつもあります。

御嶽の名は日本でも御嶽山として
岐阜と長野の県境、兵庫県、長崎県、屋久島の山の各所にあります。

一番大きい岐阜と長野県境にある御嶽山は山岳信仰の山であり、通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山とされています。

宮古島と同じように先祖を祀っていた聖地が霊山として形式を変えて残ったのではと思ったりします。
御嶽神社は御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神としています。
国常立尊は一つの世界が消滅したときに鬼門に隠れられた神。
少彦名命は大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した。医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神などを産み出した神。
失われた世界の文明を連想させる神が祀られています。

宮古島を紹介する美らごはんのブログに
「空から振ってくる大きな爆弾はバカな人間が隕石を真似しただけ、機関銃による爆撃は
流星群を真似しただけ」天の働きを人殺しに使っていると聞かされたそうです。
個人的にこれは曾祖母が感じた事だと思っていたのですが、祖母の話では黄金の人が住んでいたといわれる先島諸島伝説と同じ頃からあるらしいと聞いたそうです。

日月神示にこの世は7度の建て替えがあったと示されていますが
失われたものにたどりつくのは難しいもの
ただ、インドの口伝であるマハーバーラタにも
誘導ミサイルの動きをする弓
火を噴くミサイル
空中に浮かぶ円盤
高速移動
色々な武器を用いて古代の戦争を伝えています。
現代の文明では難しい武器もあったりします。
でも視点を変えて
エジプトのピラミッドと同じように何千年も壊れない建造物を現代に作れるのだろうか?

視点を変えるともっと違った世界が広がるのかもしれません。


ひふみ神示では、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。
と書かれています。

難解な文章ですが何を想うかが命を授かる意味と伝えているように思います。

地震の巻 / (二曰んの○キ)

第八帖 (三八五)
 生前の世界に、山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす・が歓喜していた、その・が生後、地上世界にうつされて、地上的束縛の下に生長し、秩序され、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相は・の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄する。
蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外 に遠く去ってしまう。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田 畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と 映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのであ る。しかし、地上世界は、物質的束縛によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から 永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を 有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない



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目に見えぬものの力

2013-10-04 17:54:32 | 日記


NASA などで「この 100年間で最も弱い太陽活動最大期」と言及するようなことになっているところに、 9月 29日太陽の大爆発と CME (コロナ質量放出)がありました。

宇宙天気情報センターのトピックスでは
2013年9月29日22時UT頃に大規模なフィラメント消失に伴って発生したコロナ質量放出(CME)により、プロトン(太陽高エネルギー粒子)現象が 9月30日5時5分UTに発生し、9月30日20時5分UT頃に最大182PFUとなり、10月2日5時UT頃に終了しました。また、このCMEの影響に より、柿岡地磁気観測所によれば、10月2日1時55分UTに急始型の地磁気嵐が発生しました。[更新2013.10.3]

2日に地磁気嵐による今までにないようなオーロラが発生し
この地磁気の異常は新月である明日5日まで続くと予想されています。





10月2日といえば天照大神を祀る伊勢神宮内宮での遷御の儀が執り行われ
明日5日は伊勢神宮外宮で遷御の儀が執り行われます。




太陽神である天照大神の遷御の儀に
太陽に起こったことが地に示されるとは何かを象徴しているようです。

伊勢神宮と出雲大社は古来の格式と伝統を伝えています。
そのことが、総氏神様と総産土様を日本の心に産み出すのでしょう。

科学的とされるNASAの予想は
今年が太陽活動の最大期とされていたのが、太陽活動が最低期に入り
100年でもっとも弱い太陽活動と修正した後、最大の爆発が発生

現代の科学への幻想を天地自然が示すかのようです。
ビッグバンの初めより古い惑星が発見され、
神の粒子ヒックス粒子も可能性を示すことしかできていない。

科学的と呼んでいるものは
目に見える限られた空間や時間の中の思考
限られた環境以外では逆の効果になってしまう。

50年ぶり100年ぶりの天地自然の異常は
限られた思考から踏み出すことを示しているのでしょう。


目に見える世界が目に見えぬ世界と結ばれているとするひふみ神示では

 地震の巻 第一帖 (三七八)
 われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。只存在するものが生れに生れつつある。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠ではない。

第二帖 (三七九)

目に見えぬ世界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、魂は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の魂となれば、自由自在の状態におかれる。生存時に偽りのなかった魂は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。偽りの生活にあった魂は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な 力を益々発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、魂は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみ の世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、 歓喜である。

古への世界では神殿において目に見えぬ世界を思考していたように
目に見えぬ世界を祀ることで目に見える世界が産まれるのでしょう。

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