図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

コオロ コオロ 結ばれて

2013-05-24 13:58:35 | 日記






ひふみ神示 地震の巻 第八帖 (三八五)

 生前の世界に、山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす誠が歓喜していた、その誠が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相は誠の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その誠を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的誠に向って弥栄する面と、外的、地上的に進む誠と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する誠と、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。故に、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化とし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有せんは無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。

物質文明のなかで暮らす今の思考ではわかりにくい日月神示
特に地震の巻は難解です。
律動する線で示されているのは概念では伝わりにくいので
イメージで伝えているように感じます。

地震の巻 8帖の点描から同じイメージを
五十黙示録 第03巻 星座の巻 第一帖 に感じます。

 この巻「星座の巻」。偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。

有限と無限は必然で結ばれているということでしょうか。

有限である物質のみの思考では天地の運行は測ることができない

古への人は太陽に天のぬくもりを感じ

大地に地のぬくもりを感じていたのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

300年先に光輝く

2013-05-09 11:54:18 | 日記


日月神示の降ろされた時代背景の中に
終戦直前の昭和20年の夏のある日、終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺う事を天明に促し求め、かなり殺気だった雰囲気に包まれたと言われている。しかし、それは天明の賢断によって無事に回避されたという。その判断とは「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語った事と、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせた事であった。
神霊の答えは「それはならぬ」だったという。

軍関係者の善悪の判断が日本の行く末を決めるという当時の日本の状況を示しています。

軍が政治介入する危険を昭和3年より「天の声」として聞いていた人物がいます。
名もなき一青年が内閣書記官長鳩山一郎先生を通じて政府に提出しています。

謹告分
親和会会長 出居清太郎
陸海軍が政治を統率することは天測違反あります。もし陸海軍があくまで政治運動を起こし、活動するときには日本国民は滅亡します。陸海軍は国家の千城として国民を守ることが本務であって、国民の生命、財産を支配する権利はありません。国民の代表となって選ばれている国会議員によって政治を行うのが天測です。
<中略>
東京市内は到る所に地下道を建設、湘南地方には地下工場建設。満州に移民するよりも北海道に移民して北海道を開拓し、ここに文化をきずきあげることが天の啓示であります。
もし将来、陸海軍が戦いに敗れたときには、占領した満州も台湾も、いかに努力して建設いたしましても、お返ししなければならないのが理の当然であります。

しかし、治安維持法の言論弾圧のなか、天意に沿うために刑務所の出入りを繰り返します。
それは、昭和20年8月15日まで要注意人物として特高警察につけまわされます。

ただ当時の日本では、満州進出の好景気から軍隊の進出を好意的に受け取ることが流行りになっていきます。
また、昭和20年8月15日以降はGHQから国粋主義者の危険を調べられます。
そんな中で、21年正月、捧誠会 本部浄会において日の丸を掲げ君が代を斉唱しています。
当時GHQの政策のなかで、誰もが日の丸を旗を忘れ、君が代を葬り去る流れに対し、国旗を捨て、国歌を捨てて、国民の平和があるのか、たとえ多くの国民が誤りに陥って反省せずとも、捧誠会だけは守り抜いていかねばならぬ。
これは「道を守る」ことであると信じ実行しています。

命の親からの天の声に誠をつくし、実行されています。

その天稟の才により、空襲の被弾や家の問題など多くの人の危機の一線を救っております。
それは、出居清太郎氏は魂の救済をするために救いの手をさしのべたのであるが、現実の救済だけに気をうばわれて、魂が救済されたことに殆んどといっていいくらい気付いていないと、苦しい述懐をされています。

その原因は、物質を獲得することに重点をおいて過去何千年来、戦ってきた結果、精神を養うことを忘れてしまったこと。

幸福と平和を確立するためには、生活を改善して“物心一如”にならねばなりません。

精神がうごいて肉体がうごき、それから物がうごく。

これすなわち、一、二、三の順序で、肉体や物を動かす根源は精神である。

それにもかかわらず、反対に物によって肉体が動き、肉体によって精神がうごいているような逆の行動が行われるから平和が破壊される。

戦前戦後の日本を、軍国主義やアメリカ迎合主義として文化の未熟な段階として捉え、未熟な段階からさまざま情報を所有できる成熟した文化に発展してきたと考えるのが正当な日本の捉え方とするのが一般的な考えのように思います。
ですが、
結果から人を評価し、人を育てることに投資しない今の社会状況が軍国主義やアメリカ迎合主義より発展した発想といえるのでしょうか?

物によって肉体が動き、肉体によって精神が動くという逆の発想が、
今の疲弊する社会を産み出しているのではないでしょうか。

一二三神示の「みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ」と同じことを出居清太郎氏は生きて見せてくださっているように感じます。

一二三神示に天明アホーになれよ、神懸りにくいぞとあるように
岡本天明氏は天の理を書きしるすお役
地の人のなかに理をもとめた出居清太郎氏は
地の理を示すお役

いみじくも生まれた日が
岡本天明氏    明治30年12月4日
出居清太郎氏    明治32年12月3日

一二三の数霊がさきはふかのようです

一二三神示五十黙示録 第06巻 至恩の巻第十帖

 国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。

12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】
裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ

九は光となり天に昇ることの象徴
十は地に溶けいり透になることの象徴

今の時代はテロの発言さえしなければ何も取り締まられはしません

世界中の情報を共有することができます

ですが

「精神がうごいて肉体がうごき、それから物がうごく。

これすなわち、一、二、三の順序で、肉体や物を動かす根源は誠の神である」

ことに気づかないと

物によって肉体が動き、精神が動いていては平和が訪れることはない。

昭和30年代に出居清太郎氏は、このみおしえが光かがやくのは300年後であると話されています。

今からすると約250年後

○ のなかに点(天)をいれるためには

筆による、ほそいほそい線からいれてゆっくりゆっくり筆をおろし

大きくかえるチョンには

250年の時間がかかるのかもしれません

明日の新月の日に出雲大社は平成の大遷宮 遷座祭が祀られます。

チョンの線が進められます

天地(あめつち)の神に感謝
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする