図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

 秋分 二つの日

2011-09-23 17:49:40 | 日記


日月神示 うへつまき 第四帖 (四)
 急ぐなれど、臣民なかなかに言ふこときかぬから、言ふこときかねば、きく様にしてきかす。神には何もかも出来てゐるが、臣民まだ眼覚めぬか、金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。早く神祀りて呉れよ、神祀らねば何も出来ぬぞ。表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力出ないのぞ。お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。この神をまつるのは、みはらし台ぞ、富士みはらし台ぞ、早く祀りてみつげを世に広めて呉れよ。早く知らさねば日本がつぶれる様なことになるから、早う祀りて神の申す様にして呉れ。神急けるよ。上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、上下揃ふたよき世が神の世ぞ。卍も一十もあてにならぬ、世界中一つになりて神の国に寄せて来るぞ。それなのに今のやり方でよいと思うてゐるのか、分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと云ふことまだ分らぬか。神と人とが交流(まつり)合はしてこの世のことが、さしてあるのぞ。人がきかねば神ばかりで始めるぞ。神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀そうなから、臣民みなやり直さねばならぬから、気をつけてゐるのに何してゐるのざ、いつ何んなことあっても知らんぞ、神祭第一、神祭結構。二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ。コハナサクヤ姫様も祀りて呉れよ。六月十三の日、ひつくのか三。

日月神示では人と神の結びを祀る世界にすると書かれ、人と神の結びが生まれぬなら可哀想なことが起きると示されているようです。
それが地震であり、津波であり、原発の暴走であり、山崩れであり、水害でもあり、神の結びに気付かぬのなら常識を覆すようなことが次々起こるということのようですね。
金のいらぬ楽な世を想像できる方がいるでしょうか?
生活が物やお金に基づかぬ生活を想像できるでしょうか?
そのためには神の結びを早く気付かねば何もできぬと思えるでしょうか?

人の常識とは、様々に異なるもの。
あたりまえと思っている状況がそのまま続くのでしょうか?
現代は物と通貨によりITを駆使すれば、市場経済として世界共通のルールが成り立つという幻想の上に動いていますが、ユーロやドルの流動性が失われたら物やお金に基づいた常識は消し飛んでしまいませんか?
共産主義圏が2000年までに崩壊するとインド出身のアメリカの経済学者ラビバトラが書いたとき、誰もがありえないと考えていました。バトラ師は2010年までに資本主義は崩壊すると書かれています。時は過ぎていますが、崩壊を起こす貿易や通貨の矛盾が解決する方向へ進んでいるのでしょうか?
お金や物が豊かになっても心が満たされぬと気付いても、心を満たすものを見い出せず鬱になる人が身近に増えています。
自分の主張を通せるとそれでよいと考える人もあちこちにいますが、昔の人が見たなら天に借金をしてカルマをつくる気の毒な人と思うのでしょう。
卑弥呼は、鬼道を用い人心を惑わしたとされますが、黎明期の中国道教のことを鬼道と記され、儒教には先祖は鬼となり畏れ敬うものとされています。
20世紀、アメリカの夢が世界を豊かにしてきましたが、今は富の格差を生み、テロを産み出しているのでは?
古への時代は広く自然を崇拝し、聖なるものの存在を大切にすることがあたりまえであり一神教が広がる五百年ほど前までその国の神を祀る長い長い歴史があるのです。
あたりまえと思っていることが先祖代々の生きた結果として生まれ、先祖代々をたどってゆくと国の神さらにたどると命の親に結ばれている。
古への時代では一神教の概念からすると原始宗教とされた先祖を敬い、自然を敬い、命の親を敬うことですべてが調和することを祈っていた。

常識は簡単に覆るものかもしれません。
足元にある大地、自然、雨、風、空、太陽すべてに育まれています。
分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと神示にあるように、たづねてみると雲の中からお天道様が微笑んでくれたりします。

            


始めに掲載した画像は日月神示 二日んの○キ 第十一帖の線に色を重ねました。
第十一帖 (三八八)では、
 人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にいる人の言葉は、何れも同一であって共通する。人の言葉は、人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。
言葉そのものが弥栄であり、生命である。また総てであるということは、人には理解できずらいであろう。だが、人も それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽の○(ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。
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