2015年壮瞥町で作られた、有珠山の百年間噴火の写真資料のタイトル 「生きている大地で生きる」
三松正夫記念館の入り口に飾られた、昭和新山への思いが込められた
自然の神秘にふれて
昭和新山の記録を残した三松正夫氏
国民全てが戦争に目を向けさせられていた時
一人、火山に向き合った人。
昭和新山物語の紹介文の中で
あらためて自分が生活しているこの大地
この自然の神秘、不思議さに心ひかれ
未知のなにかを感じ
「自然を愛するということの意義を気付いて欲しい」と書かれています。
郵便局長をしていた三松正夫氏が「火山気狂い」といわれるほどまで、
昭和新山にかけることになった
ただ知らず知らず三松正夫氏の中で育っていたなにかが
眼をさまし、軍人に反対されても猛然と氏をふるいたたせた。
生きている山 アシタヌプリ(アイヌ語) 有珠山
山や自然の妖精と会話していたアイヌ
動植物、生活道具、自然現象(津波や地震など)、疫病などがそれぞれ霊性を備えていると考えており、これらの事物には「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。
また世界を自らの住む現世(アイヌモシリ)とラマッの住む世界(カムイモシリ)に分けて理解し、ラマッは様々な事物に宿り、何らかの役割を持ってアイヌモシリにやって来ていると解釈した。
ラマッはその役割を果たすと再びカムイモシリに戻るとされた。
またアイヌの神々は絶対的な超越者ではなく、カムイが不当な行いをした際にはアイヌ側から抗議を行うということもあった。
津波や地震はラマッが宿り
ラマッが現世にある役割を持って現れる。
自然を愛する意義とは
神に秘められた、未知なるなにかを求めること
ギョベクリ ・ テペ遺跡
今から20年ほど前の1994年に、トルコの一農夫が偶然掘り当ててしまった古代遺跡、ギョベクリ・テペ。
異常に古い:
放射性炭素年代測定法によって1万1千年から一万2千年の間のものであることが証明されている。
神殿である:
居住空間、つまり村や都市ではなく、神殿、つまり “宗教的、呪術的意味をもつ施設” と推定される。儀式、祭礼のための施設であった可能性がある。居住生活の痕跡がほとんどない。
素朴であるが、高度な技術:
ストーンヘンジよりも5000年以上さかのぼるにもかかわらず、ストーンヘンジよりも複雑で、より洗練されたスタイルを持っている。
●金属器以前の新石器時代に属する:
金属器を持たない狩猟採集民による建造物である。石の切り出し、石の彫刻には金属の道具ではなく、石器が使われたと考えられる。ちなみに土器も見つかっていない。
ニューズウィーク誌はこう評しています。
「シュミット氏の説は単純かつ大胆である。信仰の欲求、それこそが人類を協力させ、歴史上最初の都市型生活へと導いたのであった。この神殿を建設し、管理する必要性こそが彼らに安定した食糧源の確保、つまり穀物栽培や家畜の飼育に駆り立てたのである。そして、自分たちの新しい生活様式を堅持するために定住生活へと移行したのである。つまり、神殿が都市を生んだのである。
自然の神秘を祀ることが文明を産出す
人が一番初めに願ったことは、未知なる神秘に心を捧げること
様々な命を産出す源に誠を捧げる
今
自然の神秘に巡り合って
命の源を思考するプロセスが有るだろうか
マルタ島に約30の巨石神殿が発見され、一番古いものは紀元前4500年から前4100年頃のものとされていて、6つの神殿が世界遺産に登録されています。
ハジャー・イム神殿
ハジャー・イム の意味は、 聖なる石
イムナイドラ神殿
年に2回、春分の日と秋分の日の朝のみ、この正面の門から垂直に太陽が昇って見え、さらに光は正門の対角奥に位置する支柱を照らします。
豊穣の儀式などが行うために設計されていた
石器時代や縄文時代に発掘される豊穣のビーナスも幾つも
命の豊穣を祀るビーナス
その祭壇にはすでに渦模様と唐草模様
ハジャー・イム神殿とイムナイドラ神殿のもう一つの魅力が、地中海を臨むロケーション。
小高い岩の丘に建てられており、イムナイドラ神殿へと下りていく坂道では、地中海の青さが目にしみます。古代の人々も同じ景色を目にしていた。
石を拝み
太陽を拝み
自然の恵みを拝む
自然を拝むことが、命の恵みを産む
その形が渦であり、唐草模様
自然の動きと、人の動き
パルミラ遺跡の破壊の記事が気になるので検索してみると
パルミラの近くからは、約7万5000年前の旧石器時代の石器が発見されている[2]。ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代ごろの粘土板からもこの都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっている[1]。
旧約聖書の歴代誌第二、8章4節では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている[3]。列王記第一の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードやミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかではこの街をシリア砂漠にあると記している。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシア語のパルミラの名も併記されている。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれる。
タドモル(パルミラ)の人々はアラブ人であったが、アラム語の方言(パルミラ語)を話し、アラム文字を手直しした独自の文字(パルミラ文字)を用いていた。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残る。
シュメールは常備軍を持つアッカドにより、武力による覇権の移行が行われ
ソロモンの栄華を誇る古代イスラエルさえも亡国の道を進む
武力による進行で国が滅び難民が生まれる
イラク、シリアの難民はカルマの転写?
市場経済の象徴西ドイツに道を求めるものは、行き詰まり
どの地にいくと古への統べる菊の紋章に至るのか
「形成期」に属するいくつかの遺跡に共通することは、経済的基盤や政治権力が整うより先に、先ず神殿の建設があり、それを通して次第に社会の構造が複雑化していったとみられている。
しかし、従来の文化の繁栄の常識は、覇権を勝利することで産まれている
その渦の中では流されるのみ
反対の思考と交わる時は、立体的思考
命の豊かさを求める道はどこなか
心の底に問うてみる
龍の首がもたげた熊本の地震
命の源を祀ることとは何か?
地震のラマッの役割は何か?
心の底に誠を尽くし
自然の神秘に
何かを
感じる時
悪を抱きまいらせよ
と語りかける日月神示
第二次世界大戦
ムッソリーニは、人種主義よりも民族主義に重きを置き、イタリア化による民族浄化を植民地や新規領土の同化を推進することにより人を動かした。
ヒットラーはムッソリーニを当初尊敬していたが
ムッソリーニはヒトラーとの初会談が行われた際、「血の巡りが悪い男だ」と述懐している。
強力なリーダーシップやイタリアの経済を一時的に立て直したこと、なめらかで力強い弁舌、そしてその気さくな人柄などから、第二次世界大戦前までは国内外で高い評価と人気を得ていた。
1930年代当時のイタリアのジャーナリストは「女学生たちは、映画スターのように彼にあこがれてしまい、彼の言葉はすべての人が読めるように、村の壁に大きく書かれた。・・・
町の広場に集まって、彼の演説を聞いている群衆を見た人は、その光景を決して忘れることはないだろう。モザイク細工の部品のように、ぎっしりと頭が並び、すべての目は一つの焦点、すなわち、彼が演説しているバルコニー、スタンドに向けられているのだ。
政権奪取後独裁が顕著になるまで、イギリスやアメリカなどの民主主義国家でも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあった。
ムッソリーニが提唱したファシズム
「統一による力」で、1本のロッドは簡単に壊れるが、束になると容易に壊せないことに由来
権力を独裁することで、強力な軍事経済を作ろうとした。
イタリアの軍事力・経済力の劣勢から戦局が振るわず、失脚・処刑
遺体は生家のプレダッピオに記念碑を作りそこへ改葬された。現在でも記念碑は、ムッソリーニを好意的に評価する人々による献花が絶えないことで知られている。
ヒットラーはカルマが大きそうなのでムッソリーニの言葉から拾うと
ナチスとの論争は、ナチスは文化的統合を重視するイタリア・ファシズムは生物学的な純化を棄却しており、「白人(アーリア人種)の雑種化」に貢献していると批判した。対してファシスト党は(ヒトラー自身も認めるように)ナチスが蔑視するところの「スラブ」との境目に位置し、またイタリアと同様に統一が遅れたドイツにどれだけの「純粋な血統」があるのかと批判した。ムッソリーニ自身も「アーリア人種について」という1934年の演説でヒトラーを辛辣に批判している。
「ユダヤは古代ローマの頃からその土地に居る」として、ユダヤ系イタリア人がイタリア社会にとって既に不可分であると述べている。
アーリアン学説 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。
サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。ショーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた
サンスクリット語は近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには東南アジアや東アジアにも影響を与えた。
大東亜戦争という発想
ジョヨボヨ王の預言
「わが王国はどこからか現れる白い人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。白い人の支配は長く続くが、やがて北方の白い衣をつけた黄色い人が白い人を追い出し、ジャゴン(とうもろこし)の寿命の間、この地を支配した後に“ラトゥ・アディル=正義の神”の支配する祝福される治世がくる」
■インドネシア スカルノ元大統領
「我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである」
■戦後タイの首相になったククリット・プラモート元首相
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。
われわれはこの日を忘れてはならない」
マレーシアのラジャー・ノンチック上院議員
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」
「かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。
アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。
かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。
しかし東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。
インドは1947年に独立。それまでのイギリスによる植民地支配に終止符を打ちました。
この少し前に、インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。
「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。
インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。
インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」。
スリランカではお釈迦様の入滅の2500年後に「ジャヤ・セーナ(勝利の戦士)」という名の人が、東のほうから来て仏教を助ける、いう言い伝えとがありました。
スリランカも同じように昭和17年(1942年)4月に日本軍がコロンボとトリンコマリーを空襲したときに「遂にやってきた」と歓迎したといいます。
戦争の迷宮に突き進んだ第二次世界大戦
壮大な山々に囲まれたデルフォイのアポロン神殿は,強力な神託を得られる場所であったことから,古代ギリシャ世界では最も重要な聖地とされていた。将軍たちは戦略について神託にうかがいをたて,遠征隊がイタリアやスペイン,アフリカに向かって出帆する前には神託に導きを求めた。
ピュティアに選ばれた女性は,神殿で永遠の聖火を守る巫女たちに支えられ,長く厳しい訓練を受けた。
伝承では,強力な神託によって予言的霊感を授かるのは,地質学的現象によるものとされていた。地球の裂け目から湧き出る泉とガスが神懸かり状態を作り出すと考えられていたのだ。
1980年代、地質学者のデ・ボーアは,聖所の東と西に断層面が露出していることに気づいた。デ・ボーアはそれらをパルナッソス山の南斜面に沿って走り神託所の下を通る断層線を示すものと解釈した。
デルフォイの神殿入口には、神託を聞きに来た者に対する3つの格言が刻まれていたとされる。
(gnōthi seauton) - 「汝自身を知れ」
(mēden agan) - 「過剰の中の無」(過ぎたるは及ばざるがごとし、多くを求めるな)
(engua para d' atē) - 「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)
神がかりになったデルポイの巫女(シビュッラ)によって謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。
ひふみ神示
五十黙示録 第01巻 扶桑の巻
第十五帖
天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、
時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、
地そのものが変ってゐるのであるぞ、
自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。
心の底に響く言葉が、大地から聞こえてくるといいですね。
渦模様について書こうとは思っていたのですが、別な流れになり書ききれませんでした。