神や貴人の名前の下につける尊称。 「素戔嗚(すさのおの)-」 〔日本書紀では,「尊」を最も貴いものに,「命」をその他のものに使う〕
みこと ( 御言 )
言 ( こと ) を敬っていう語。神・天皇・貴人などの言葉。おおせ。御命令。
言霊は、御言から産まれる命のはたらき
五郎丸ポーズに似ている植芝盛平氏の写真以来よく見ている武産通信ブログ
日本における神道の精神が書かれているように思います。
天地の聲(あめつちのこえ) 植芝盛平
物の霊は魄とこういうんです。魂魄の魄です。あの人は魄力があるから偉いとこう言うんです。その魄力の世界は偉くないのや、実はな。魂(こん)の世界じゃなきゃ、魂(たましい)の世界が出て来なきゃ。いやしくも日本の国は精神の王国である。然るに魄ばかりじゃいかん。魄は物です。物の霊は魄という。肉体は物質です。この間(あい)に魄という物質に添うたところの霊があった。それで二つ合い寄って力というのが出来る。この力を魄力とこういうた。魄力は寿命が短いですよ。魂力は反対です。そこで何故、魂(たましい)という。魂力(こんりょく)も、魂(たましい)も、魂の緒(たまのお)も一つです。
何故、植芝の爺がそういうことを言うのか、意図があります。この世界はひとりの創り主によって創られた。最後に人が創られたんでしょう。人類発生の端緒というものは、日本においてはやな、五男三女神(天照大御神と須佐之男命の宇気比によって生まれた神々)をもって骨子としている。近江の国に歴然と、今なお痕跡を残しておる。
それで、この自身は霊というもののやな、創り主の直霊である。即ち、直なる分御霊(わけみたま)である。これを宗教家は本守護神と呼ぶ。これが自分なのです。この肉体の、肉と、霊と、魄との間において、この上にですね、自分自身というものは磨いていくんです。無論、この肉体のおこる六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という、藪医者なんかがいう、六根清浄というでしょ。その六根を磨いた上に自分を乗せるでしょ、それでこれを畑とし、これを神籬(ひもろぎ。神霊が天下る木)とし、これを磐境(いわさか。神が降臨するための石を築きめぐらした祭祀場)とし、地場(じば。神が宿る場所、土台)として、修行の道場として自分自身がこの上で修行する。この植芝もともに一つになって修行できた暁に起こる伊都能売の御霊(いずのめのみたま。伊耶那岐が禊したときに化成する神)とこうなるんです。本当の大和魂の力を出すのです。そうなったら全大宇宙を今度は地場とし、磐境とし、修行の道場として、今度は大宇宙へ溶け込んでしまう。大宇宙と自分は一つになってしまう。それでこそ、はじめて人生があるのです。その、そうなる修行がどういうことかというと、合気道が一番近い道です。
日月神示 地震の巻 16帖では
第十六帖 (三九三)
考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度 死の関門をくぐり、肉体をすてた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それは直ちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。
大宇宙と自分が一つになる
命は、命の親様に内奥で結ばれているから一つになることができる。
古へには一なるものに結ばれた思考があった。
人工の物だけでは、大宇宙に結ばれることが無く
命を尊び、実る言葉から遠のいてしまう。
天の気は、フィジーで風速90mのサイクロン
2月の日本は大雨と大雪
寒気と暖気の攻めぎ合い
天地の聲は自然の中に命が結ばれていると囁いているようです。