最近 宵の明星が気になっていたら
金星 三日月 武井(ムイ)の島の写真が撮れました
満ち欠けする金星
淡い三日月 武井の島
なにげなく夕陽を撮影していたら
三日月が見え、金星が輝いてきました
太陽、月、金星の順番で明るく見える星
金星は、ローマ神話よりウェヌス(ヴィーナス)と呼ばれ、
メソポタミアでその美しさ(明るさ)ゆえに美の女神イシュタル(アッカド語)、イナンナ(シュメール語)の名を得て以来、
ギリシャではアフロディーテと呼ばれる星
宵の明星、明けの明星である金星は
人の暮らしに律動をもたらす太陽と月と同じ作用が有るような
朝夕の光あまねく変化を照らす星
武井(ムイ)の島の伝説に
昔, この海域にムイ (オオバンヒザラガイ) とアワビが雑居していたが,アワビは貝殻で武装していないオオバンヒザラガイのことを骨なしの意気地なしと軽蔑していたが, ムイのほうも固い岩のような家をかぶって這い回り, 話をかけても, 顔も見せずに返事をしないアワビを頑固者として毛ざらつけていた。これが原因となって両方の間に戦いを起こした。海底での戦いは容易に勝負が決まらずお互いの損得が多いので, 話し合いの結果, 仲直りをし, このムイの岩礁を境にして西はアワビの領地, 東はムイの国として住むようになった。オオバンヒザラガイは世界最大のヒザラガイ類 (八枚の貝殻を持つ貝) で, 約40cmまで成長します。八枚の貝殻がバラバラになって, 海岸に打ち上げられることがあります。貝殻はチョウチョのような形をしていて, とてもかわいいものです。実は, オオバンヒザラガイの貝殻は軟体部に隠れていて, 生きている状態では, 外側から貝殻を見ることは出来ません。
武井(ムイ)の島の西側には鮫穴という洞窟があり、タコとサメがけんかしてタコが負けて去っていったという伝説も残っている。
この穴は、陸地にある丸山龍神の穴とも通じていたともいう。
武井の島近海が、寒流、暖流の接触、交錯する海域で、寒暖両海流の魚類の豊富な魚田である
武井の島のマンジュウ形の岩の頂上に、小さな祠(ほこら)があり、戸井町や近村の漁師たちは、「弁天さん」といって信仰している。この弁天さんの例祭は六月二十五日で、例祭には戸井町や近村の漁船が、大漁旗などで満船飾(まんせんしょく)を施してこの島に集り、盛大なお祭りを行い、海上安全と豊漁を祈願している。
弁天さんが武井の島について、次のようないい伝えがある。
「大阪の富豪『鴻(こう)の池』が、蝦夷地と交易をしていた、慶応三年頃(一八六七)、持船第二宝永丸に、鮭を満載して、年の暮も近い頃、石狩川の川口の入江を出帆した。出帆以来順風を満帆にはらんで南下したが、白神岬附近で暴風に遇い、風のおさまるのを待って箱館の港へ避難しようとして、福島沖に碇を下したが、碇綱が切れてしまった。船は西からの強風うをけ、更に津軽海流に乗って、カイもきかず、『アレヨ、アレヨ』という間に、箱館山を通り過ぎてしまった。船頭並に乗組員は、運を天に任せ、神仏に無事を祈った。
不安と恐怖におののいている船人にかかわりなく、「情知らずのヒカタ風」が益々吹きつのり、潮流もいよいよ激しくなって、船体をゆさぶり、やがて汐首岬を越えて、武井の島附近にさしかかった。
ところが武井の島沖に来たら、潮も風も浪もウソのようにおさまり、日浦の入江に漂着し、船も破損せず、船組員も全員無事であった。
ヒカタの突風は、時が来るとピタッとウソのようにおさまるものだし、東流する潮流の終点は戸井沖なので、この二つが武井の島沖で、偶然一致したのである。
太平洋に漂流して死ぬことを覚悟していた、第二宝永丸の乗組員の眼には、武井の島が神の島に見えたものであろう。乗組員一同が協議して、武井の島に感謝する意味で、船の舳先(へさき)に、守護神として祀っていた『弁才天』の神像を、武井の島に移し祀って、蝦夷地を去ったのである。
遠い蝦夷地の昔からムイノシマと呼ばれ、「無意の島」「武委の島」などという漢字の当てられた時代もあった
ムイの島は二つの異なるものの調和の象徴でもありそうです
武は調和をもたらすために使用するもの
新型コロナウィルス発生した武漢
真の調和の意思が試されているのか