図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

いにしへから残されたもの

2020-02-24 16:35:33 | 日記


旧石器時代の石器



以前 静川縄文遺跡を訪ねた時に寄った苫小牧美術博物館

旧石器時代からアイヌ時代まで体系的に展示されていました

帰ろうとしたらどしゃぶりの雨になり駐車場まで遠く

三回ほどじっくり見直し写真を撮っていました



縄文には磨製石器があり







北海道で弥生時代の時期にあたる続縄文時代の石器







見た目には同じように見えます





世界中で使われたスクレイパー






皮を切ったり、木や骨を削る

皮の裏側に付いた脂肪を掻き取る、皮なめしの道具


北海道では旧石器時代から8世紀頃まで使われていました



土器も縄文早期、前期、中期、晩期





続縄文時代、擦文時代の土器






北海道以外の人はなじみがないと思いますが

続縄文は弥生時代から古墳時代

擦文時代は飛鳥、鎌倉時代

擦文時代は鉄器も日常品に使われはじめ

煮炊きにも鉄器を使うアイヌと融合

土器は使われなくなった

サロマ湖近くの登呂遺跡では旧石器時代からアイヌ文化までの遺跡が散在している



イヨマンテ 熊送りの儀式






すべてのものに魂がやどり神として敬ったアイヌ







コシャーマインの乱から衰退してゆくアイヌ



同じころ太陽の神を祀るインカ帝国、アステカから


キリスト教の名のもとの西欧支配のはじまり


そんな時代の流れを変えるような武漢からの疫病の発生



本当に必要な暮らしとは何か




一万年以上前からつい500年前までは同じものを大切ににしていた




先祖の言葉を大切に護ってきたホピ族の伝承




先祖の音霊を伝えるアボリジニのディジュリドゥの響き




同じものを伝えているよう気がします







アイヌがムイと呼んだ島



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨水

2020-02-19 16:09:34 | 日記


空から降るものが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になる


2月に雨のふることのない大沼に雨がふり

雪がとけて氷の湖面に成っていました

例年とはまるでことなる気候


例年とまるでことなることから連想される武漢

漢民族は自らを黄帝の子孫とよぶことがある

黄帝は徳を修める帝として夏、殷、周、秦の始祖から黄帝の子孫とされています。

兵を揃え、食料を増産し、八卦、法律、暦などを作ったとされる黄帝

漢民族の伝統的な宗教とされる道教

タオとは宇宙と人生の根源的な不滅の真理

八卦を用いて法を行う武力

東洋医学のはじまりとなる黄帝内経を編纂

東洋医学は自己治癒力を産出す治療





新型コロナ治癒した回復中の患者から採取した血漿を、重症や重篤患者に投与するのは非常に有效で、重要な手段となっている。

臨床において実際に患者に投与し、すでにとても優れた効果が得られている。


武漢の人達は、漢民族の求めた真の武力、真の医療を求めているのではないか



新たな循環からの中華思想の黎明の時なのか



陰陽のバランスが崩れると自然がバランスをとるという古へからのテーマ



縄文の遺跡からの風景に何か黎明のような雰囲気を感じました






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金鵄

2020-02-11 19:33:44 | 日記



神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)は日向(宮崎県)の高千穂宮を発って東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦を強いられました。
このとき、金鵄(キンシ、金色の鳶)が天皇の持つ弓の上端に飛来してとまり、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして戦意を削いで勝利をもたらしたと伝えられます。
その後、神武天皇は、大和を平定し、橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされます。


皇紀2680年

すなおに解釈すると

2680年前天孫族は出雲族と同じ武力であった

大きな和を祈る神武天皇に金鵄が舞い降り大和を築かれた

国津神を祀る大社殿を出雲に築き

幽冥主宰大神として祀った



出雲大社のお札に

日本の国土を開拓され国づくりにはげまれたあと

この国土を天照大神に奉還され

これにより国土の守護神として祀られた

神武天皇の即位する前より

農業、漁業、医療、縁結びの永い歴史がある


建国記念日は雪の奥山でも散策しようと





雪道を進むと晴天なのに束風が吹きます










一時間以上かかってキビタキに会えました






往復三時間 体力の限界を感じましたが




心が洗われたような





コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あさきゆめみし よひもせず

2020-02-09 17:40:53 | 日記



いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず


七五調の歌謡である今様の形式で、仮名を重複させることなく作られている

文中の「有為」は因縁によって起きる一切の事物。

転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたもの

匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。

いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい

などと、仏教的な無常を歌った歌とされています


なんとなくこの世とあの世は逆転しているようなイメージがあり

その逆転する世界に通うづるものが

祈りであると古への人は考えたのでは

今時は自分のために祈る人はいますが

自然と会話して祈る人は稀です

西ノ島が再噴火したのはまだまだ平成になることが必要な気がします

大祓いの祝詞は聖書と同じように幾度も編纂されてきたようです




たかあまはら

すめらみこと

とよあしはらのみずほのくに

あめつちのめぐみゆたけくきわみなく

ひかりあまねきうつしよ

はらいたまえきよめたまえ

あめのいわくら

あまのやえぐも

あしたのみきりゆうべのみきり

あさかぜゆうかぜのふきはらうことのごとく

こころのとびらをおしひらき

すめみおやのみまえにかしこみかしこみかしこみちかいたてまつる




そんな言霊を自らの言葉としてを詠うと祝詞になるのでは








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムイ

2020-02-03 20:11:47 | 日記



最近 宵の明星が気になっていたら


金星 三日月 武井(ムイ)の島の写真が撮れました




満ち欠けする金星





淡い三日月 武井の島






なにげなく夕陽を撮影していたら









三日月が見え、金星が輝いてきました



太陽、月、金星の順番で明るく見える星


金星は、ローマ神話よりウェヌス(ヴィーナス)と呼ばれ、
メソポタミアでその美しさ(明るさ)ゆえに美の女神イシュタル(アッカド語)、イナンナ(シュメール語)の名を得て以来、
ギリシャではアフロディーテと呼ばれる星


宵の明星、明けの明星である金星は


人の暮らしに律動をもたらす太陽と月と同じ作用が有るような


朝夕の光あまねく変化を照らす星






武井(ムイ)の島の伝説に



昔, この海域にムイ (オオバンヒザラガイ) とアワビが雑居していたが,アワビは貝殻で武装していないオオバンヒザラガイのことを骨なしの意気地なしと軽蔑していたが, ムイのほうも固い岩のような家をかぶって這い回り, 話をかけても, 顔も見せずに返事をしないアワビを頑固者として毛ざらつけていた。これが原因となって両方の間に戦いを起こした。海底での戦いは容易に勝負が決まらずお互いの損得が多いので, 話し合いの結果, 仲直りをし, このムイの岩礁を境にして西はアワビの領地, 東はムイの国として住むようになった。オオバンヒザラガイは世界最大のヒザラガイ類 (八枚の貝殻を持つ貝) で, 約40cmまで成長します。八枚の貝殻がバラバラになって, 海岸に打ち上げられることがあります。貝殻はチョウチョのような形をしていて, とてもかわいいものです。実は, オオバンヒザラガイの貝殻は軟体部に隠れていて, 生きている状態では, 外側から貝殻を見ることは出来ません。



武井(ムイ)の島の西側には鮫穴という洞窟があり、タコとサメがけんかしてタコが負けて去っていったという伝説も残っている。
この穴は、陸地にある丸山龍神の穴とも通じていたともいう。



武井の島近海が、寒流、暖流の接触、交錯する海域で、寒暖両海流の魚類の豊富な魚田である


武井の島のマンジュウ形の岩の頂上に、小さな祠(ほこら)があり、戸井町や近村の漁師たちは、「弁天さん」といって信仰している。この弁天さんの例祭は六月二十五日で、例祭には戸井町や近村の漁船が、大漁旗などで満船飾(まんせんしょく)を施してこの島に集り、盛大なお祭りを行い、海上安全と豊漁を祈願している。
 弁天さんが武井の島について、次のようないい伝えがある。
 「大阪の富豪『鴻(こう)の池』が、蝦夷地と交易をしていた、慶応三年頃(一八六七)、持船第二宝永丸に、鮭を満載して、年の暮も近い頃、石狩川の川口の入江を出帆した。出帆以来順風を満帆にはらんで南下したが、白神岬附近で暴風に遇い、風のおさまるのを待って箱館の港へ避難しようとして、福島沖に碇を下したが、碇綱が切れてしまった。船は西からの強風うをけ、更に津軽海流に乗って、カイもきかず、『アレヨ、アレヨ』という間に、箱館山を通り過ぎてしまった。船頭並に乗組員は、運を天に任せ、神仏に無事を祈った。
 不安と恐怖におののいている船人にかかわりなく、「情知らずのヒカタ風」が益々吹きつのり、潮流もいよいよ激しくなって、船体をゆさぶり、やがて汐首岬を越えて、武井の島附近にさしかかった。
 ところが武井の島沖に来たら、潮も風も浪もウソのようにおさまり、日浦の入江に漂着し、船も破損せず、船組員も全員無事であった。
 ヒカタの突風は、時が来るとピタッとウソのようにおさまるものだし、東流する潮流の終点は戸井沖なので、この二つが武井の島沖で、偶然一致したのである。
 太平洋に漂流して死ぬことを覚悟していた、第二宝永丸の乗組員の眼には、武井の島が神の島に見えたものであろう。乗組員一同が協議して、武井の島に感謝する意味で、船の舳先(へさき)に、守護神として祀っていた『弁才天』の神像を、武井の島に移し祀って、蝦夷地を去ったのである。



遠い蝦夷地の昔からムイノシマと呼ばれ、「無意の島」「武委の島」などという漢字の当てられた時代もあった


ムイの島は二つの異なるものの調和の象徴でもありそうです



武は調和をもたらすために使用するもの




新型コロナウィルス発生した武漢



真の調和の意思が試されているのか






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする