図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

 一而二 二而一

2011-05-13 21:21:58 | 日記

 「いちじに にじいち」と読むタイトルは、内村鑑三と同じ明治時代のキリスト教を日本に息づかせようと実践した新井奥邃が使われた言葉です。平成になってから普遍的なキリスト教の解釈が評価され全集が発行されました。
一から二が生まれ、生まれた二から一に帰す。
1つから異質なものが2つにわかれ、2つの相反する起点が、1つなる存在に帰ろうとする旅。
男と女、右と左、真偽、善悪、美魏、愛憎2つを結ぶことが生きる醍醐味。
それは、個人の考えでは立ち行かぬ次元。
祈りとは個人の計らいの範疇の中にあり、天地にゆだねた祈りとは難しいものです。
天地にゆだねた想いとは人生に起こることにただ感謝すること。
だから、嫌なことが有れば祈る前に、そのことに感謝をして見ましょう。
その方が改善が速まります。

   一二三神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ) 第一帖 では、
 われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。只存在するものが生れに生れつつある。地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。
只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。

一二三の弥栄とは、天地にゆだねた想いのように感じます。
それは、一而二 二而一と今起こることに感謝すること。

ですから生かされていることにただ感謝できることが一番の解決法では。
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 一二三の結

2011-05-04 13:45:05 | 日記

日本書紀には、「昔、天地は未だ分かれず、陰陽も分かれていなかった。混沌としている状態は鶏の卵のようで、ほのかに芽生えを含んでいた。その明るく清んだ物はたなびいて天となり、重く濁ったものは固まって地となった」

ひふみ神示 第09巻 キの巻
第十一帖 (二六八)
 一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。一二三は神の息吹であるぞ。

一二三のはたらきとはなんでろうか。
一は存在、今ある状況
二は分離と収束、同質のものが集まる。
三は立体となり、立々体と進み弥栄する。

一二三神示では善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合すること。
また美の因と愛の因が結合し、醜の因と憎の因がとが結合するとあります。
善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。
と書かれていますが、これは生前、生後の状態のみを言っているように思います。
生きている間だけ、善悪美醜真偽愛憎にぶつかります。
異質のものを結ぶことを、孔子は徳や仁という言葉を使い、釈迦は慈愛慈悲と言ったと思います。
このことを、一二三神示の中で苦労して魂磨いたものしかこの峠は越せんと書いているのでしょう。

天地自然の一二三の理法を色々な身近に起こることから感じ取って欲しいと命の親が伝えているようです。
先祖から続く命の親に生かされていることに感謝です。
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