般若心経では観音様は一切を五蘊の集まりであるとしています。
色即是空 空即是色 想いも行いも認識も二つの結びのあらわれ。
空の理法を地上で波のように羅し(経糸を絡ませて織り目が網のように広げ)
蜜のように味わってほしい。
そんなイメージをパステルで描きました。
神社のご神体の石に刻まれている直弧紋
円盤の中にいくつかの直弧紋が構成され立体的に結ばれているものもあります。
その直弧紋の真ん中の空間に空の理法を感じました。
仏法も神道も同じものをあらわしているように感じます。
日月神示では別な表現で
五十黙示録 第03巻 星座の巻
第一帖
この巻「星座の巻」。偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。
第十七帖
土のまんぢうと申してあろう、土が食べられると申してあろう、土から人民を生んだと申してあろう、ウシトラコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、土に生きよと申してあろう、地は血(智)であるぞ、素盞鳴命様であるぞ、その土が生長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ。
第二十三帖
二二の二の五つの今あけて、よろづゐんねん出づる時来ぬ。天の理が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が甘露台ぢゃ
天の星と大地は同じもの
大地から人は生まれたもの
それは、天の理を地にあらわすため
ひふみ神示は大地に天の理をまことをとおしてあらわしてほしい
と語りかけているように感じます。
それは大地に上に 般若の智慧を波羅蜜て五蘊をあらわすことのように思います。
般若心経は中ほどより内容が変化します。
最後の一行が一番ご利益を生むように書かれていることが多いように思いますが、
私は前半のほうに魅かれます。
霊感をお持ちの方が、
般若心経には貶められた中国の僧の恨みが籠められていると
書かれています。
日本の社会で般若心経がはたしていることを客観的に評価した言葉なのか疑問に
思っています。
霊的視点より内在神を説く方が、野田さんに義のあるかのように書いています。
日本の神の義、アメリカの圧力から霊的にバランスをとろうとして努力しているような内容です。
しかし、3.11の大地の響きから何かうみだしたのでしょうか?
己ではなく人を育てる想いがあるのでしょうか?
橋下さんにはスサノオの繋がりがあるとされますが、領土という物欲をあおる人間を頭とすることが破壊と創造を司る人の選択でしょうか?
目にみえぬ世界のことは
そのプロセスから何が生まれるか
そういう視点が大切と感じます。
ひふみ神示 第22巻 青葉の巻 / (ア火八の キ) 第十七帖
悪く云ふとめぐりつくるのぢゃ。
今度の建替へは人間智恵の建替へとは大分違ふ大層ざぞ、
日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、
月の神ばかりでもならず、
そこで月の神、日の神が御一体となりなされて「ミロク」様となりなされるなり、
日月の神と現はれなさるなり。
「みろく」様が日月の大神様なり、
日月の大神様が「みろく」の大神様なり、
千(チ)の御先祖様 九二の御先祖様と御一体となりなされて
大日月の大神様と現はれなさるなり、
旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ。
今は、出雲大社では神在祭がとりおこなわれ
日本の神々が出雲に一つに集う時
五三体の大神様 五三体の大神様、天之日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地(クニ)の日月の大神様、世の元からの生神様、百々(もも)の神様
日月神示に書かれる、一すじのま九十を十四て九れ(ひとすじのまことをとおしてくれ)
とは大儀を言うのではなく、
何が実行できたかということで判断すること。
唯一の神や大儀を言葉にしていても
命の循環する道筋でなければ洗濯される
今の選択が命の洗濯となってくるように感じます。
日月神示を解読しても
口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)がなければ
掃除身魂結構とはならぬのでしょう。
小悪魔が好きな方もおりますが
魔とはひとすじの神の結びからそれた存在
病気のようにバランスを崩した状態
まことの神の力をあらはす代となれるば
掃除される存在なのでしょう。
ただ善悪は相対的な感情から生まれるもの
破壊と創造を司る神の視点からどのように映るのでしょうか
自らの身の回りの選択の因果がすぐにあらわれる時期のようです
旧暦9月8日を過ぎ冬至を迎える期間
カムナガラとはどのようなものか思い巡らす季節かもしれません
善悪は難しいもの、ヒンドゥ教に伝わるマハーバーラタの最後に
神の道に尽くしたパーンダヴァ兄弟が地獄に落ち
宿敵のドゥリヨーダナが天国で暮らす
それが神の最後の試練として用意されています。
色々な可能性を心の底に問うてみたいですね。