図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

カミと神 タマと魂のいくさぞ

2012-05-20 15:04:02 | 日記

ひふみ神示 第01巻  上つ巻

  第一帖(一)
世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。

日月神示の第一帖の冒頭の部分は引用されることが多いですが
この部分はあまりふれられることが少ないように思います。
この二つ同じことばを現す部分は、ちょっと長くなりますが次の部分に書かれているように感じます。

五十黙示録 第02巻 碧玉の巻

第十帖
 岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。

同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな
とありますが、なぜ、己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、早く掃除せぬと間に合わんのか?

ひふみ神示 第13巻 雨の巻
  第一帖 (三三五)
 天の日津久の大神(あめの一二の )のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ。十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、

五度目の大き岩戸しめで神も仏も無く、市場経済という概念のなかで自らの幸せを探しているのが普通の日本人ですね。

今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。
赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、

ひふみ神示 第23巻 海の巻

第五帖
 今日(こんにち)までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教(みおしへ)ぞ、この御教に人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことのおろかさよ、三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々ふへるのみ、悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ、本来 悪も善もなし、只み光の栄ゆのみ、八股おろちも金毛も、ジャキも皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななふ所に御力の、輝く時ぞ来たるなり、善いさかへば悪なるぞ、善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ、只御光の其の中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界大和して、只御光に生きよかし、生れ赤児となりなりて、光の神の説き給ふ、誠の道をすすめかし、マコトの道に弥栄ませ。八月十五日、 のひつ九の しるす。

神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリとありますように
誠の道、マコトの道は一つでも捧げる心が大切なのでしょう。

ひふみ神示 第22巻 青葉の巻
第二十帖
 己の心見よ、いくさまだまだであろが、違ふ心があるから違ふものが生れて違ふことになる道理分らんのかなあ。世界の愈々のメグリが出て来るのはこれからであるぞ、九月八日の九の仕組 近付いたぞ。人民は早合点、我よしで神示よむから皆心が出て了ふて、誠知らしたこと毒とならん様 気つけておくぞ。薬のんで毒死せん様に気付けよ。今は世間では何事も分らんから、疑ふのも無理ないなれど、神の仕組は何事もキチリキチリと間違ひないのざぞ。宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、 T(た)の世界、も十の世界を知らんからさうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人、と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ、この道 神の道ぢゃ、光の道ぢゃ、教ぢゃ、悪と悪と、善と善と、悪と善と、善と悪と握る手持ちて御座れよ、心持ちて御座れよ、びっくり嬉し箱あくぞ。八月十日、ひつ九 。

明日は日と月が金色の輪に手握る日、 天の岩戸、地の岩戸、臣民の手で開かなならんぞ、
誠一つで開くのぢゃ。
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一厘の仕組みとは?

2012-05-05 16:16:29 | 日記

ひふみ神示 第27巻  春の巻
   第1帖(658)
新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。

 今年の五月は旧暦三月閏月、タツの年の春に一厘の仕組みをハラに問う季節なのかな?

「九分九厘まで進まねば後の一厘は判らん」
とありますがどこが九分九厘なのか、ハラに問うてみなければわかりません。

海の巻 第15帖 (507) にはこの様に書かれています。

「学や智や金がチラチラ出る様では、マコトが磨けて居らんのぢゃ、
今の法律でも、教育でも、兵隊でも、宗教でも、この世は建直らんぞ、
新しき光が生れて世を救ふのぢゃ、
新しき光とはこの神示ぢゃ、この神ぢゃ。
七つの花が八つに咲くぞ、
此の神示八通りに読めるのぢゃ、
七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど八通り目は中々ぞ。
一厘が、 かくしてあるのぢゃ、
かくしたものは現はれるのぢゃ、現はれてゐるのぢゃ。
何でもない事が中々のことぢゃ、判りたか。」

ひふみ神示データのhomeにとりあげられている象徴的な部分です。
一厘は隠してある。
それは現れ、現れている。
一厘は、何でもない事で中々のこと。
他にも
「九分九厘まで進まねば後の一厘は判らん、
今が九分九厘であるぞ、
日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、おのづから相違あるぞ。」
「これほどマコト申しても、残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、
うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。
神の仕組 見事成就いたすぞ。
一厘のことは知らされんぞと申してあろう。
申すと仕組成就せんなり。
知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。」
「神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。
内外共でなくてはならん。
残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。」

理屈ではなく心でうけとることが大切なのでしょう。
悪のなかにかくしてある、現われ、現れているものは
悪を悪と思ってはわからぬこと。
今までは、東北の方位は丑寅の金人を封印した鬼門とされています。
中国では、逆に神々が通り抜ける方角、あるいは太陽が生まれる方位(生門)であるために清浄の気を保たねばならぬという考えもあります。
大本教では、国祖である国常立尊はその統治に不満を持った神々により鬼門の方角に封印されたが、現在になり復活の時が近づいているという終末論を主張しています。
丑寅の方位、東北で現れた悪というと、3.11の震災。
震災の中から生まれた助け合う姿
不平や不満を言わずに整然とならぶ姿が世界中から注目を受けました。
「何でもないことが中々のこと」
震災を契機に我良しの考えにはっきり NOといえる人が生まれたように感じませんか。
震災をただ悪と捉えるのではなく、我さえ良ければという考えが大地の怒りを生むことに気づいて欲しい。
攻撃が最大の防御という自己中心の時代は過ぎて、生かされている環境にいかに感謝するよう変わって欲しいと訴えているように思いませんか。
天地自然身の回りすべてが命の親に結ばれている。
一厘の仕組みとは主張するのではなく、感謝することから始まる。
しかし、人の組み合わせは色とりどり。
無意識を魂の概念まで広げた心理学のユングは、
人の行動は9割が無意識に行動していると書いています。
神の仕組みは立体であり立立体であるというように感謝の立体を築くことは、
そう簡単なことではないでね。

一厘の仕組みを花開くすべが上つ巻の帖に書かれています。

ひふみ神示 第01巻  上つ巻 / (うへつまき)
第十三帖 (一三)
元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、
合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、
この五十九の身魂は神が守ってゐるから、
世の元の神かかりて大手柄をさすから、
神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、
これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。
この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、
よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、
たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。
何事も時節が来たぞ。六月の二十一日、ひつくのか三。

この帖を読むと59人以外の人はおまけなのかと思いますよね。
人の縁をつくるには、三色の人が七色の組み合わせの縁を結び
さらに七色の人が七色の縁を結ぶことで、
立々立体の全ての人の縁結びを完成することができるということなのでしょう。

なぜのそのような構造が必要なのかを 補巻 月光の巻では、

第五十一帖(八三九)
 世界を一つにするのであるから、王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。
うごきは二つとなるなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。
キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて和すのぢゃぞ。
和すから弥栄ぢゃ。
和せば一つぢゃぞ。
キミとなるのぢゃ。
そなたは自分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。
境界をつくらずに、おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。
世界一家のやり方 間違えて御座るぞ。
それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。
大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。
不足は不足をうむぞ。
そなたは口をつつしめよ。
そなたは一度 神をすてよ。
神にしがみついてゐるから、小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。
信ずれば信ずる程 危ないぞ。
大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。
神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。

天空に大きく満つる月に一厘の仕組みの弥栄を立々立体へと想へば心の心で取れるでしょうか。


コメント (2)
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