上代、神や人の呼び名の下につけた敬称
日月神示に
親と子であるからとあるように
神道では命は
神の分け御霊とされています
古への時代
命とは
神から産み出だされたもの
いつのまにか命は
脳波や心拍、瞳孔の目に見える状態からしか判断されぬようになってしまいました
暮らしのうえで命があるから感謝することもなく
命の尊さを生きる価値観として失ってしまったようです
いじめやテロに対応する現代の考えに
命は神からいただいた尊いものという考えがあるでしょうか
命の存在を現代の科学はとらえることができるのでしょうか
相対性理論に反する巨大な天体の存在にようやく気づくように
命の存在の巨大さに気づくときのように感じます。
うお座の時代から水瓶座のアクウェリアスの時代に移行したとされています
誕生月からは水瓶座に入りましたが
なぜ誕生月の星座の向きと時代の向きは
逆であるうお座から水瓶座なのでしょう
それは価値観の逆転を象徴しているように感じます。
神より産み出だされた天地自然の動き、大地の動き
それを天災と思うことは
価値観が逆転していないだろうか
目に見える結果からのみから生きる目的を探すこと
自己の成果を主張し争うこと
それは古への心と逆転していないだろうか
市場経済という価値観のなかで
徳をつむ価値をみつけることができるでしょうか
それは高度経済成長にはじまる
ほんの半世紀まえに加速したのでしょう
古への神殿では
天地のめぐみを神に感謝し
生かされていることに感謝していた
そうでないのであれば
天地自然のめぐみがなくなっても不思議ではない
日月神示(一二三神示)のなかに
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。
マコトの天照大神は太陽神としてもっと異なる面があるようです。
素盞鳴命の悪は悪でないとするなら
悪の象徴とされる八岐大蛇は悪ではなく
国常立神の現われとされる八大竜が隠れたことを示しているのかも
命(みこと)は、アラフル(現生る)神
命とは現生るために産み出されたもの
にほんのことばは うみいだすことば
古への言霊のさきはふ国がささやいているようです
日月神示に
親と子であるからとあるように
神道では命は
神の分け御霊とされています
古への時代
命とは
神から産み出だされたもの
いつのまにか命は
脳波や心拍、瞳孔の目に見える状態からしか判断されぬようになってしまいました
暮らしのうえで命があるから感謝することもなく
命の尊さを生きる価値観として失ってしまったようです
いじめやテロに対応する現代の考えに
命は神からいただいた尊いものという考えがあるでしょうか
命の存在を現代の科学はとらえることができるのでしょうか
相対性理論に反する巨大な天体の存在にようやく気づくように
命の存在の巨大さに気づくときのように感じます。
うお座の時代から水瓶座のアクウェリアスの時代に移行したとされています
誕生月からは水瓶座に入りましたが
なぜ誕生月の星座の向きと時代の向きは
逆であるうお座から水瓶座なのでしょう
それは価値観の逆転を象徴しているように感じます。
神より産み出だされた天地自然の動き、大地の動き
それを天災と思うことは
価値観が逆転していないだろうか
目に見える結果からのみから生きる目的を探すこと
自己の成果を主張し争うこと
それは古への心と逆転していないだろうか
市場経済という価値観のなかで
徳をつむ価値をみつけることができるでしょうか
それは高度経済成長にはじまる
ほんの半世紀まえに加速したのでしょう
古への神殿では
天地のめぐみを神に感謝し
生かされていることに感謝していた
そうでないのであれば
天地自然のめぐみがなくなっても不思議ではない
日月神示(一二三神示)のなかに
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。
マコトの天照大神は太陽神としてもっと異なる面があるようです。
素盞鳴命の悪は悪でないとするなら
悪の象徴とされる八岐大蛇は悪ではなく
国常立神の現われとされる八大竜が隠れたことを示しているのかも
命(みこと)は、アラフル(現生る)神
命とは現生るために産み出されたもの
にほんのことばは うみいだすことば
古への言霊のさきはふ国がささやいているようです