【南京進撃】
【南京進撃】
1937年(昭和12年)
11月7日
臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限された。
11月9日
上海戦線の中国軍は退却を開始した。
11月10日
・ソ連国防部長官ヴォロシーロフは航空機、重砲、ガソリンなどを支援すると張沖に伝える。
・午後11時50分:歩兵第6連隊長は、地雷排除のほか、「一般の良民は総て城内に避難しあるをもつて、城外に在る一切の者は敵意を有するものと認め、これを殲滅す。」「掃蕩に方りては家屋を焼却するを便とする」という内容の歩6作命第90号を下達した。
11月11日
南京追撃戦が発起した。
11月13日
16師団、白茆口に上陸し、同地を占領。歩兵30旅団を佐々木支隊とし、揚子江岸に上陸、敵の退路を遮断した。
11月15日
日本軍第10軍は「独断追撃」を敢行し、南京進撃を開始し、松井大将も容認した。
11月16日
中国、第一次防衛会議で劉斐作戰組長は、12〜18師団を南京に置き主力は撤退することを提案した。南京無防備都市宣言を建議していた白崇禧もこれに賛成し、何応欽、徐永昌も賛成した。しかし第二次会議では李宗仁は南京は孤絶しており守備は困難で放棄を建議した。ドイツ軍事顧問団アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは不必要な犠牲であると放棄に賛成した。しかし唐生智は南京は死守すると主張したため、何応欽は唐個人の責任にしてはどうかと発言し、蒋介石もそれを認め、南京を1年3ヶ月固守することになった。
11月19日
中支那方面軍は無錫・湖州の攻撃を準備した。
11月20日
皇居内に大本営設置。参謀本部に第十軍より南京追撃命令の報が届き、これに対して中支那方面軍参謀長に臨命600号の指示範囲を逸脱すると打電した。
中国国民政府は重慶への遷都を宣言した。この日の朝、波止場の下関は船を待つ人の山であった。蒋介石は唐生智を南京衛戍司令官に任命した。
11月21日
日本陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。(蒋政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
蒋介石は日記に「老人学者、軍事敗北、将軍は落胆し和平を望む、革命精神の欠落。日本と戦争している理由も分からない」と書いた。
11月22日
中支那方面軍が「南京攻略の必要性」を上申した。
11月23日
日本軍が無錫にいたり、中国では南京防衛線が突破された。
11月24日
第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。ただし多田駿参謀次長より南京方面への進撃はしないよう打電された。
11月25日
独立軽装甲車第二中隊は激戦の末、湖州に入城したが、市内はすでに掠奪されていた。16師団歩兵19旅団は無錫を突破したが、中国軍による掠奪は凄まじいものであったと犬飼総一朗同旅団司令部通信班長は述べている。
11月26日
唐生智が南京守衛部隊司令長官(防衛司令長官)に任命され、編成師団13個と連隊15個計15万の兵力を指揮下においた。午後2時30分、16師団は無錫の占領を完了した。
11月27日
蒋介石は南京城防工事を巡視した。
11月28日
・下村定作戦部長が多田駿参謀次長に南京攻略を同意させた。
・日本軍が宜興侵攻。
11月29日
16師団歩兵19旅団は常州へ進出したが、ここでも中国軍による掠奪は凄まじいものであった。
12月1日
大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第8号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令した。1日夜間、兵站自動車の亀谷部隊が下関を前進中、敗残兵400名に襲撃され、小隊長以下10名戦死、10数名負傷、自動車24輌が焼かれた。
12月3日
日本の上海派遣軍と第10軍計10万人余は、飛行機、戦車と海軍艦隊の援護で、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施した。
南京市内の水道が故障し、数日前より下関には常に3万〜5万の難民、退却軍であふれた。
12月4日
松井方面軍司令官は、南京郊外の陣地奪取を決定した。
12月5日
二ヶ月後にソ連が中国支援のために軍を派遣することを決定したと中国側に伝えた。
南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、安全区から中国兵が引き上げるなら攻撃しないとの日本からの回答を得たので、マイナー・シール・ベイツ、シュペアリングと唐司令長官に中国兵撤退を要請したが「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」と唐は回答した。ラーベは日記で「そんなばかなことがあるか」と唐将軍への不満を日記に記し、またドイツ大使館書記官ローゼンも中国軍が安全区のなかに隠れていることに怒っていると書いている。
12月6日(月曜)
句容陥落。そこから日本軍は三方向から進撃し、句容から孟塘を通過し、北の部隊が東流鎮を攻撃。深水から別部隊が秣陵関を攻撃。天王寺からの主力縦隊は淳化鎮へ進撃した。日本軍、浦口を空襲、死傷者300余。
【蒋介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(12月7日) 】
1937年12月7日(火曜)
・夜明け直前、総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した。またファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した。中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道。中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された。
國民軍軍事委員會第一軍令部徐永昌は下関碼頭一帯で渡河待機避難民は3日も待っているが、まだ渡れぬ者があると日記に書いた。
・中支那方面軍司令官松井石根は南京城攻略要領を示達し、敵兵が抵抗する場合は攻撃し、掃蕩戦を行うことのほか、掠奪などの不法行為が、特に外国人の大使館や安全区(中立地帯)において絶対にないように各部隊に命じ、違反した者は厳罰に処するとした。松井は作成にあたって、国際法顧問斎藤良衛博士の意見を取り入れるように塚田攻参謀に命じ、情報参謀中山寧人が各国総領事を訪ねて改めて位置を確認し、これを各部隊に朱書きして手交した。
「南京城の攻略および入城に関する注意事項」
1. 日本軍が外国の首都に入城するのは有史以來の盛事であり、世界が注目する大事件であるため、正々堂々将來の模範たるべき心構えをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為などは絶対に無いように。
2. 部隊の軍紀風紀を厳粛にし、中国軍民をして日本軍の威武に敬仰帰服せしめ、いやしくも名誉を毀損するような行為が絶対に無いように。
3. 外国権益、特に外交機関には絶対に接近しないこと。中立地帯には必要のないもの立入を禁止する。所要の地点に歩哨を配置する。 中山陵、革命志士の墓、明孝陵に立入を禁止する。
4.入城した部隊は選抜し、城内外の外国権益の位置を撤退して把握し、絶対に過誤のないように歩哨を配置する。
5.掠奪行為、不注意といえども失火したものは厳罰に処す。憲兵を入城させ不法行為を摘発する。
・午前10時、第10軍114師団歩兵150聯隊は秣陵閣に突入し、午後8時には高家荘に進出。
・18師団は寧国を占領し、国崎支隊は水上機動を利用して太平に向かった。
12月8日(水曜)
・日本軍は烏龍山、幕府山、紫禁山、雨花台に迫り、南京城を包囲した。
・上海派遣軍16師団は湯水鎮・淳化鎮に進出、天谷支隊(第11師団の歩兵第10旅団を基幹とする)は鎮江砲台を占領した[20]。中国軍は鎮江から退却する時、焼き払いに熱中した。
・第9師団は淳化鎮を突破し、夜間追撃。23時頃には馬鞍山陣地を突破した。
・第6師団は114師団左翼に進出した。
・中国軍は市民の暴動を恐れて少しでも怪しいところがあれば銃殺し、処刑されたものは100名を超えたと中国紙が報じた。N.Y.Timesのダーディン記者は、中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって焼かれたと報じた
【総攻撃】
12月9日(木曜)
・未明、114師団歩兵127旅団は将軍山攻撃を開始、突破した。包囲された300の中国兵は山頂に追い詰められ殲滅された
・払暁、第9師団は光華門に到達した。城内に押し戻された中国兵は、激しく抵抗したが、大砲、空爆、榴散弾の攻撃を受けた。
・16師団は下麒麟門、蒼波門へ進出。
・夕方、日本軍は飛行機で南京城内にビラを撒き、中国軍に対し降伏勧告を行なった。
・未明、114師団歩兵127旅団は将軍山攻撃を開始、突破した。包囲された300の中国兵は山頂に追い詰められ殲滅された
・払暁、第9師団は光華門に到達した。城内に押し戻された中国兵は、激しく抵抗したが、大砲、空爆、榴散弾の攻撃を受けた。
・16師団は下麒麟門、蒼波門へ進出。
・夕方、日本軍は飛行機で南京城内にビラを撒き、中国軍に対し降伏勧告を行なった。
日本軍は江南を席巻した。南京城はすでに包囲された。今後の交戦は百害あって一利なし。
江寧の地は旧都にして中華民国の首都である。明の孝陵、中山陵など古跡名所が多くあり東亜文化の精髄の感がある。
日本軍は抵抗する者に対しては寛恕しないが、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さない。
文化財は保護する熱意がある。
しかし、交戦を継続すれば、南京は戦禍を免れず、千載の文化は灰に帰す。
貴軍に勧告する。南京城を平和裡に開放せよ。
回答は10日正午中山路句容道上の歩哨線で受領する。
もし貴軍が責任者を派遣するときは、必要の協定をむすぶ。
回答がない場合は、日本軍はやむをえず南京城攻略を開始する。
— 投降勧告(原文中国語、現代日本語による抄訳)、大日本陸軍総司令官 松井石根
・午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記)。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した。焼け出された人が城内に避難した。ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した。南京は北部と東部が火に囲まれた。
・夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領したが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火し、炎の中で猛反撃に遭った。
・アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船した。
・唐生智は「各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長宋希濂は長江沿岸警備を担当し、他の部隊将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。この命令に背く者があれば即刻逮捕し厳罰に処する。」との命令を下した。
・夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領したが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火し、炎の中で猛反撃に遭った。
・アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船した。
・唐生智は「各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長宋希濂は長江沿岸警備を担当し、他の部隊将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。この命令に背く者があれば即刻逮捕し厳罰に処する。」との命令を下した。
12月10日(金曜)
・投降勧告の回答期限の正午が過ぎても中国軍からの反応がなかったので、午後1時、日本軍は総攻撃を開始した。
○第9師団左翼隊(36i,19i)は光華門、雨花台東端を攻撃。
○16師団は紫禁山を攻撃。歩兵9聯隊が桂林石房を占領すると前方の五重塔付近より追撃砲の射撃を受けたため、観測所である五重塔攻撃を意図したが、大隊長は「歴史的文化遺産だから破壊してはいけない」と頑として許可しなかった。歩兵33聯隊第三大隊は紫禁山東端の227・5高地を占領、第二大隊は16時382.5高地を占領。
○第10軍の114師団、第6師団は雨花台、将軍山正面を攻撃。
○午後5時30分、日本軍は光華門を確保した。
・唐生智司令官は午後7時、各部隊に死守を下命し、陣地を放棄したものは厳罰に処するとし、長江の渡江も禁止し、離脱兵が制止をきかずに渡江しようとした場合は武力で阻止せよと命じた。
・夜、第11中隊(94名)が雨花台82高地を夜襲、敵陣地を占領したが、中国軍に包囲され、手榴弾や砲弾を雨注し70名が戦死したが、24名でこれを撃退した。
12月11日
・唐生智司令官は蒋介石から撤退の指示を受けた。
・16師団は紫禁山南麓の西山を占領。
・午後から12日にかけて東京では南京陥落の誤報が各新聞によってなされ、祝賀行列がくりだした。
・唐生智司令官は蒋介石から撤退の指示を受けた。
・16師団は紫禁山南麓の西山を占領。
・午後から12日にかけて東京では南京陥落の誤報が各新聞によってなされ、祝賀行列がくりだした。
12月12日(日曜)
・早朝、敵の大型船5隻が揚子江を上流に逃走中との報告を受け野戦重砲13聯隊が射撃したが、英砲艦レディーバード号が含まれていた(レディバード号事件)。3隻は中国軍、避難民を満載したといわれる。
・中国軍によって、紫金山、南京対岸の浦口の長江岸全体が放火され、埠頭や倉庫も含め燃え、下関の半分も燃えた。
・午前7時、井上軽装甲車隊と独立軽装甲車第二中隊は右の雨花台の中国軍を攻撃、さらに独立軽装甲車第二中隊は中華門外の元部隊本部とみられる集落でガソリン200缶を鹵獲し、本道左方の中国軍400〜500を機関銃で射撃した。同隊は夕刻、500メートル退却して夜をてっした。
・12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始し、中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かった。中国兵は軍服を脱ぎ、平服に着替えた。それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報じた
・正午過ぎ、日本海軍第十二航空隊と第十三航空隊が揚子江上の合衆国艦隊パナイを誤爆したパナイ号事件が起きる。反日世論が起きる騒動になったが、12月26日に事態収拾した。アメリカでは真珠湾攻撃の序曲とみなされることもある
・13師団山田支隊は鎮江を出発し、揚子江を移動。
・第9師団右翼隊(7i,35i)は中山門東南城壁に近迫し、200メートルの水濠の渡河準備を行った。
・114師団は将軍山方面より周家凸、雨花台の線に進出し、一部は城壁に突入、師団主力は雨花台、周家凸の線以南に集結。
18時、16師団は488高地を占領し、紫禁山を占領。日本軍は城壁を突破し南京城内に進入した。
・13師団山田支隊は鎮江を出発し、揚子江を移動。
・第9師団右翼隊(7i,35i)は中山門東南城壁に近迫し、200メートルの水濠の渡河準備を行った。
・114師団は将軍山方面より周家凸、雨花台の線に進出し、一部は城壁に突入、師団主力は雨花台、周家凸の線以南に集結。
18時、16師団は488高地を占領し、紫禁山を占領。日本軍は城壁を突破し南京城内に進入した。
【唐将軍の逃亡と挹江門事件】
・20時、唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令するとともに、自分は長江左岸にポートで逃走した。この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていなかった。
中国軍は渡河撤退を一切考えていないと公言していたし、河にはわずかなジャンク船とランチ(小型船)しかなかった。揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れた。
・中国兵は挹江門、下関一帯に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。
・唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた。
・中国兵は挹江門、下関一帯に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。
・唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた。
【南京陥落】
12月13日
・午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領。同隊中隊長は全員戦死した。午前8時30分、16師団戦車第一大隊は中山門に到着した。13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領。
・揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領し、敵の退路を遮断した。
・午前9時頃、南京城内の新路口5番の民家に賊が押し入り、生存者で当時7〜8歳の夏淑琴の祖父、祖母、五女(0歳)を殺害し、夏夫人(母)と長女(16歳)次女(14歳)を強姦後に殺害した新路口事件が発生した。ジョン・マギーはこの賊を日本兵として東京裁判で供述した。
・夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した。ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた。
・独立軽装甲車第二中隊は雨花台北麓の兵工廟でドック内の中国人遺体400〜500を発見し、同隊本部曹長藤田清は中国軍が退却の際の処理かと推定した。藤田は雨花台付近で婦女子や非戦闘員の遺体は目撃しなかった。
・中国敗残兵は外国人に身を任せてきて、ダーディン記者に何十挺もの銃を押しつけた。日本軍は捕虜政策を実施せず、第16師団中島今朝吾師団長の12月13日の日記が捕虜殺害の証拠として論じられることもあるが、東中野修道は異論を唱えている(南京事件論争)。
・午後7時、2~300の中国軍が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃するが、撃退される
・ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をした。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった。
【掃討戦】
1937年12月14日
・午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777を上元門外の学校に収容)。
・南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)。掃蕩にあたっては
・午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領。同隊中隊長は全員戦死した。午前8時30分、16師団戦車第一大隊は中山門に到着した。13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領。
・揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領し、敵の退路を遮断した。
・午前9時頃、南京城内の新路口5番の民家に賊が押し入り、生存者で当時7〜8歳の夏淑琴の祖父、祖母、五女(0歳)を殺害し、夏夫人(母)と長女(16歳)次女(14歳)を強姦後に殺害した新路口事件が発生した。ジョン・マギーはこの賊を日本兵として東京裁判で供述した。
・夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した。ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた。
・独立軽装甲車第二中隊は雨花台北麓の兵工廟でドック内の中国人遺体400〜500を発見し、同隊本部曹長藤田清は中国軍が退却の際の処理かと推定した。藤田は雨花台付近で婦女子や非戦闘員の遺体は目撃しなかった。
・中国敗残兵は外国人に身を任せてきて、ダーディン記者に何十挺もの銃を押しつけた。日本軍は捕虜政策を実施せず、第16師団中島今朝吾師団長の12月13日の日記が捕虜殺害の証拠として論じられることもあるが、東中野修道は異論を唱えている(南京事件論争)。
・午後7時、2~300の中国軍が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃するが、撃退される
・ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をした。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった。
【掃討戦】
1937年12月14日
・午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777を上元門外の学校に収容)。
・南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)。掃蕩にあたっては
(1)外国権益への留意
(2)住民に対する配慮
(3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された
(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない
(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)
(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた
(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令され、通訳をつけて問題を起さないように注意もあったという。主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたとして、戦時国際法違反の疑いもあるとして戦後追求された(南京事件(南京大虐殺))。
・昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊があった、彼らは日本軍に包囲されている現状も知らずに戦っていた。
・午後2時頃堯化門において約7000〜7200名の中国兵が降伏してきたため、午後6時に歩兵第38連隊一中隊護衛をつけ仙鶴門鎮北側に集め、17,8日頃、中央刑務所(第一監獄所)に護送した。
・A・T・スティール記者がシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を報道
・ロイター通信のスミス記者によれば、14日朝までに日本軍は市民に危害を加えなかったが、14日昼になると6〜10人で徒党を組んだ兵が「連隊徽章を外して」、民家を見境なく「組織的に、徹底的に掠奪し」、15日までに中国人と欧米人の民家からは家財道具や壁掛け時計が掠奪されたとスミスはいう。
・東京では40万人が南京攻略祝賀の提灯行列を行った。
12月15日
・第13師団山田支隊が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜とし、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容したところ、夜に半数が逃亡した(戦史叢書)とするが、山田栴二日記では捕虜の仕末について本間騎兵少尉を南京に派遣すると「皆殺せとのことなり」とある(これに関する論争は幕府山事件(山田支隊の捕虜処断))。
・ジョン・ラーベは、日本軍が安全区に隠れていた中国兵1300人を捕えたので、射殺されると予想し、スマイスと日本大使館補福田篤泰に救援を依頼した。またラーベは、中国軍が済南で日本人捕虜2000人を射殺したとも日記に書いた。
・ダーディン記者は、交通部近くの防空壕に潜む100人以上の中国部隊に戦車砲で発砲がなされるのを見たり、整壕での10人ほどの兵隊の銃殺など、3つの集団処刑を目撃した。
・日本軍がすでに占領統治を開始した北京にある天安門広場には5万人の北京市民が集まり、日の丸と五色旗を振って南京陥落を祝っている姿が写真に残っているが、その前日に北京では、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府 (北京)が設立していた。
12月16日
・日本軍司令部は、軍服を捨て武器を隠し平服を着た中国兵25,000人が市内にいると発表。
12月17日
・日本の陸海軍による入城式が挙行された。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
・夜、第13師団山田旅団の残留捕虜(約4000)を揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり日本軍警戒兵を襲撃したため射撃を加え、捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した(戦史叢書)が、この事件は実は16日以後に日本側が意思として2万人の兵を殺害したとする中国側の意見や日本側にも笠原や小野賢二の研究がある。(詳しくは幕府山事件(山田支隊の捕虜処断))
・日本の陸海軍による入城式が挙行された。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
・夜、第13師団山田旅団の残留捕虜(約4000)を揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり日本軍警戒兵を襲撃したため射撃を加え、捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した(戦史叢書)が、この事件は実は16日以後に日本側が意思として2万人の兵を殺害したとする中国側の意見や日本側にも笠原や小野賢二の研究がある。(詳しくは幕府山事件(山田支隊の捕虜処断))
12月18日
日本の陸海軍合同慰霊祭が故宮飛行場で挙行された。